チョロ松物語

 

第一話 チョロ松へ

 初代チョロ松は2007年(平成19年)1月14日に永眠しました。日本猿の年齢で29歳、人間の年齢にするとほぼ100歳と大往生であった。

 チョロ松へ

 君とコンビを組んだのは24年前の1986年(昭和61年)2月24日だったね。チョロ松は8歳、芸猿としては一番脂がのっていて、何より1人の調教師を辞めさせるまでに追い込んだ強者、僕は20歳、日本体育大学在学中で体力的にも自信に満ちあふれお互い血気盛んな頃ではあったと思う。そんな2人がコンビを組んで翌日デビュー、その日のことは当然忘れることはないよ。猿まわしにおける僕の原点だからね。当日は、ツアーの方が80名ぐらいだったかな。デビューと言っても君は芸歴6年、しどろもどろの僕とは対照的に無難に芸をこなしていく、そしてクライマックス、猿まわし十八番芸、輪抜けの『うぐいすの谷渡り』、君は全く飛ぼうとしない、飛ぶ気もない、僕のいうことを聞かない君の行動と焦っている僕を観ているお客様は大爆笑、公演終了後怒りのおさまらない僕は君を責めまくった。そして君を押さえようと掴んだ左手の親指に…。一瞬の出来事だったけど、僕の親指は君に食いちぎられていた。力で責めてくる僕に君は『ノー』と言ってたのに僕は気付かなかった。逆にそっちがその気ならやってやろうじゃないかという勘違いの方向にいってたような気がする。 

 親父(注:周防猿まわしの会初代会長村崎義正)に散歩の稽古を指導してもらった時のことを憶えているか。当時の日課だった多摩川の河川敷1.5キロの散歩、半分過ぎたあたりだったかな、疲れてきて歩くのを拒否する君を無理やり歩かせようとする。その時親父が「チョロ松は歩きたくないと言ってるのに何故お前は無理やり歩かせようとする。大切なのはまずチョロ松の気持ちだ。」それからしばらくしてチョロ松が歩こうとした時「そうか、歩くか、よしええど」チョロ松と会話している親父に驚いたし、何よりチョロ松の気持ちを大切にしていた。その時、もう1つ大切なことを教えてもらった。「ええか、やらせちょる芸は猿まわしの芸じゃない、お猿さんが自ら動くのが芸じゃ。」
 あれから24年間、楽しくも苦しくももがき続け、少しずつだけど調教というものを理解してきたような気がするよ。あの時君が言いたかったのはこういうことだったんだと思う。君も僕もお互いのことを何も知らないのに、僕は人間の一方的な理不尽さで「僕のいうことを聞け、俺をなめるな」と言わんばかりに力づくで動かそうとした。僕は君のことを知ろうともせず、「何故俺の言ってることを理解しない」と責める。本当に申し訳なかったと思っているよ。

 今も、周防猿まわしの会の芸能部長としてお猿さん、若手調教師、沢山のお客様から大切なことを学ばさせてもらってるよ。ちょっと気付くのが遅い気もするけどね。もう一度君とコンビを組めるのなら本当に嬉しいな。今の僕であれば、間違いなくあの時より君の持っている能力を引き出すことが出来ると思う。

 最後に、もう一点君に教えてもらった大切なこと、猿まわしの芸の主役はお猿さんであり、お猿さんの芸は命であり宝であること。肝に銘じて猿まわしの発展に努めるよ。

 チョロ松、本当に有難う!

第二話 親父の罠

 大学1年の冬、後期の試験を終え、次のバイト探しを始めようと考えていた時、1年に1回の本社(山口県光市)に集合する際に、親父から「義則も一緒に戻ってくればいいじゃないか」と話がある。日頃は学生の身分で、そんなに故郷に帰ってくる必要はないという親父が「帰って来い。」という言葉には、一瞬迷った。というのは、東京の事務所では、連日深刻な話が続いている。
 まさかとは思ったが、帰るにあたっては、「そろそろ猿まわしを継がないか」という話をふられた時の事も含めて、覚悟を決めておかなければと思った。
 そして、1985年2月20日、車で、山口に一緒に戻る。帰った際に、親父のにやけ方が妙に気になったので、友人のところへ遊びに出掛け、自宅にはなかなか戻らなかった。
 翌日の2月21日の夕方、自宅に戻ると、ダイニングで和やかな雰囲気の雑談が聞こえるが、こっそりと部屋に戻ろうとすると、「義則戻ってきたか。」と親父の声が、この瞬間にダイニングに行くのであれば、本当に覚悟を決めて行かなければいけない。本当に一瞬の間だが、覚悟を決めた。常日頃から、親父の口癖は「迷うな!返事をするのに何秒もかかるのは駄目だ。」と子供の頃から言われていた。
 「ちょっと来い。」と言われ、行くと、その空気には緊張感は全くなく、入りやすい雰囲気をつくってくれたのか、ただ座ると同時に、親父からは予想通りの話が即座に来た。
 「今日、今までのチョロ松のパートナーが辞めた。このチョロ松という猿は、素晴らしい猿で、このまま引退させるのは、猿まわしの会においてももったいなさすぎる。」
 「それで、お前の夢は、高校の教師になり、高校野球の監督で、甲子園に行く事だったな。俺からすると、大学でも沢山の事は学べる事も間違いない!ただ、甲子園に行くような指導者になりたいのであれば、猿一頭も調教出来ないようであれば、その夢も厳しい。どうか、チョロ松のパートナーになってみないか。」
 その時は、意地と自分が何とかしなければいけないという勘違いの甘さの考えから、即座に返事をした。
 「分かりました。ただ、今日は皆様(その当時の猿回しのメンバー)がいますので、ひとつだけ条件があります。大学は辞めない事、教員免許を取得して高校の先生になる。すなわち、大学4年までやるということでもいいでしょうか。」
 親父もその事は分かっていたかのように、
 「その事は分かった。大学4年までの3年間頼むぞ。」
 と言われ、その時、すでに親父の心の中では、「これで義則は一生猿まわしだ」という確信があったのではないかと思うし、罠というか、親父の思い描いた通りのストーリーになる事さえ確信していたのではないかと思う。

第三話 チョロ松の逆襲

 翌日、2月22日、チョロ松のボスになる為の儀式が行われた。その時、「今日、5番目の息子が調教師になるから撮影に来てくれ。」とドキュメンタリー「モンキーブルース」を制作していた地元テレビ局も呼んでいた。いよいよ儀式の時、緊張だとか恐怖心は全くなかったが、むしろ、村崎義正の息子として出来て当たり前、やれて当たり前という周囲の期待に応えるために開き直ってその場に臨んだ。チョロ松は周囲の空気を察していたのか、私の指示に従い芸をやってくれた。何よりもうれしかったのは親父が喜んでくれたことである。「やはり、俺は親父の息子だ。」と勘違いしてしまう。
 さらに、儀式を終えた後の親父の言葉にびっくりした。「2月23日、観光バスの予約が入っている。さっそく、明日がお前達のデビューだ。」
人前に立ったこともない、台詞も知らない私に「もう、デビュー?」驚いたが時間はない。それから数時間で台詞を覚えさせられ、翌日初めての舞台を迎えた。

 まともに台詞の喋れない私の言うことを聞くわけのないチョロ松、要所要所はチョロ松が勝手にやってくれたが、私の指示に全く動いてくれなかった。
 舞台直後、私はチョロ松を責めた。すると、チョロ松は猛然と私に立ち向かい、左手に向かって咬み付いてきた。チョロ松も命懸けだ。この時はわからなかったけど、チョロ松は凄かった。何が凄いかというと、チョロ松は最初から私が左利きということを見抜き、その左を殺せば、私に勝てるということをわかっていたのだ。この当時は、猿を押さえて背中を咬み付かなければボスになれないと考えられていた。チョロ松を押さえようとした、本当に一瞬の出来事だったと思う(時間にして0.3秒の世界)、私の左手の親指は出血し激痛が走った。お袋に連れられ、光市民病院の救急へ行ったが、「親指の第一関節からもげてますね。」私は震え上がった。というか、ここで初めて日本猿の怖さ!凄さ!野生の強さ!に気付く。
 「やっぱり俺には猿まわしの調教師は無理だ。今だったら辞められるのではないか。」意気消沈して帰宅した私に親父は一言「義則、4月7日(第一日曜日だったと思う)、埼玉県の桶川市役所のイベントが入っている。この仕事はお前が行け!」
 親父は、俺の逃げたいという気持ちをお見通しだったみたいだ。

