周防猿まわしの会のあゆみ

猿まわしの由来

猿まわしは日本列島に千年続いてきた最古の伝統芸能です。

 この芸能の不幸は、古の支配権力者によって馬屋のお祓い(馬を病気から守るための祈祷)を本業とみなされ、底抜けに楽しい芸は余興としか位置付けられなかったことです。そのため人々の集う神社仏閣の祭礼や縁日などで興業の場が与えられませんでした。しかし、近世の記録によると朝廷徳川幕府、諸大名は正月に猿まわしを呼んで馬屋のお祓いをさせた後、特設舞台を設け、初笑いに興じてます。猿まわしたちはこの芸能をなんとか大衆的なものにしていこうと努力しましたが、ことごとく退けられ、しがない大道芸として命脈をつないでゆく以外ありませんでした。

 明治維新では江戸を中心にして諸国にあった猿まわしがことごとく消滅、山口県光市浅江の高洲地区を中心にした東部地域(旧藩政時代・周防の国)にのみ残り、明治大正昭和の初期、隆盛をみます。大正の最盛期には、高洲地区には百五十名もの猿まわし芸人がいました。芸人たちは親方から賃金の前借をし、十人二十人と組を作って全国に散り、五月の中旬から翌年の三月まで丸々十ヶ月もの旅を続けて国民に楽しい芸を提供しましたしかし、親方の搾取と辛くて厳しい旅行きは猿まわしたちを地獄行きだと嘆かせ、次第に消滅への道をたどり始め、第二次大戦後、数名の人たちによって残されてきましたが、高度経済成長期・車社会の到来によって大道から追われ、昭和三十八年に消滅しました。

 現在の猿まわしは、昭和五十三年猿まわしの家に生まれ育った村崎義正が市会議員の職を投げ打ち、若者たちと共に復活したもので、国民のレジャー志向マスコミや高速道路網の発展の追風を得て猿調教に科学的新風を吹き込むことに成功し、瞑想猿のチョロ松などの名優を育て猿まわしブームを生み出しました。浮き草家業でなく、大地に根を張り、自前の劇場を持ちたいと言うのは猿まわし千年の悲願でした。それがこの様なかたちで実現したのです。雄大な阿蘇の恵まれた大自然の中で底抜に楽しめる日本の伝統芸能としていついつまでも残してゆくための一歩をいま踏み出しました。

 猿まわしは日本列島に千年続いてきた最古の伝統芸能です。

 この芸能の不幸は、古の支配権力者によって馬屋のお祓い(馬を病気から守るための祈祷)を本業とみなされ、底抜けに楽しい芸は余興としか位置付けられなかったことです。そのため人々の集う神社仏閣の祭礼や縁日などで興業の場が与えられませんでした。しかし、近世の記録によると朝廷徳川幕府、諸大名は正月に猿まわしを呼んで馬屋のお祓いをさせた後、特設舞台を設け、初笑いに興じてます。猿まわしたちはこの芸能をなんとか大衆的なものにしていこうと努力しましたが、ことごとく退けられ、しがない大道芸として命脈をつないでゆく以外ありませんでした。

 明治維新では江戸を中心にして諸国にあった猿まわしがことごとく消滅、山口県光市浅江の高洲地区を中心にした東部地域(旧藩政時代・周防の国)にのみ残り、明治大正昭和の初期、隆盛をみます。大正の最盛期には、高洲地区には百五十名もの猿まわし芸人がいました。芸人たちは親方から賃金の前借をし、十人二十人と組を作って全国に散り、五月の中旬から翌年の三月まで丸々十ヶ月もの旅を続けて国民に楽しい芸を提供しましたしかし、親方の搾取と辛くて厳しい旅行きは猿まわしたちを地獄行きだと嘆かせ、次第に消滅への道をたどり始め、第二次大戦後、数名の人たちによって残されてきましたが、高度経済成長期・車社会の到来によって大道から追われ、昭和三十八年に消滅しました。