第四話 不釣合いのコンビ

 それからすぐ、東京事務所に戻り、多摩川の河川敷で稽古の日々、自信をつける為に、前日代々木公園の歩行者天国で自主公演に行った。いつも親父が言ってくれていた言葉「呑まれるな呑め」を心の中でリピートしながらお客さんを食ってかかるぞという気持ちで向かったが、やればやるほど自信を失っていく、それもそのはず、チョロ松は芸歴5年、私とコンビを組むまででも数えきれないほどの舞台を経験してきてやるべき事がわかっている。それに対して私の台詞は支離滅裂。しかし初々しかったからか、立ち止まって観てくれるお客さんはとても暖かく応援してくれた。ご祝儀をくれるお客様の声で、「チョロ松君、凄いですね。お兄さんも頑張って下さい。」この言葉には悔しさもあったが本当に励まされた。

 実は私は人前にでるのがすごく苦手で幼少の頃から「あがり症」であった。緊張すると、どもりぐせがあり、デビューした当時は覚えた台詞も人前に出ると全部とんでしまい、何をしゃべっているのかわからない状態だった。でも、チョロ松はすばらしいお猿さんでダメな調教師の私とでも芸だけはやってくれる。猿まわしの場合はやっぱーお客様はお猿さんの芸を見ている。私がダメな分、逆にチョロ松の芸をよりすごいものにしていたのかもしれない(笑)。
 いよいよギャラをいただいての初めての営業、埼玉県桶川市役所のお祭り。その頃の猿まわしと言えばそれはそれは人気があり、会場は狭かったが、大道芸形式で、300~400人は集まっていたかなと思う。極度の緊張感の中、自分が何をしたのか全く覚えてない状態、これこそあっという間の30分。一通りの芸はチョロ松が完璧にやってくれたのは間違いないが、台詞がきちんと出来たのかすら憶えていない。こんな形で自分の猿まわし人生が始まった。

第五話 迷いと甘え

 桶川市の営業が終わって直ぐに、大学二年生の授業がスタートした。親父との約束事がいくつか決められていて「学校が始まったら、まずは学校優先。」ということになっていたが、その当時チョロ松に仕事(出演依頼)が入っているのはまれで、月に2~3本、シーズンで7~8本ぐらいだったのではないかと思う。だから、まずはきっちり学校に行くことができた。通学は片道、約2時間かかっていたため、朝は6時前に起きてチョロ松の散歩だけはやる。立川の河川敷で、約1.5Km~2Kmのコースを30~40分で歩く。お猿さんの小屋の掃除もやらなければいけなかったが、月曜日から土曜日は、同じ調教師仲間のJ君が居てくれたので、掃除は免除してもらい練習だけをして通学することができた。夕方は16時10分に授業が終わるとすぐに帰宅、18時頃から基本的な芸のチェックのため練習を繰り返していた。営業のない土、日、祝日は代々木公園の歩行者天国での自主公演(大道で芸を見せてご祝儀をいただく)にでかける。土曜日は授業がありJ君がチョロ松をキャラバンにのせて代々木公園につれてくる。私は授業が終わると合流して夕方まで10~15回前後、1回10分前後の公演をしていた。日曜日は歩行者天国の場所取りが厳しいので9時前には弁当を買って場所を確保し、12時の開始とともに18時頃まで自主公演を行った。仕事が入っていた日もあったが不思議とデビュー直後の桶川イベント以外あまり記憶にない。学校とチョロ松の両立に必死だったのかもしれない。なんて、かっこうをつけているが、入門して約1年の間、私は2回程、親父を悩ませている。末っ子の甘えとも言われていたが…。

 チョロ松との時間は限られていたが何とか芸を維持しようというだけでなあく、向上心もあったのだが、まだまだ調教師としてはかけ出しの私では何もわからず、どうしても芸を高めようと思えばチョロ松との責めぎあいも強くなり私の気持ちを一方的に押し付けてしまう、そして押し付ければ押し付けるほどチョロ松も抵抗し野生の凄さで向かってくる。調教の難しさ厳しさに直面すると必ず逃げたくなる気持ちを強く感じる時があった。覚悟のなさからか、甘えからか、それは必ず高校野球が始まるシーズンと重なっていた。高校野球のシーズンが始まると、何処か自分の気持ちは調教などに向かず、衝突の理由を作り逃げようとしていたのではなかと思う。

  1回目は7月の中旬頃、夏の高校野球東京大会の予選が始まっていた。何も考えず調教もしないで予選を1日中観に行っていた。2回目、年があけて3月下旬、春の選抜高校野球が開幕していた。その日は月に1度か2度ある多摩川河川敷での調教会の日、まったく調教に身が入らず、調教の指導を謙虚に受け入れられず突然の兄のTさんとの衝突、その場から飛び出した。経過は覚えていないが、気付いたら甲子園球場に来ていた。試合観戦に夢中になり2日ぐらいまったく連絡をとらなかったが、日に日に大変な事を起こしたという実感がわいてきて恐る恐る親父に電話を入れた。親父は私の考えていることぐらいはお見通しだったみたいで、「お前、甲子園に行っちょるんか、気がすんだら東京に帰れ。」さすが親父、完服であった。

第六話 スターへの階段

 1987年4月、大学3年生になり、週22時間の授業時間から、半分になりチョロ松と付き合いのできる時間も多くなってきた。そして、 GW(ゴールデンウィーク)5月5日の子供の日、某テレビ局の朝の情報番組のオープニングの生出演が決まった。当然初めてのテレビ出演、前日親父から電話がかかってきて、また驚きのひとこと「明日のテレビ出演、名前を変えるぞ!義則では平凡すぎる、国民の皆様からも憶えやすい、親しみやすい名前、五郎に変える」、戸惑いがなかったわけではない。勘ぐる訳ではないが、親父にはまた何か別の意図があるのではないか。実は猿まわしをやるにあたり親父と約束を交わしていることが2つあった。第二話で書いた学校優先でのスタートが1つ、もう1つは、教師を目指すという目標があったので、猿まわしは大学の3年間という約束だった。ある意味、猿まわしをいつやめてもいいと逃げ道を作っていたのだと思うが、名前を変えるというのは更なる責任と覚悟が求められるのではないか、自分の持っている夢や目標がある中で簡単に返事をして良いものなのか、返事をするまでに迷いはあった。しかし今までの親父の発言やアドバイスに間違ったことはないし、いつもそう信じていた。こうして「五郎・チョロ松コンビ」が誕生した。

 テレビ出演から2週間後の日曜日、代々木公園に自主公演に行っていたJ君のパフォーマンスを見て声が掛かる。SONYのウォークマンの新CMで日本猿を使いたいということ。他のお猿さんも見てみたいということで、翌日、東京事務所をたずねてきて、チョロ松の見事な体格(その当時10才で、身長95cm体重14kg)、そして何よりその素晴らしい姿勢がいいと、即決でチョロ松に決まった。他にも候補はいたが親父からも「これだけの大きな仕事をやってのけられるのはチョロ松と五郎しかいないだろう」と言う言葉もありチョロ松が選ばれた。「すごい!SONYのCMに出演か!」と大喜びをしていたのも束の間、数日経って、「ちょっとギャラが高すぎるので(動物出演としては破格のギャラ)」と断りの連絡が入り、落胆したが話は二転三転、1週間後、「やっぱりこのCMは周防猿まわしの会のお猿さんでないと無理みたいです、チョロ松くんでお願いします」と連絡があった。後で知った話だが、野生のお猿さんで撮影しようとしたが、イメージ通りの撮影が出来そうもなかったそうだ。まさしく、SONYのCMへの思いと周防猿まわしの会の目指しているものが一致したCMだと思う。絵コンテも決まり、撮影に向けて練習が始まる。ウォークマンを持つ時の肘は直角でないとダメ、SONYブランドを目立たせるため持つ手は絶対動かさない等、今までにない動きにチャレンジした。当時のチョロ松にとってはこの程度の撮影であれば・・・ぐらいの安易な気持ちでいた私達は、過酷な撮影当日を迎えることになる。

第七話 監督を魅了した表情

​ 1987年6月下旬、場所は神奈川県にある芦ノ湖のほとり、現場に入りスタッフの人数・機材に圧倒される。スタッフだけで50人以上はいただろうか。「一体何を作るの?ただウォークマンを持って立っておけばいいんだよね。」ぐらいの軽い気持ちで撮影に臨んでいたので想像していた以上の規模に驚き今までに経験した事のない緊張を感じた。撮影時間はうっすらと靄(もや)がかかっている時間帯を狙っているため、午前5時から8時前後(準備は2時間前から行うので3時過ぎには起床)、お昼は休憩して午後3時から7時過ぎまで一日7、8時間の撮影が三日間にわたった。 いよいよ撮影が始まった。チョロ松はいつも通りに見事な姿勢で「ひじは直角になっていてSONYブランドが強調できている。」と結城監督からもほめられ順調なスタートがきれた。「正直言ってこれなら簡単に撮影も終わるだろう」と思っていたが撮影が進むにつれチョロ松に求められることも厳しくなってきた。そしてもうひとつ自然との闘いがあった。たまに吹くちょっとした風でチョロ松の輝いた毛並みが動くと監督の「カット!」。そしてチョロ松は長時間の撮影と同じ動作の繰り返しで徐々に飽きがきてテンションが下がり、ウォークマンを持つ手が微妙に下がる。本当に微妙に下がるだけで監督の「カット!」。チョロ松に同情したくなる様な緊迫感の中で撮影が続く。あってはならないことだが二日目の撮影中には、私の気持ちが切れかける。すると撮影に立ち会った親父からは「五郎、代わりのコンビは他にもおるんじゃけえ、やる気がないなら今すぐやめて帰れ。」その時の私は言われれば言われるほどふて腐れてしまい空気を悪くしてしまう。監督から、「休憩しましょう。」という声がかかる。そんな時に盛りあげてくれたのが撮影スタッフの「げんちゃん」。彼は同世代でもあり共に大の矢沢永吉ファンだった。私がイライラしていると「五郎さん、永ちゃん聞いてリラックスしますか。」絶妙のタイミングで声をかけてくれる。こんなわけで、監督以下スタッフの方には本当に助けていただいた。だが、チョロ松はどうだろうか。愚痴も言えないしやめることもできない。チョロ松のことを考えれば弱音を吐いている場合ではないと気持ちを切り換えて撮影に臨むが刻々と撮影時間は過ぎていく。結局監督の納得する映像が撮れないまま二日目の撮影が終了した。

 そして撮影3日目の朝、その時が来た。撮影が始まって2時間ぐらい経ったのだろうか。休憩するのに何気なく立ち位置のところでチョロ松を椅子に座らせて休ませた。すると突然、監督の「その顔です」の一言。撮影中、私はチョロ松の前に穴を掘って隠れていたためリアルタイムでチョロ松がみえていなかった。私は「何?」と思ったが、チョロ松が椅子に座って休憩した時にうたた寝している表情が良いらしい。「えっ!これなの?」という感じである。というのは、チョロ松はリラックスして椅子に座れば必ずこういった表情をする。特別でなく日常のことだったからである。「この表情が良かったのなら、最初から言ってくれればいいのに・・・」と冷静に思っていたが、監督さんは、興奮しっぱなしだった。「椅子に座ればいつでもやりますよ」。今まで約20時間以上は立ちっぱなしだったチョロ松からすると、「こんなに楽でいいの」と面喰らった表情ではあったが、私は、「1秒でも長くいい表情をしてくれ」と祈りながら監督の声を待つ・・・「OK!」。これまでの張り詰めた現場の空気が一変した。チョロ松も私もこの3日間の疲れがとんだ瞬間だった。
長時間にわたる撮影、結城監督以下素晴らしいスタッフに恵まれ、このCMにかける情熱とねばりには感服した。本当にありがとうございました。そして何と言っても、撮影で約30時間も立ち続けたにもかかわらずケロッとして疲れを微塵も見せることがなかったチョロ松。撮影が野外ということ、照明が熱い、様々な困難な環境の下では普通のお猿さんであればじっとしている事は出来ないが、チョロ松の強靭な体力・精神力で撮影をやりきってくれ本当に感動した。

 SONYさんの意気込み、スタッフのバックアップ、周防さるまわしの会のこだわり、そしてチョロ松のさりげない仕草が凝縮して「瞑想する猿」というとてつもないCMが日本いや世界全体を席捲しようとしていた。


 本編から話はそれますが、

 これまでの猿まわし人生、本当に沢山の方に支えられ、励まされ、時には厳しく指導いただきながら頑張ってくることが出来ました。実は、2010年夏、私にとって大切な方が二人亡くなられました。一人は佐藤さん。猿まわしを始めて間もなく代々木公園で大道芸をやっている私に声を掛けてくれたことがきっかけとなり長年公私にわたりお付き合いをいただいた方です。年齢が18歳も離れているにもかかわらず、私のことをいつも兄弟のように心配してくださいました。最近では、周防さるまわしの会、そして河口湖猿まわし劇場の関東における認知度を上げるためにと自分の仕事はさておき私達のために本当にご尽力いただきました。自分のことよりまずは佐藤さんのまわりの人達がよくなることをいつも優先していた。付き合う中で不思議な方であった。もう一人の方は、「めでたや」の創始者である藤井信(まこと)さん。日本で初めて「餅つき」をパフォーマンスとして商いにした第一人者で、出会いは、私が猿まわしを始めた年の夏休み、横浜にあったドリームランドという遊園地でのイベントでした。初対面ながら執拗に「ショーが終わったら食事でもしようよ。」と声をかけられたりしましたが、まだその頃の私は若干人見知りの性格と協調性のなさもあり、また藤井さんがあまりにもしつこいこともあり絶対付き合いたくないというのが第一印象でした。その後も同じ現場で顔を合わせることがあったのですが、「ちょっと、おっさん(32歳当時の藤井さんのこと)のパフォーマンスを見てみようか」と見世物小屋を覗く。芸人「藤井信」の面白いのにびっくり、芸人としての魅力を感じ「藤井さんから学びたい」と思うようになりました。その頃の私は、お客さんをお客さんと思わず接する横柄なところがあり、帰りのロイヤルホストで、藤井さんに「お客さんがあるからこそお前達が活かされているんだ」と説教をされたのを思い出します。藤井さんは、私の芸人としての目標でもあり、時には兄貴のようにも慕った24年間でした。大切な存在でした。今後、「チョロ松物語」が進む中で、お二人の話しも紹介させていただきます。かなりきつい夏になりましたが、「苦しい時こそ前に進まなければいけない」という親父の言葉を思いだし、二人の分も精一杯頑張ります。

 ご冥福をお祈りいたします。 

第八話 チョロ松スターになる

 まず、第七話で書かなかったCM撮影秘話をご紹介させていただきます。

 「チョロ松くんの持つウォークマンは撮影用に何台用意すればよろしいでしょうか。」と撮影前にスタッフから連絡があり、「チョロ松が壊すことは多分ありませんが、3~5台もあれば十分です。」と伝えた。スタッフは万全を期し30台用意したにもかかわらず、撮影で使用したのはたったの1台だけ。普通のお猿さんであれば気持ちが切れたりするとウォークマンを落としたり投げたりするのだが、チョロ松はそーっとウォークマンを置くか私に手渡すのです。今考えてもお猿さん離れしたチョロ松の優しくて穏やかな性格、真面目さにはスタッフはもちろん私も驚かされました。

 本編に戻ります。

 過酷な撮影が終わり、夏休みを迎えようとしていた。スケジュールは相変わらず暇、40日間で7~8本の営業(ちなみにチョロ松指名の仕事は1本もなかったが・・・)があっただろうか。代々木公園や数寄屋橋で行う大道芸も夏は暑さが厳しい為夕方の限られた時間しか公演が出来ない。学校も休みになりある意味ゆっくり調整しながら営業に出て行く。今では考えられないが、のんびりとやれる時期でもあった。