 現在の猿まわしは、昭和五十三年猿まわしの家に生まれ育った村崎義正が市会議員の職を投げ打ち、若者たちと共に復活したもので、国民のレジャー志向マスコミや高速道路網の発展の追風を得て猿調教に科学的新風を吹き込むことに成功し、瞑想猿のチョロ松などの名優を育て猿まわしブームを生み出しました。浮き草家業でなく、大地に根を張り、自前の劇場を持ちたいと言うのは猿まわし千年の悲願でした。それがこの様なかたちで実現したのです。雄大な阿蘇の恵まれた大自然の中で底抜に楽しめる日本の伝統芸能としていついつまでも残してゆくための一歩をいま踏み出しました。

周防猿まわしの会の歴代調教師

重岡 フジ子

昭和5年4月27日山口県下松市生まれ

 最後の猿まわし芸人として夫婦で東京を中心に活躍するが昭和38年に廃業。ご主人の博美氏は猿まわしの火が消える去る寸前に活躍したこの道の名人である。フジ子さんには昭和55年1月から会の講師として「調教の極意」と芸人としての経験を若い人達に余すところなく伝授していただいた。現役の芸人としては、カブ、六二郎、ダンジュウロー、大吉などの芸猿とコンビを組んで、古典芸「月形半平太」「ドジョウすくい」「ねんねん子守」を披露、現代風の笑いやアレンジにも旺盛に取り組んでおられた。平成3年度芸術祭参加作品「周防猿まわしの会 猿まわし五人衆」に出演、芸術祭賞受賞の立役者となった。 軽快なバチさばきや独特のテンポは現在も周防猿まわしの会の芸の血肉となり受け継がれている。平成9年に村崎五郎と共演した「猿まわし復活20周年記念 ふるさと公演」の舞台を最後に引退したがその芸の魅力は今なお輝きを放っている。

 フジ子さんは現役引退後も、会の名誉顧問として亡くなった芸猿の供養を行い、周防猿まわしの会の行く末を見守ってくださっていたが、平成21年2月11日他界された。その日は、猿まわし復活の同志、村崎義正氏が過去病魔に倒れた日でもあった。

※「おんな猿まわしの記」
語り   重岡フジ子
聞き取り 田口洋美
発行所  株式会社 はる書房

昭和5年4月27日山口県下松市生まれ

 最後の猿まわし芸人として夫婦で東京を中心に活躍するが昭和38年に廃業。ご主人の博美氏は猿まわしの火が消える去る寸前に活躍したこの道の名人である。フジ子さんには昭和55年1月から会の講師として「調教の極意」と芸人としての経験を若い人達に余すところなく伝授していただいた。現役の芸人としては、カブ、六二郎、ダンジュウロー、大吉などの芸猿とコンビを組んで、古典芸「月形半平太」「ドジョウすくい」「ねんねん子守」を披露、現代風の笑いやアレンジにも旺盛に取り組んでおられた。平成3年度芸術祭参加作品「周防猿まわしの会 猿まわし五人衆」に出演、芸術祭賞受賞の立役者となった。 軽快なバチさばきや独特のテンポは現在も周防猿まわしの会の芸の血肉となり受け継がれている。平成9年に村崎五郎と共演した「猿まわし復活20周年記念 ふるさと公演」の舞台を最後に引退したがその芸の魅力は今なお輝きを放っている。

 フジ子さんは現役引退後も、会の名誉顧問として亡くなった芸猿の供養を行い、周防猿まわしの会の行く末を見守ってくださっていたが、平成21年2月11日他界された。その日は、猿まわし復活の同志、村崎義正氏が過去病魔に倒れた日でもあった。