 1987年7月中旬、CMが流される初日。朝から「どんなCMだろう」と興味を持って待ち望んでいたが、放送前までは軽い気持ちもあり期待感はほとんどなかった。CMを見て「ああ、こんな感じね」、いつも付き合っているチョロ松そのままであったから、私自身たいした感動はなかった。しかしそう思っていたのとは正反対でCMによって生活が一変することになる。CMが全国に流れ、SONYに問い合わせが殺到した。「CMに出ているお猿さんはぬいぐるみなんでしょ。本物のお猿さんなの。お猿さんがあんなうっとりした表情をするわけないでしょう。」「どこのお猿さんなんですか。」という内容だった。CM放送後1時間が経ち東京事務所の電話が立て続けに入り始め鳴り止まなくなった。事務所の壁に模造紙で書かれたスケジュール表が見る見るうちに埋まってくる。更に驚くのは、これまで数ヶ月先のスケジュールなんかは入る事も無かったのに、早々と、翌年のスケジュールまで入り出した。夏休みのスケジュールは2~3日で全ていっぱいになった。私はただただ驚きのひとことだが事務所のスタッフもこんな事態になるとは予想もしていなかったので突然の反響に慌てていた。ただ本社にいる親父だけはCM撮影直後から相当な手応えを感じていたようでいたって冷静であった。5月に芸名を義則から五郎に変えた時に「今後お前とチョロ松は必ず世の中に出ていくことになる。」と親父に言われたのを思い出す。CMが放送された直後に親父とどう会話したか憶えていないが「チョロ松」という周防さるまわしの会のスターが誕生し未来への希望を抱いたに違いない。さらに自分もびびってしまうような仕事が飛び込んできた。吉本興業が梅田花月への出演を打診してきたのだ。一流の芸人しか立てない舞台である。CMの反響の大きさをあらためて感じた。吉本興業からの打診を仲介してくださったのは大阪の音楽家すずききよし先生(もんたよしのりのお師匠さんでもある)、周防さるまわしの会復活当時から応援団のお一人だったのですぐに出演が決まった。

第九話 身の程知らずの大舞台

 夏休み一杯になったスケジュールをチョロ松とどのように片付けていったかお話しましょう。

 その当時はマネージャーやドライバーというものも付かない時代。チョロ松が入るステンレス製のゲージを備え付けた専用の車を私がひとりで運転しチョロ松と二人で全国各地のイベントお祭りに全て車で移動した。芸の披露はもちろん、依頼先への挨拶、現場での道具の運搬・セッティング・片付けまですべて私ひとりでやらなければいけなかった。可能な時は1日3ヵ所のイベントで4回の公演を行ったこともある。五反田のフィットネスクラブで午前中・午後と2回公演し、夕方中野サンプラザでのお祭りで1回、そして夜都内帝国ホテルのパーティに出演した。実は夕方の中野サンプラザでの出番待ちの時、たまたまホールでコンサートをやっていたジャニーズ事務所のトップアイドルマッチ(近藤真彦さん)が通りかけ「チョロ松くんと写真を撮らして欲しい」という一幕もあった。時には寝る時間もないぐらい移動したこともあった。名古屋でのイベントが夜の9時に終わり翌日のイベント先の宮城県牡鹿半島へ移動。イベントにギリギリ間に合う早朝の8時に到着し休む間もなく11時と14時の舞台、終わってすぐに翌日のイベント先に移動。しかし若さと勢いは怖いもので全く疲れを感じることはなかった。何よりその頃の忙しさは楽しくてしょうがなかった。そう言えば今でもよく憶えている話がある。CMの持つイメージは大きい。あるスーパーのイベント会場で舞台の準備をしていると店長が来られて一言「この道具はなんですか」店長、面白いことを言うなと思い「これはチョロ松が芸をする道具です」。すると店長は「えっ!チョロ松くんは芸をするの?ウォークマンを持って立っているだけではないの?」。ショーの時間というのはだいたい30分で設定されているのだが、「30分立っているだけでは間がもてないでしょう」と私は思ったが、店長はそう思っていたらしく、実は他の人からも同じ質問を受けることが多く、たいていの人は芸もせずにウォークマンを持っているだけと受け止めているのには驚かされた。

 それにしても夏休みは本当に飛びまわった。移動距離だけでも6,000キロ~7,000キロは走った。東京⇔関西方面だけでも5往復。
 そして夏休みの締めは8月21日~31日大阪の吉本興業梅田花月での11日間公演。梅田花月初、動物が舞台にあがるということで初日に記者会見も行なわれた。たくさんのマスコミの数に圧倒され徐々に緊張感が高まってくる。そして初舞台、私達の前に出演したのがあの「いくよ・くるよさん」だったことで、地に足が付いていない状態で出番を迎える。持ち時間は約15分。いざ舞台に出るが緊張がとれることなく時間は過ぎていく。そして、周防猿まわしの会の十八番芸「竹馬高乗り」はチョロ松とコンビを組んで一度も失敗したこのない芸であり絶対的に自信を持っていた。ところが私の動揺を見抜いたチョロ松はさぼってまじめにやろうとしない。竹馬高乗りの醍醐味は全長3m50cm以上もある竹馬をお猿さんが全て自分の力だけで立ててそしてバランスをとりながら一歩一歩登っていくところだ。しかしこの日は2mあたりまで登ったところから一歩も進もうとしない。何回かやり直すが同じ所で止まってしまう。「これは出来ないな」と諦めた私の気持ちをチョロ松に悟られてしまい最悪の結末になる。舞台袖のスタッフから「五郎さん時間です」の虚しい声、結局竹馬にチョロ松をのせて歩かせるだけになった。それでも袖に下がる時にお客様の拍手は鳴りやまなかった。お客様に救われたが申し訳ない気持ちで悔しくて情けなかった。「もしかしたら11日間出来ないかもしれない・・・。でもやめることも出来ない。」楽屋で悩み苦しんだが、「こんな時こそ練習しかない」と奮い立ち合間にステージを借り繰り返し稽古をした。チョロ松は完璧に成功してくれ「それでいいんだよ」と何度も確認しあった。「あとはチョロ松を信用するだけだ」という強い気持ちで2回目のステージへ臨み、一発で成功。大舞台という気負いからか、自分達の持っている以上のものを求めていたような気もする。その後は冷静になり自信も取り戻すことができたので失敗はなかった。しかし吉本興業という会社の芸人の荒い使い方には目の当たりにしてみると「さすが吉本」と感服させられる。吉本興業の仕事をもらっている11日間はチョロ松・五郎コンビは吉本の芸人として扱われる。というのは私は梅田花月に出演するだけぐらいに考えていたのだが、前日出番表が楽屋に貼られ(平日2回公演、土日3回公演)、更に1回目と2回目の出番の空いた時間や公演後や時には夜にいたってテレビ等の出演もさせられた。通常、周防さるまわしの会のギャラに含まれているのは舞台出演料のみでテレビ出演や取材は別料金なのだが吉本興業との契約では11日間すべて、そして朝から晩まで拘束されてしまい、こき使われる。でもお蔭様で瞬く間に有名になり女子高校生の追っかけ等も出てきたりして嬉しいこともありましたけど。

 最後に梅田花月でのこぼれ話がありますので紹介して九話を締めさせていただきます。梅田花月出演中に私達の出番のあとは「阪神・巨人さん」ということが結構多かったんです。ちょっと袖で勉強させてもらっていると必ずチョロ松の話をされるんです。「チョロ松の人気は凄いですね。でも凄いと言えばチョロ松くんのギャラ・・・。私達はこの舞台に立って1回3000円ですよ、チョロ松くんのギャラは100倍ですからね!!」と掴みのネタにしてくれました。私もギャラがいくらかは知らないんですけど・・・会社任せなので。

第十話 フライデー事件

 多忙な夏休みも無事に終え一息つけると思ったがチョロ松の人気は勢いを増し、テレビだけでなくマスコミへの出演や取材が連日連夜続いた。チョロ松の持たれるイメージからか女性誌が多かったことを憶えている。そして1クール(3ヵ月)だったCMの契約も当然1年に延長された。仕事よりも大学生活が優先だったはずの約束は、3年生の後期授業を迎えていつの間にか仕事優先にシフトが変わっていた。午前中はチョロ松を連れて大学の授業に出席し(当然チョロ松は授業に出るわけがなく営業車のゲージで待ってるんですが)、午後から営業という日もあった。しかしどんなに多忙であってもチョロ松と私の原点である代々木公園の歩行者天国には大道芸をするため通い続けた。そんな時にチョロ松の私生活が暴かれることになる。スターの証しとも言えるあの「フライデー」に狙われていた。歩行者天国のど真ん中で若いギャルに囲まれてデレデレしているチョロ松が激写されたのだ。カメラマンから来週号のトップページに載せるとのこと。あのフライデーに激写されたのだから発売されるのが楽しみだった。そして発売日の金曜日、朝一でコンビニに買いにいき確認するとチョロ松はギャルに囲まれて写っているのだが・・・あれ?私の姿が写っていない。よく見てみると、私は左足だけが写っていた。当たり前、スターはチョロ松なのだから。

 チョロ松人気はとどまるところを知らない。ダイナミックセラーズ社がチョロ松の写真集をつくりたいと提案してきた。撮影してくださるのは、あの高島史於先生だ。先生は動物写真を撮ったことがない。ダイナミックセラーズ社と周防さるまわしの会は先入観をもたずにチョロ松を撮ってくださる先生にお願いすることにした。

 完成した写真集「チョロ松くん」と10年後、意外な所で遭遇することになる。

 20数年に渡り周防さるまわしの会のアドバイザーとしてご尽力いただいている田口洋美氏と1997年10月東北大学を訪問した。田口洋美氏は、2005年、東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程終了後から現在まで東北芸術工科大学で教授として活躍されている。民俗学者宮本常一先生、並びに民俗文化映像研究所の姫田忠義所長に師事し、日本各地をその足で歩き廻りフィールドワークを実践してきた民俗学の継承者である。私達とは、周防さるまわしの会東京事務所開設前後から、猿まわしの歴史研究、芸の開発や企画などに参加してくださり、さらに阿蘇お猿の里猿まわし劇場オープン前から調教、芸猿の飼育管理などを中心にアドバイザーとしての役割を、そして現在は猿まわし芸能を取り巻く法制度等を含む環境整備に深く関わって下さっている。というか私にとって兄のような存在であり、かけがえのない友人であり、酒を飲む量を競い、猿まわし芸のあり方を口角泡を飛ばして議論する相手でもある。
 田口さんから紹介されたのが東北大学で日本猿を研究されている鈴木教授である。仙台市内の大学を訪ねると鈴木教授直々に正門に迎えられ「五郎さんに会えると思わなかった。チョロ松くんは私の日本猿への常識を超えた素晴らしい日本猿です」と挨拶をいただいた。鈴木教授の部屋に案内され、書籍棚にはお猿さんに関する本が数千冊はあったが、その中から先生がおもむろに一冊を取り出し「写真集チョロ松くんは私のバイブルです。新学期の最初の授業で必ず生徒に紹介するんですよ」とおっしゃった。意外な方がチョロ松のファンであり写真集「チョロ松くん」の愛読者であったことに喜びと誇りを持ったことを今でも忘れません。

 次回は鈴木教授に絶賛いただいた写真集「チョロ松くん」の撮影や出版について紹介する予定です。

第十一話 カメラマン 高島史於

 チョロ松の普段の生活を撮るためにカメラマンがやって来た。カメラマンは十話でも紹介した高島史於先生他3名のスタッフで多摩川河川敷へ着いた。毎日訓練している知った所とはいえ、今日のチョロ松は違った。いつも以上に威風堂々たる歩き方で土手をゆっくり四つ足で下りていった。もう撮影することを知っている感じでもあった。九月中旬とはいえ、まだ日中は残暑が厳しい一日で、普通の人でもかなりの休憩を挟みながらでないときついだろうなと思うほどハードな撮影だったが、チョロ松は陽が沈む夕方まで撮影に付き合った。少しも嫌がる態度を見せなかったチョロ松がたくましくも見えた。それにもまして、私が指示命令を出す前にチョロ松の方から高島先生の向けるカメラに反応して勝手にポーズをとっていたことが、いかにもチョロ松がスターであることを私にアピールしているかのようにも見えた。高島先生は「チョロ松くんは本当にすごい。人間のモデルでもなかなかカメラマンの狙ったポーズはしてくれないけど、チョロ松くんはカメラを向けると勝手に望んでいるポーズをとってくれる。やるべきことが分かっているんですね」。とおっしゃった。初対面からたった数時間の撮影で高島先生とチョロ松の距離はぐっと縮まって信頼関係すら出来ていた。チョロ松を尊重し、自然に輝きを引き出そうとしてくださる高島先生に感服した。

 写真集「チョロ松くん」は、ダイナミックセラーズ社編集部の上嶋光三氏の企画で実現した。実は第一弾で「ケニー・スケボーにのった天使」という一人の少年を題材にした写真集がベストセラーを記録し、その第二弾としてチョロ松に白羽の矢が立ったのだ。いわゆる社運を賭けた企画と聞き、プレッシャーを感じていた。また、撮影現場で、チョロ松に様々なポーズを求められリクエストに応えることができるか正直不安はあった。しかし初日の撮影を終え、高島先生の人柄を知り、何より先生がチョロ松に惚れ込んで下さったこと、この後続くであろうハードな撮影も高島先生ならチョロ松の良さを十分に引き出してくれると確信し不安は一掃された。この後、都内スタジオでの撮影、横浜を代表するスポットでの撮影が行われた。

第十二話 大人気! 写真集「チョロ松くん」

 撮影場所を多摩川河川敷から都内スタジオへ移す。閉鎖的な室内での撮影ということもありチョロ松の表情もややこわばっているような気がした。もしかしたらチョロ松らしさが失われるのではと私は心配したが、そこは「モデルチョロ松」と「カメラマン高島史於」の息の合ったコンビネーションで撮影は順調に進んでいった。80年代後半、バブル期絶頂の日本の世相や当時流行した人物等をチョロ松がパロる。バブル期の象徴である地上げ屋に扮する。カフェバーでダーツに、プールバーでビリヤードに興じる。当時来日した世界のスーパースター「マイケルジャクソン」「マドンナ」、そして日本のスポーツ界から「読売巨人軍のクロマティ」「江川卓」「西武ライオンズの秋山」、テレビで話題だった「スケバン刑事の浅香唯」、シネマ界から「男はつらいよの渥美清」「かぐや姫の沢口靖子」、ハリウッド映画界から「ロッキーことシルベスタースターローン」そして「ジャッキーチェーン」と名だたるスターをチョロ松が演じさせてもらった。撮影しながらチョロ松が各役柄の衣裳に着替えると本人ではないかと思えたりもして不思議であった。ちょっと持ち上げ過ぎかもしれませんが・・・。
 2日間のスタジオ撮影も終え舞台は横浜を代表する観光スポット、港の見える丘公園、山下公園、横浜外人墓地、元町などでの撮影に移った。外での撮影はチョロ松も活き活きとした表情になり、さらにチョロ松らしさが出せたと思う。最後の撮影場所はチョロ松と私の原点でもある代々木公園での歩行者天国だった。ゲリラ的な撮影だったこと、チョロ松人気が加速していたこともあり、久しぶりに行く歩行者天国ではどこに行っても沢山の人垣ができた。難航したところもあったが事故等もなく数日間に及ぶ撮影は終了した。

 写真集「チョロ松くん」は1987年12月27日にダイナミックセラーズ社より発売され、本屋での店頭販売はもちろん、自分達でも各地のイベント先で販売、毎回100冊~200冊準備して発売したが即完売になるほど好評を得た。