※「おんな猿まわしの記」
語り   重岡フジ子
聞き取り 田口洋美
発行所  株式会社 はる書房

村崎 義正

 昭和8年3月7日山口県光市に生まれる。差別と貧困に自暴自棄となっていた青年期、同郷の詩人・丸岡忠雄氏の薫陶を受け、同和問題の真実を知り、胸を張って生き始める。その後、部落解放運動の闘士として活躍、差別は差別を受けたものだけでなく、差別する側にとっても不幸な問題と提唱、垣根を越えた差別解消の運動に全人生をかけた。40代半ばからはふるさとに残った猿まわしの復活運動に着手、幻になりつつあった芸能の聞き取りを進め、重岡フジ子のアドバイスを受け、それを参考に科学的な調教法を確立して、幻の芸能と言われた猿まわしを復活させた。浮き草稼業的な芸能からの脱却を図るため、平成元年3月には芸能と観光を結びつけた阿蘇猿まわし劇場を開設し、猿まわし継承の土台を築いた。それに先立つ昭和61年9月、猿まわし千年の歴史ではじめてとなる「猿まわし小劇場」を光市にオープンさせた。晩年、自身の人生や猿まわしと子育てをテーマに講演会に招聘され、共感を集めた。現在、周防猿まわしの会は義正の長男・洋一(芸名:源太)と五男・義則(芸名:五郎)が中心となって活動を継承している。

 義正の発想は自由闊達で、調教法開発の対象とした猿はニホンザルでなくインドネシア産のムーアモンキー「ゴロウ」であった。その思考は柔らかく、どんなに困難な状況に陥ってもあきらめることなく、人も驚く解決法を見つけた。ただし自身の活動によってえられた成果を自分のものとせず、身の丈にあった生活を続け、成功や名誉を得た後も人生を社会的弱者と共に歩んだ。タバコと酒、読書と釣りが好きで、仲間を集めては賑やかな酒宴を開いていたが、先陣を張った長年の疲れが体にたまり、平成2年2月23日、56歳の若さで他界することとなった。

※著作は「猿まわし復活」(発行所 部落問題研究所)など多数。

 昭和8年3月7日山口県光市に生まれる。差別と貧困に自暴自棄となっていた青年期、同郷の詩人・丸岡忠雄氏の薫陶を受け、同和問題の真実を知り、胸を張って生き始める。その後、部落解放運動の闘士として活躍、差別は差別を受けたものだけでなく、差別する側にとっても不幸な問題と提唱、垣根を越えた差別解消の運動に全人生をかけた。40代半ばからはふるさとに残った猿まわしの復活運動に着手、幻になりつつあった芸能の聞き取りを進め、重岡フジ子のアドバイスを受け、それを参考に科学的な調教法を確立して、幻の芸能と言われた猿まわしを復活させた。浮き草稼業的な芸能からの脱却を図るため、平成元年3月には芸能と観光を結びつけた阿蘇猿まわし劇場を開設し、猿まわし継承の土台を築いた。それに先立つ昭和61年9月、猿まわし千年の歴史ではじめてとなる「猿まわし小劇場」を光市にオープンさせた。晩年、自身の人生や猿まわしと子育てをテーマに講演会に招聘され、共感を集めた。現在、周防猿まわしの会は義正の長男・洋一(芸名:源太)と五男・義則(芸名:五郎)が中心となって活動を継承している。

 義正の発想は自由闊達で、調教法開発の対象とした猿はニホンザルでなくインドネシア産のムーアモンキー「ゴロウ」であった。その思考は柔らかく、どんなに困難な状況に陥ってもあきらめることなく、人も驚く解決法を見つけた。ただし自身の活動によってえられた成果を自分のものとせず、身の丈にあった生活を続け、成功や名誉を得た後も人生を社会的弱者と共に歩んだ。タバコと酒、読書と釣りが好きで、仲間を集めては賑やかな酒宴を開いていたが、先陣を張った長年の疲れが体にたまり、平成2年2月23日、56歳の若さで他界することとなった。

※著作は「猿まわし復活」(発行所 部落問題研究所)など多数。

初代会長
村崎義正からのメッセージ

※周防猿まわしの会 結成当時

 私たちのふるさと『高洲』は、近代猿廻し発祥の地です。御年配の方なら、どなたにもなつかしい思い出になっている猿廻しは、高洲部落を中心にした、周防一 帯(山口県東部)の部落から出ていました。最盛期は大正時代の初期ですが、高洲部落には、猿廻しの親方が、七人も、八人もいて、猿の数は百五十頭、専門の 調教師が幾人もいました。ですから、周防一帯では、猿が二百頭をかるくこえるくらいはいたことは確実です。これだけの猿を連れた人間の集団が、十組以上 に別れて、全国津々浦々、くまなく、歩き廻ったのです。