 出版後も高島先生のご好意で撮影した写真やネガなどを周防さるまわしの会のPR等に今現在も活用させていただいています。2003年4月14日、周防さるまわしの会復活25周年を記念した下北沢公演にも忙しい合間をぬって駆けつけてくださり、撮影までしていただき、その時の写真も使用させていただいています。高島先生と仕事が出来たことは私達にはとても大きな財産であったし、また今後先生とお仕事出来ることを楽しみにしています。

第十三話 明石家さんまさんと年末特番に出演

 2011年3月11日(金)、三陸沖を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生しました。 私の人生で経験したことがない想像を絶する大震災になってしまい、謹んで亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに被災された皆様、そのご家族の皆様に対し心よりお見舞い申し上げます。
 私の猿まわし人生は25年ですが、東北地方のイベントやお祭りなどにチョロ松・五郎コンビを呼んでいただきました。未熟なコンビを育てていただき暖かい声援をたくさんいただいきました。それだけに連日の報道・ニュースを見ていて本当に悲しく寂しい気持ちです。チョロ松がCMでスターになってからは、陸前高田市内の遊園地、宮城県くじらの町牡鹿半島、多賀城市内のショッピングセンター、名取市内の住宅公園、福島県浪江町サンプラザ、その他書ききれないほどの東北地方の皆様に囲まれて芸をしてきたので感謝の気持ちでいっぱいです。
 私もチョロ松とともに復興を願い応援してまいります。東北地方の一日も早い復興復旧に一丸となり歩んで行きましょう。


 1987年、本当に慌ただしい一年になった。その年の「CM大賞」では大賞こそ取れなかったが、「CM大賞最優秀スポット賞」に輝いた。チョロ松のSONYウォークマンのCMが、映像の素晴らしさ、「瞑想する猿」と言われた表情、そして真骨頂である「直立二足」の美しさが評価された。CM批評で権威ある「広告批評」が選ぶ1987年度の最優秀作品、数千人の広告批評家による投票で満票、チョロ松を採用してくださったSONY様、代理店の東急エイジェンシーの皆様、撮影に携わっていただいた仲畑広告映像所の結城監督他スタッフの皆様、黒澤フィルムスタジオの皆様へ感謝申し上げたいと思います。

 年末を迎えて各地のイベント・ホテルのパーティ等で忙しい毎日、さらに年末年始のテレビ特番へも多数出演した。リハーサルと本番がとても長く、チョロ松を落ち着かせるのに苦労した。比較的楽な収録だったのが「加トちゃんケンちゃん」である。加藤茶さんと志村けんさんがジャングルを探検しているとチョロ松がウォークマンを持って立っているのを見つけ加藤茶さんが「君があのチョロ松君か」という台詞のひとコマ、撮影時間にしてたったの30秒、拘束時間が短く本当にこれでいいのか戸惑った。大晦日の閉めの仕事は、「フジテレビのCM大賞?」という番組でした。その特番のオープニングを明石家さんまさんとチョロ松が飾る。モニターから映像で流れるチョロ松が一人でソファーにくつろいでテレビを見ている。そしてチョロ松が面白い番組はないかとリモコンでチャンネルを変えるとテレビの中でさんまさんとチョロ松が番組のオープニングのMCをやっているという内容だった。この部分は生放送でなく収録。さんまさんはお猿さんが苦手だったのでかなり難航したが、さすがさんまさん楽しい番組にしてくださった。

第十四話 秘められた構想

 1988年、新しい年を迎えてもチョロ松人気は衰えることはなく元旦から西へ東へ、営業車でチョロ松とふたりで各地へ飛びまわった。元旦から5日までは都内近辺、6日からは大阪市、堺市、高石市のパーティの仕事にまわり、正月最後は京都高島屋のイベント。高島屋は年末に当時周防猿まわしの会を代表するコンビ、兄のT氏も出演したくさんのお客様が集まったということもありチョロ松でどれだけの人が集まるんだろうか不安もあった。1月10日(日)当日、蓋を開けてみると当時トップアイドルだった「光GENJI」以来の人を集めたらしい。スペースが限られる屋上でのイベントだったが、2000人近くは入れただろうか、会場はいっぱいになり5階から屋上にかけて長蛇の列ができた。予定は一日2回(11時と14時だったと思う)のショーだったが、急遽3回のステージに変わり、用意していた写真集も1回目のステージで完売になるほどの大盛況だった。

 多忙な正月公演を無事に終えたかと思えば翌日からは大学の後期試験が始まり本当に慌ただしい日々の連続、けれどうれしいこともある。人生初の海外旅行が待っていた。会の福利厚生の一環として海外旅行に行くことが決まった。
 会長である親父はとにかく旅行が好きで、私は幼少の頃から日本各地の名所によく連れてってもらった。今でも憶えているのは、小学校6年生の時だったか、春休みが明日で終わるという日の前日、「明日、金比羅さま(香川県金比羅)へ行くぞ!」と言い出した。お袋や兄貴達は親父の突然の発言に迷惑そうだったが、私だけは親父と旅をするのは楽しくて「やったぁー!」と思った。今では日帰り可能な所だが、その頃は、瀬戸大橋は無く、松山からの高速道路もない。早朝のフェリーで松山まで行き、何時間もかけて金比羅さんまで車で走る。現地に到着するまでに疲れ果てた上に、本堂までの785段もある階段を必死に登った。最後に旅行の目的の一つだった讃岐うどんの店に寄る。頼んだ讃岐うどんがイメージと違い一同がっかりした。こんな風に村崎義正のぶっつけ旅が行われた。今思えば少し押し付けな旅でもあったが、サービス精神たっぷりの親父との旅行は本当に楽しかった。
 しかも今回は海外旅行。実は飛行機に乗るのも初めてだった。お猿さん達の世話があり誰かが残らなくてはいけないが、その役はJ君が引き受けてくれた。J君は海外旅行より、本社(山口)に残りお猿さんの面倒を見ながら、夜は田舎の仲間と遊ぶ方が楽しいのだ。チョロ松その他お猿さん達のお蔭で人生初の海外旅行にも行け、本当に満喫できた。チョロ松も仲間といる時間を楽しんだようだ。
 この海外旅行出発当日2月1日に入門したのがD君である。私の従兄弟にあたり、東京に出て理髪師の修業をしていたが、再三の引き抜き工作に負けて入門してきた。モテモテの明るい若者で人当たりも良くどの分野の仕事でも頭角を現しそうな感じがする。もちろん猿まわしにはうってつけのキャラクター、期待を集めての入門だった。そして、初の仕事が海外旅行という甘い汁を吸わされた。芸名はDとなり以後20年以上にわたり周防猿まわしの会の屋台骨を守り続け苦労を背負わされることになる。兄のT氏を始め周防猿まわしの会から多くのメンバーが去っていったが、後々、D君、J君、そして私の三人で会を支えていくことになろうとは思いもしなかった。

 サイパン旅行を終え、福岡空港へ到着した直後親父がまた突拍子もないことを言い出した。「折角だから阿蘇山に行こう」。暖かいサイパンに行ったのに何故寒い阿蘇に行くんだろう。親父の性格から考えるとたぶん楽しいサイパン旅行が終わりこの雰囲気を終わらせたくなかったのかなと思っていたが今考えてみると親父はまだ誰にも語っていない構想を秘めていたのだ。
 実は周防猿まわしの会復活後、悲願であった猿まわし専用の小劇場を故郷山口県光市に作った。観光地とは言い難い地であったが、たくさんの来場者に恵まれた。大道芸、放浪芸といわれた猿まわし、芸の継承には安定した基盤を確立しなければならない。小劇場を成功させてくださったお客様が教えてくださったのは観光地への進出。親父は会の次の目標として九州を代表する阿蘇への進出を一人目論んでいたのだ。サイパンで長年の疲れを癒しながら視線ははるか先の阿蘇に向かっていた。