 ひょうきんな日本猿が、猿廻しの軽妙な太鼓のリズムにのって、いろんなむつかしい芸をやってのけるので誰でもびっくりしますが、ひとつ、ひとつのしぐさ も面白く、娯楽のなかった当時のこと、ほとんどの人々が、貧しく、暗い毎日を過ごしていただけに、どんなに親しみ、喜ばれたか解りません。「そう言えば、すっかり来なくなって久しいが、なぜだろう?」と思われる方も多いことでしょう。周防の猿廻し達が日本の社会から消えて行った原因は、いろいろあげられますが、最大の原因は、『差別』がつきまとったからです。大道芸は、いやしい人間 のやる芸だと思われており、さまざまな迫害を受けたからです。

 私は、高洲の歴史を研究するようになって、あれだけ、全国民に親しまれた猿廻しが、反面、こづき廻され、ふみつけられる、まったく悲惨な仕事であったことを知りました。私は、できるだけ多くの事実を知ろうと思って、古老達をたずね歩きましたが、口を固く閉ざして話してくれない人が多かったのです。たまに話してくれる人がいても断片的で、声を細めて語るほど、辛い思い出なのです。
 腹の底で、怒りがにえたぎりました。「こんなことがあっていいのだろうか」と・・・・・。どんなに素晴らしい文化であっても、不合理に押し潰してしまう社会のあり方が、許せませんでした。

 昭和四十五年くれのこと、小沢昭一さんが、「日本の放浪芸」取材のために、私の家へ、ひょっこり尋ねて来られました。たちまち意気投合して、丸岡忠雄さんともども、御交際いただくなかで、猿廻し芸の保存、継承、発展への展望がふくれてきました。 つい最近、民俗学者の宮本常一先生にお逢いし、いろいろご指導願ったのですが、「保存、継承、発展させてゆくことができるなら、日本民族、いな国際的にも、大きな貢献になる」とはげまして戴きました。日本の素晴らしい民族文化が、不合理な社会構造のなかで、次々に、消されてゆくのを、先生も怒っておられる一人です。

宮本先生や小沢さんの御支援を得て、猿廻しが、ふたたび、国民の皆さんのもとへ訪れることができるようになります。猿廻しの調教から芸までできる方が健 在であってくれたことは、またとない幸運でした。
 ぐうぜんではありません。『よいものは残る』ことを、しみじみと自覚しました。差別のかべを打破って、今度、姿をみせる猿廻しは、自然と人間が楽しく共存するものとして、かならず継承、発展されてゆくでしょう。

あたたかい御支援をこころからお願い申し上げるものです。

周防猿まわしの会
初代会長 村崎義正

 私たちのふるさと『高洲』は、近代猿廻し発祥の地です。御年配の方なら、どなたにもなつかしい思い出になっている猿廻しは、高洲部落を中心にした、周防一 帯(山口県東部)の部落から出ていました。最盛期は大正時代の初期ですが、高洲部落には、猿廻しの親方が、七人も、八人もいて、猿の数は百五十頭、専門の 調教師が幾人もいました。ですから、周防一帯では、猿が二百頭をかるくこえるくらいはいたことは確実です。これだけの猿を連れた人間の集団が、十組以上 に別れて、全国津々浦々、くまなく、歩き廻ったのです。

 ひょうきんな日本猿が、猿廻しの軽妙な太鼓のリズムにのって、いろんなむつかしい芸をやってのけるので誰でもびっくりしますが、ひとつ、ひとつのしぐさ も面白く、娯楽のなかった当時のこと、ほとんどの人々が、貧しく、暗い毎日を過ごしていただけに、どんなに親しみ、喜ばれたか解りません。「そう言えば、すっかり来なくなって久しいが、なぜだろう?」と思われる方も多いことでしょう。周防の猿廻し達が日本の社会から消えて行った原因は、いろいろあげられますが、最大の原因は、『差別』がつきまとったからです。大道芸は、いやしい人間 のやる芸だと思われており、さまざまな迫害を受けたからです。