 「折角だから阿蘇山に行こう。」まだ誰も知らないドラマが始まろうとしていた。

第十五話 へそくり 一千万円の勇気

 暖かいサイパンから一路真冬の阿蘇山へ。サイパン旅行の余韻に浸り、程よい疲れで車中の会話すら当然なくなっていたが、そこは日本を代表する観光地「阿蘇山」が私たちを迎えてくれるとみんなの表情も次第に緩んできた。阿蘇登山道路(赤水線)の入り口から800メートルほど入ったところで親父は車を止めて歩き出した。何かに関心をもったのかと思ったらただ立ち小便をしに行ったらしい。しばらく戻ってこないので様子を見に行き「親父、大丈夫かね」少し離れたところから親父の声が「ちょっと中に入って来い」。そこは人間の姿を覆うほどのうっそうとした葦で囲まれていて、人が歩いた形跡なのか小道ができていた。その小道を5メートルほど入ったところにうっすら霧がかかっていて何とも幻想的な池があった。そこにあった池をしばらく眺めていると突然「よし、ここに劇場を建てるぞ!」と言われ私は驚いた。誰にも打ち明けていなかったが観光地として好感を抱いていた九州への劇場進出を密かにもくろみ、メンバーを引き連れての阿蘇への寄り道だったことに気づいた。親父が「やる」と決めたら行動は早い。その場ですぐさま現地の不動産業者を捜し阿蘇の調査に動き出す。業者からは登山道をさらに2キロ登ったところに別荘や飲食店もあり開発も進んでいる土地があるからとそちらを勧められたが、親父は直感で一目ぼれした池付近以外、別件の話しには見向きもしなかった。強い決意は幸運を呼ぶ。阿蘇進出に欠かせない人物を紹介された。その方は代々、阿蘇の長陽村下野地区発展のために尽力されている塚元隆氏だった。後に長陽村議会議長も務められた方だが、腹の据わった人物同士意気投合するのに時間はかからなかった。この地に惚れ猿まわし劇場を作りたいと力説する親父に協力を惜しまないと約束してくださった。

 この地に猿まわし劇場建設が決まると 親父はこの池を勝手に『麗岳湖』と名付けた。そして、親父は麗岳湖の魅力をこう書き残している。「阿蘇五岳に雨が降ります。その水が地中深く浸透して地下水脈をつくり、それがお猿の里建設用地そばの小湖に湧き出しています。ぼうだいな水量で、どんな渇水期でも豊かに湧き出して、尽きることがありません。壮大な阿蘇のもうひとつの象徴と言えましょう。水豊かな土地は栄えると言われていますが周防の猿まわしは本当に恵まれていると思います。会長はいま、この豊かで神秘的な小湖のよさをとり入れ生かしながら、どう活用するか、好きな魚釣りも忘れて思案にふけっています。」(村崎義正著 猿まわし通信79号)

 サイパンから阿蘇山経由で本社(山口県光市)に戻ると、すぐさま地元の金融機関に話を持ちかけたが突然沸いて出てきたような夢のような話には付き合ってくれるはずもなかった。親父の中では確固たる自信の上での構想だったと思うが金融機関だけでなく会の面々すら賛同する雰囲気ではなかった。それに、たかが復活して10年足らずの芸能団体、ようやく経営の基盤が整いつつあった時期だし、復活には莫大な費用もかかっていたので預金もなかったはずである。しかし、救世主が現われた。阿蘇に猿まわしの劇場を建てたいという親父の夢に唯一賛成したのが意外にもいつもはブレーキ役にまわる、私の母親でもあるが、妻「節子」であった。暗礁にのりあげている親父を見兼ねて、コツコツ貯めた虎の子の1000万円をぽんと出した。それも亡き母親が節子のために残してくれた数十万円を元手に何年もかけ、特に夫の義正には内緒で蓄えてきたへそくりだった。親父は、節子のことを山之内一豊の妻だと大騒ぎし、その後もことあるごとにその話を得意満面に語るようになった。「ケチな節子が1千万円を出してくれた。」これこそ鬼に金棒、節子の心意気に俄然、親父の萎えかけた闘志に火がついた。そして約一ヶ月後の3月上旬東京へ。「阿蘇お猿の里・猿まわし劇場」事業計画を作成し、東京の金融機関に話を持ちかけるために一人で上京してきた。東京駅に迎えに行ったときの親父の格好には呆れるというか開いた口が塞がらなかった。スラックスに上着は半纏。「親父、その格好はまずいじゃろ。」すると「人間格好じゃない。ありのままの村崎義正を見てもらって判断してもらえばええ。」飾ることなく勝負する、それが親父だった。池袋にある金融機関まで送り、その後私は立ち会っていなかったので詳しい内容はわからないが、その金融機関の常務取締役他2名の方と約1時間面談できたみたいで、駐車場に戻ってきた親父はまんべんの笑みで「阿蘇に来るそうじゃ。」本当に嬉しかったんだと思う。今でもあの時の親父の希望に満ち溢れた笑顔を忘れることはない。なんども消滅の危機にさらされてきた伝統芸能猿まわしが大地に根を張り基盤を固める。そのために観光地に自前の劇場を持つのだ。豊かな自然の中でお猿さんを飼育し、調教法の研究、大道芸から舞台芸へ発展させる。親父、周防猿まわしの会初代会長の壮大なる野望が現実に向かって動き始めた日になった。恐るべし「村崎義正」、それを象徴する一日であった。

 最後に、チョロ松物語の連載を始めてお陰様で1年が経ちました。河口湖の劇場でも「読みましたよ」とか「毎月楽しみにしていますよ」等たくさんの声もいただき本当に励みになり書いています。もっと全国の皆様に「周防猿まわしの会」という芸能団体を知っていただくために丹念に書き続けていきたいと思います。これからも忌憚ないご意見、ご感想をお待ちしています。

第十六話 ススキ

 都内の金融機関から、背広を着た紳士達数人が阿蘇を訪問してくださった。常務取締役という名刺をもたれた方が視察のリーダーであり、融資するかどうかの最終判断をされるのだ。進出の前提として、土地は買収、そして自前の劇場を建設することが親父の基本的な考えだ。初期投資に膨大な資金が必要になるし、途中で事業が困難だからと簡単に放棄することもできない。後ろは谷底、前に進むしかない。それが親父流の覚悟の見せ方である。初期の周防猿まわしの会にとってのるかそるかの大事業であることは間違いない。投資額は数億円、見たことも触ったこともない大きな金額である。予定地を丹念に紹介し事業を説明した。こんこんと湧く麗岳湖周辺の美しさ、周囲の落ち着いた地勢についても建設予定地として最適であること、何よりも「阿蘇五岳」(阿蘇山の別称)に登っていく赤水登山道の脇にあり、観光客が高い割合で側を通過するという最高の条件を備えていた。そして、常務さんがぽろっと親父に話をしはじめた。「村崎さん、私はこの阿蘇に自生しているススキが大好きなんです。ススキが残る自然を大事にしたいと思っているのですよ。この阿蘇にはススキがいっぱいですね。枯れススキも最高に魅力的です。どうかこのススキが阿蘇の観光資源として大事に継承されるように村崎さん達も頑張ってください。」常務さんは終始にこやかで短い阿蘇視察を惜しむように楽しまれて帰郷された。親父からこの時の話を聞くたびに、高度成長という名の下に日本各地が開発され、自然や郷土の芸能が簡単に消滅していく現状を憂える方がいらっしゃるのだと感じた、雄大な阿蘇の自然を象徴するススキとともに阿蘇猿まわし劇場実現が加速していくこととなった。ふりかえってみると当時日本は、高度成長時代の最終局面にさしかかり、金融機関としても有望な融資先を探していた。

 私が21歳の時に都内のあるお店で知り合った友人がいる。彼の仕事は不動産業で私とはまったく異なった仕事だがお互いのために本気で本音を言いあえる25年来の友人となった。今から12年ほど前に彼の勤める不動産会社の会長と会食する機会に恵まれた。会長といっても私の友人すら影を踏めない特別の存在感をお持ちの方だったのです。数ある不動産会社の中でも間違いなくトップクラスの成功者でした。 初対面のその席でさすがに緊張してしまいかなりのお酒が入ってしまった上に無礼講の雰囲気の中で空気も読めず、深い考えもなく村崎義正の話しになってしまったのです。挙句の果てには不動産業界では成功者である会長に阿蘇の劇場を建てたときの苦労話を延々と一時間に渡って話をしてしまい、会長は黙って聞いてくれ、「五郎ちゃん感動したよ、お前の親父は本当にすごい人だ。確かに当時のバブルという時代を考えれば金融機関としてはお金を貸すところをさがしている。しかし将来あるのかすらわからない猿まわしごときに簡単に億単位のお金を貸せるものではない。結局のところは、人対人なんだ。お前たちも今の関係を大事にしろよ」と力強く握手してくださいました。言葉の通り、その後も垣根のない付き合いをしてくださり、12年経った今でも本当にいいお付き合いをさせていただいています。初対面でハラハラしながら話を聞いていた友人が、ぶっしん!(私の仇名)にも親父さんにも感心するよ。といまでもその話に及ぶたびに冷や汗をかきながら話しが弾む。