 私は、高洲の歴史を研究するようになって、あれだけ、全国民に親しまれた猿廻しが、反面、こづき廻され、ふみつけられる、まったく悲惨な仕事であったことを知りました。私は、できるだけ多くの事実を知ろうと思って、古老達をたずね歩きましたが、口を固く閉ざして話してくれない人が多かったのです。たまに話してくれる人がいても断片的で、声を細めて語るほど、辛い思い出なのです。
 腹の底で、怒りがにえたぎりました。「こんなことがあっていいのだろうか」と・・・・・。どんなに素晴らしい文化であっても、不合理に押し潰してしまう社会のあり方が、許せませんでした。

 昭和四十五年くれのこと、小沢昭一さんが、「日本の放浪芸」取材のために、私の家へ、ひょっこり尋ねて来られました。たちまち意気投合して、丸岡忠雄さんともども、御交際いただくなかで、猿廻し芸の保存、継承、発展への展望がふくれてきました。 つい最近、民俗学者の宮本常一先生にお逢いし、いろいろご指導願ったのですが、「保存、継承、発展させてゆくことができるなら、日本民族、いな国際的にも、大きな貢献になる」とはげまして戴きました。日本の素晴らしい民族文化が、不合理な社会構造のなかで、次々に、消されてゆくのを、先生も怒っておられる一人です。

 宮本先生や小沢さんの御支援を得て、猿廻しが、ふたたび、国民の皆さんのもとへ訪れることができるようになります。猿廻しの調教から芸までできる方が健 在であってくれたことは、またとない幸運でした。
 ぐうぜんではありません。『よいものは残る』ことを、しみじみと自覚しました。差別のかべを打破って、今度、姿をみせる猿廻しは、自然と人間が楽しく共存するものとして、かならず継承、発展されてゆくでしょう。

 あたたかい御支援をこころからお願い申し上げるものです。

周防猿まわしの会
初代会長 村崎義正

光市無形民俗文化財に指定されました。

平成16年8月26日、光市文化財審議会が開かれ、『周防猿まわしの会』を無形民俗文化財に指定するとの答申が出されました。9月9日、光市浅江にある『猿まわし小劇場』にて、周防猿まわしの会代表者、村崎與一氏が記者会見を行い、文化財指定の報告を致しました。

 指定に際しての特記事項として、「周防猿まわし」は、文化財の指定に係る無形民俗文化財の種別(国指定の場合=文化庁)の内、8)その他の種別となる(大道芸)。 また、「猿まわし」の文化財指定は、今まで、国・都道府県・市町村のいずれにおいても指定の例がなく、全国初の指定となった。

 指定に関する調査報告書の結論には次のように記されている。

 猿まわしは総合的な芸能であり、別種である「猿」と「人間」の目に見えない関係(言語)を演技で表現し、観客に見せることであるという。このような関係(言語)は、相互に甘え合う関係を断ち切れた時(根切りの完了)に初めて成立するものであり、人間が出すサインを猿は瞬時に受け止めて演技をする。この関係性が成立していれば、猿が人間の出したサインを拒否する(演技をしない)ことは絶対にあり得ないという。もし、猿が演技をしない場合が発生したならば、それは芸猿が人間のサインを理解しないのでなく、サインを出した人間の方に問題があるという。「周防さるまわしの会」は、演技をして観客を楽しませる芸猿と人間の関係(言語)を作りあげるノウハウを会の設立当初に確立し、四半世紀に亘るたゆみない改良の努力を積み重ねてきた実績がある。その成果として、現在では新人を1~2年で確実に基本的な演技ができる猿まわしに育成可能なシステムを保持し、このシステムを確実に将来へ継承していくことができているという。また、「周防猿まわしの会」として資料館の設立を計画し、猿まわしの歴史資料を収集して、そこに示されたさまざまな伝統的な演技を習得することが、猿まわしの芸を将来に伝承することに留まらず、そこから、現代、未来に向かって新しい時代に生きた猿まわしの芸を展開できることになるという認識を、代表者である村崎洋一氏をはじめとする中心的なスタッフがもち、それを可能にさせるための努力をしている。近い将来発生するであろう動物保護法に則った日本猿の入手方法と、全ての猿のよりよい飼育環境を維持するために努力している。

 以上のようなさまざまな点で結成以来四半世紀のたゆみない努力によって、他集団にはない長所を備えた「周防さるまわしの会」における伝統芸能「周防猿まわし」を、現時点で光市の無形民俗文化財として指定することは、伝統的な猿まわしを保護し、未来に向けてよりよい継承に資する適当な措置であると考える。

 平成16年8月26日、光市文化財審議会が開かれ、『周防猿まわしの会』を無形民俗文化財に指定するとの答申が出されました。9月9日、光市浅江にある『猿まわし小劇場』にて、周防猿まわしの会代表者、村崎與一氏が記者会見を行い、文化財指定の報告を致しました。

 指定に際しての特記事項として、「周防猿まわし」は、文化財の指定に係る無形民俗文化財の種別(国指定の場合=文化庁)の内、8)その他の種別となる(大道芸)。 また、「猿まわし」の文化財指定は、今まで、国・都道府県・市町村のいずれにおいても指定の例がなく、全国初の指定となった。

 指定に関する調査報告書の結論には次のように記されている。

 猿まわしは総合的な芸能であり、別種である「猿」と「人間」の目に見えない関係(言語)を演技で表現し、観客に見せることであるという。このような関係(言語)は、相互に甘え合う関係を断ち切れた時(根切りの完了)に初めて成立するものであり、人間が出すサインを猿は瞬時に受け止めて演技をする。この関係性が成立していれば、猿が人間の出したサインを拒否する(演技をしない)ことは絶対にあり得ないという。もし、猿が演技をしない場合が発生したならば、それは芸猿が人間のサインを理解しないのでなく、サインを出した人間の方に問題があるという。「周防さるまわしの会」は、演技をして観客を楽しませる芸猿と人間の関係(言語)を作りあげるノウハウを会の設立当初に確立し、四半世紀に亘るたゆみない改良の努力を積み重ねてきた実績がある。その成果として、現在では新人を1~2年で確実に基本的な演技ができる猿まわしに育成可能なシステムを保持し、このシステムを確実に将来へ継承していくことができているという。また、「周防猿まわしの会」として資料館の設立を計画し、猿まわしの歴史資料を収集して、そこに示されたさまざまな伝統的な演技を習得することが、猿まわしの芸を将来に伝承することに留まらず、そこから、現代、未来に向かって新しい時代に生きた猿まわしの芸を展開できることになるという認識を、代表者である村崎洋一氏をはじめとする中心的なスタッフがもち、それを可能にさせるための努力をしている。近い将来発生するであろう動物保護法に則った日本猿の入手方法と、全ての猿のよりよい飼育環境を維持するために努力している。

 以上のようなさまざまな点で結成以来四半世紀のたゆみない努力によって、他集団にはない長所を備えた「周防さるまわしの会」における伝統芸能「周防猿まわし」を、現時点で光市の無形民俗文化財として指定することは、伝統的な猿まわしを保護し、未来に向けてよりよい継承に資する適当な措置であると考える。

主な活動履歴

昭和45年 秋

俳優の小沢昭一氏が放浪芸取材の為、村崎義正(初代会長、故人)を訪問。これをきっかけに猿まわし復活運動の気運が高まる。

昭和52年 12月

俳優の小沢昭一氏、民俗学者の宮本常一先生(故人)、民族文化映像研究所所長の姫田忠義先生、サル学の今西錦司先生(故人)達の援助で「周防猿まわしの会」、本格的な復活運動を開始。

昭和53年 1月

日本猿の調教に取り組む。

昭和53年 7月

村崎義正、調教法を確立。

昭和53年 9月

光市「5万人虹の祭典」で復活デビューを果たし、その模様がNHK「新日本紀行」で全国に紹介され、注目を浴びる。

昭和54年 1月

猿まわしの研究、記録を残すための保存団体から、猿まわしの芸を提供するプロの芸能集団に脱皮した。

昭和56年 3月

国立劇場、芸団協公演「道行く芸能」に出演。

昭和56年 5月

重岡フジ子、芸猿カブを調教、古典芸復活。

昭和61年 9月

猿まわし史上初の常設劇場、猿まわし小劇場が山口県光市で落成オープン。

昭和62年 7月

村崎五郎がコンビを組むチョロ松、ソニー・ウォークマンのCMに出演、大ヒットを記録。この年のCM大賞最優秀スポット賞、広告批評コンテスト第1位に輝く。

平成元年 3月

熊本・阿蘇に608人収容の本格的常設劇場「阿蘇お猿の里・猿まわし劇場」がオープン。

平成3年 10月

文化庁主催、芸術祭に「猿まわし五人衆」で参加。大道芸、動物芸として初参加でで芸術祭賞を受賞。

平成4年 9月

猿まわし史上初の海外公演をアメリカの地で行い、アメリカの方々より大歓迎を受ける。
 ニューヨーク・リンカーンセンター、セントラルパークで公演。ハーバード大学、ブラウン大学を親善訪問、交流を深める。

平成6年 1月

沖縄・名護市において猿まわし劇場出張公演を1ヵ月間実施、連日大盛況となる。

平成6年 8月~9月

五郎、チョロ松コンビ、北海道ツアーを実施。函館での猿まわし劇場の出張公演をはじめ、北海道中で好評を得る。

平成8年 4月

山梨・河口湖に655人収容の「富士お猿の里・河口湖猿まわし劇場」をオープン。

平成9年 11月

猿まわし復活20周年を記念して、山口県5ヶ所で「ふるさと公演」を実施、重岡フジ子が古典芸を披露し引退公演を飾った。

平成11年 11月

ロサンゼルスで行われた日米文化交流「US-JAPAN EXPO99」に日本の伝統芸能代表として招待を受け、出演。

平成12年

「20世紀の殿堂入りCM」にウォークマンCMが選出。CM業界に大きな足跡を残す。

平成12年

ニホンザルの二足運動能力に関する解剖・生理・運動学的総合研究が京都大学・大阪大学の共同研究者の手で始まる。

平成14年 11月

環境省が実施した「鳥獣保護法」改正に関するパブリックコメントに参加、「伝統的な鳥獣技芸(猿まわし)に用いる個体の捕獲を、保護の目的に明記すべき。」という周防猿まわしの会の願いに同意する意見書が全国各地から1407件も寄せられた。

平成15年 4月

東京・下北沢にて 復活25周年を記念して「THE 猿まわし」公演実施。猿まわし独自の手法による舞台づくりが始まる。

平成16年 8月

光市指定無形民俗文化財に指定される。

平成18年 4月

河口湖劇場10周年で入場者が120万人を越え、若い世代の調教師希望者が続々入門する。

平成20年 5月

勇治・常次コンビの新作「忍者 ハッタリ君」を上演開始、好評を呼ぶ。

平成20年 12月

村崎五郎が四代目チョロ松とコンビを結成、古典芸「月形半平太」に挑戦する。

平成21年 3月

阿蘇劇場がオープン20周年となり、オープン以来約800万人のご来場者を迎え、近年、海外のお客様が増大し、特に韓国を始め台湾・香港のご来場者が多く大好評。

平成21年 12月

環境省が実施した「特定鳥獣保護管理計画技術マニュアル ニホンザル編」に関するパブリックコメントに参加、「有効活用の具体的事例として猿まわしを明記して欲しい」と表明、全国各地から4000名を超える方々に賛同の意見を寄せていただいた。

平成22年 5月

くり松・かき松コンビの新作「正義のヒーロー サルヤマン」を上演開始、勘平・新八コンビの「元祖サルヤマン」のニューバージョンとなる作品である。

昭和45年 秋

俳優の小沢昭一氏が放浪芸取材の為、村崎義正(初代会長、故人)を訪問。これをきっかけに猿まわし復活運動の気運が高まる。

昭和52年 12月

俳優の小沢昭一氏、民俗学者の宮本常一先生(故人)、民族文化映像研究所所長の姫田忠義先生、サル学の今西錦司先生(故人)達の援助で「周防猿まわしの会」、本格的な復活運動を開始。

昭和53年 1月

日本猿の調教に取り組む。

昭和53年 7月

村崎義正、調教法を確立。

昭和53年 9月

光市「5万人虹の祭典」で復活デビューを果たし、その模様がNHK「新日本紀行」で全国に紹介され、注目を浴びる。

昭和54年 1月

猿まわしの研究、記録を残すための保存団体から、猿まわしの芸を提供するプロの芸能集団に脱皮した。

昭和56年 3月

国立劇場、芸団協公演「道行く芸能」に出演。

昭和56年 5月

重岡フジ子、芸猿カブを調教、古典芸復活。

昭和61年 9月

猿まわし史上初の常設劇場、猿まわし小劇場が山口県光市で落成オープン。

昭和62年 7月

村崎五郎がコンビを組むチョロ松、ソニー・ウォークマンのCMに出演、大ヒットを記録。この年のCM大賞最優秀スポット賞、広告批評コンテスト第1位に輝く。

平成元年 3月

熊本・阿蘇に608人収容の本格的常設劇場「阿蘇お猿の里・猿まわし劇場」がオープン。

平成3年 10月

文化庁主催、芸術祭に「猿まわし五人衆」で参加。大道芸、動物芸として初参加でで芸術祭賞を受賞。

平成4年 9月

猿まわし史上初の海外公演をアメリカの地で行い、アメリカの方々より大歓迎を受ける。
 ニューヨーク・リンカーンセンター、セントラルパークで公演。ハーバード大学、ブラウン大学を親善訪問、交流を深める。

平成6年 1月

沖縄・名護市において猿まわし劇場出張公演を1ヵ月間実施、連日大盛況となる。

平成6年 8月~9月

五郎、チョロ松コンビ、北海道ツアーを実施。函館での猿まわし劇場の出張公演をはじめ、北海道中で好評を得る。

平成8年 4月

山梨・河口湖に655人収容の「富士お猿の里・河口湖猿まわし劇場」をオープン。

平成9年 11月

猿まわし復活20周年を記念して、山口県5ヶ所で「ふるさと公演」を実施、重岡フジ子が古典芸を披露し引退公演を飾った。

平成11年 11月

ロサンゼルスで行われた日米文化交流「US-JAPAN EXPO99」に日本の伝統芸能代表として招待を受け、出演。

平成12年

「20世紀の殿堂入りCM」にウォークマンCMが選出。CM業界に大きな足跡を残す。

平成12年

ニホンザルの二足運動能力に関する解剖・生理・運動学的総合研究が京都大学・大阪大学の共同研究者の手で始まる。

平成14年 11月

環境省が実施した「鳥獣保護法」改正に関するパブリックコメントに参加、「伝統的な鳥獣技芸(猿まわし)に用いる個体の捕獲を、保護の目的に明記すべき。」という周防猿まわしの会の願いに同意する意見書が全国各地から1407件も寄せられた。

平成15年 4月

東京・下北沢にて 復活25周年を記念して「THE 猿まわし」公演実施。猿まわし独自の手法による舞台づくりが始まる。

平成16年 8月

光市指定無形民俗文化財に指定される。

平成18年 4月

河口湖劇場10周年で入場者が120万人を越え、若い世代の調教師希望者が続々入門する。

平成20年 5月

勇治・常次コンビの新作「忍者 ハッタリ君」を上演開始、好評を呼ぶ。

平成20年 12月

村崎五郎が四代目チョロ松とコンビを結成、古典芸「月形半平太」に挑戦する。

平成21年 3月

阿蘇劇場がオープン20周年となり、オープン以来約800万人のご来場者を迎え、近年、海外のお客様が増大し、特に韓国を始め台湾・香港のご来場者が多く大好評。

平成21年 12月

環境省が実施した「特定鳥獣保護管理計画技術マニュアル ニホンザル編」に関するパブリックコメントに参加、「有効活用の具体的事例として猿まわしを明記して欲しい」と表明、全国各地から4000名を超える方々に賛同の意見を寄せていただいた。

平成22年 5月

くり松・かき松コンビの新作「正義のヒーロー サルヤマン」を上演開始、勘平・新八コンビの「元祖サルヤマン」のニューバージョンとなる作品である。