 阿蘇の土地の買収に動く、そして劇場の設計、駐車場計画と着工準備へ向け順調に進んでいった。親父夫婦は本社を守らなければいけないこともあり阿蘇の責任者として次男夫婦を阿蘇に赴任させた。兄貴夫婦は山口県光市にある周防猿まわしの会の本社の隣に家を新築したばかりではあったが迷うことなく親父の任命を受け、まったく土地勘のない阿蘇へ赴任することを決意した。長年親父の側で仕事をしてきた兄貴は親父の苦労を一番理解し協力を惜しまない兄であった。親父の勝負に自分も家族も身を投じるさすが兄貴(次男)、この男気のある生き方が、阿蘇の皆様にも伝わり意気投合し阿蘇猿まわし劇場の成功に大役を果たすこととなった。兄貴のこの決断なくしては阿蘇の成功はなかったといっていい。そして兄貴を兄弟同様に思い、お付き合いくださったのが塚元隆議員の長男でもある同世代の塚元秀典氏だった。この阿蘇の地においては塚元隆議員同様に人望も厚く全幅の信頼を得られている人物であり地元との大切なパイプ役も担っていただくことにもなる。そしてさらに心強かったのが兄貴の片腕になる久保幸浩(現阿蘇猿まわし劇場事務長)という人物を塚元隆議員より紹介を受けたことではないかと思う。国鉄の人員削減が吹き荒れ去就を考えあぐねておられたが阿蘇さるまわし劇場に加わっていただけることとなった。実直で人を裏切らない。しかもこれほどの人物どこを捜しても見つからない素晴らしい参謀役であった。その後現在まで23年間にわたり阿蘇猿まわし劇場のために身を粉にして頑張ってくださっている功労者である。後に入社される奥様の久保主任(役名兼仇名)は若くて美しいだけでなく夫や家族を支え久保氏とは違った多彩な才能の持ち主であり、未知数の阿蘇猿まわし劇場の戦闘能力が高まってゆく。

 チョロ松と私の役割としては当時周防猿まわしの会の稼ぎ頭であるためこれから劇場完成までにどれだけの費用がかかるかわからない、とにかく親父からは「稼げるだけ稼いできてくれ」と全国各地のお祭りイベントに飛びまわった。全国各地を飛びまわっていて日銭を稼いで阿蘇に送金するそれが役目だった。投資額も大きいがそれに利息も当時はびっくりするほど高かった。10年で貯金が二倍にもなるバブル期だった。周防猿まわしの会のメンバーの団結力、そして塚元家や阿蘇の地元の皆様の支えや協力もあり、1988年6月8日、阿蘇進出計画決定から4ヶ月足らずで「阿蘇猿まわし劇場・起工式」にまでこぎつけることができた。一言で4ヶ月というと簡単にことが進んだと思われがちだが親父の劇場にかける情熱はとにかく半端ではなかった。これだけの計画は親父の情熱だけで当然作れるものではないが何故か人は親父に巻き込まれていった。親父が動けば人も動くというように不思議な魅力を持っている、それが村崎義正だった。起工式当日は周防猿まわしの会の全コンビも阿蘇に集結し地元の園児達を中心にたくさんの方に猿まわしの芸を楽しんでもらい魅力を知っていただけるきっかけにもなった。ここから「笑い」と「感動」の阿蘇猿まわし劇場の建設が加速していくことになる。成功か失敗か考える余裕も迷いもなく進んでゆく。私は4月に大学4年生となり、最後の学生生活がはじまるとともに決断の日が近づこうとしていた。 決断は自分がするけれどやはり親父抜きでは考えれない決断、本話の最後にその親父とのエピソードを紹介させていただいて終わりにさせていただきます。

 村崎義正という人は豪快でありながら繊細な一面も持ちつつもとにかく愉快な人であったと思う。サービス精神も旺盛で色んな場面であきさせない親父であった。チョロ松がウォークマンでブレークした年末の話だが、親父から東京事務所の私に電話が入った。「今年は、チョロ松と五郎は本当によく頑張ってくれ た。特別ボーナスをだしちゃらんといけんと思うちょる。郵便で送ったから楽しみにしちょってくれ」。何ともテンションのあがる嬉しい連絡。数日後、そのボーナスが東京事務所に書留で送られてきた。当然、現金だろう、幾らかと思い郵便を開けてみると中には箱のような物がはいっていた。「ウォークマン・・・?」、それはSONYさんがCM大賞最優秀スポット賞に輝いた記念に製作した刻印入りのウォークマンで周防猿まわしの会村崎義正会長に記念品として贈られてきた大変貴重な三台のうちの一台であった。「何故ウォークマンなの?」その後聞くことも出来ず結局私に送られた意味は聞かずじまいになってしまったが今でも箱を開けた瞬間のどう反応するべきか迷っていた自分の気持ちを思い出すと笑ってしまうんです。 そんな愉快な親父であり、知らないうちにたくさんのことを学び、猿まわし人生の土台を造ってくれた親父、しかし、親父と共に生きることができる残された時間は急ぎ足で過ぎて行った。

第十七話 思いもよらぬ訪問者

 1988年6月中旬、チョロ松は北海道静内町の草原に威風堂々と立っていた。

 空前の大ヒットとなったソニーウォークマンのCMに出演してから1年を迎えようとしていた。5月中旬には第二弾の出演依頼も請けていた。第一弾「湖編」は神奈川県芦ノ湖にて撮影を行ったが、第二弾は期待を裏切るという意味でハワイのワイキキビーチという案が浮上した。
 その話を聞いた当時の私にとっては「なんだ・・・ハワイか?」くらいの気持ちだったが、今思えば残念な気持ちでいっぱいである。しかし、渡航にはチョロ松の検疫等の問題をクリアーにしなければいけないし、そのための準備期間が1ヶ月では不可能だった。そこで涼しく雄大な自然を背景にというコンセプトで選ばれたのが競馬の競走馬育成などで有名な北海道静内町の草原であり、暑さに弱いチョロ松(ニホンザル)にはありがたい場所であった。

 そして撮影当日、第一弾で苦労しただけのこともあり第二弾に臨むチョロ松には余裕も感じられ、セットの立ち位置につくやチョロ松は「これでいいの」と言わんばかりの目つきでウォークマンを持つとすぐさまお得意の「瞑想」の表情をした。完璧なチョロ松の演技に私も「チョロ松、いいぞ」と思ったが、制作側は第一弾とは若干違う素材をSONYさんからも求められているからか、結城監督からは簡単にOKは出てこない。ただ、改めてチョロ松の学習能力には驚かされる。「湖編」では三日間も要した部分をたった一日で撮影出来たのだから。残りは二日間の余裕があり、第二弾ならではのシーンが撮れれば終了である。

 撮影二日目、早朝からの撮影も順調に進んでいた。午前中の撮影も終盤にかかった頃、高級外車で4、5人のいかにも・・・という男性達が乗り込んできた。撮影現場に緊張と重々しい空気が流れる。10分ほどだったがスタッフと話をしてすぐに帰って行ったのだが、しばらくして監督から「五郎さん、撮影内容としてはほぼ納得していますがあとひとつどうしても撮りたいシーンがあります。時間がないので申し訳ないのですが撮影を急がせてください」。予定では撮影は三日間あるはずなのだが再度スタッフから「撮影を早く済ませて撤収します」との説明があり撮影再開した。監督の納得のいく映像が撮れず刻々と時間だけは過ぎて行った。その時突然監督が大声を上げた。「OKです」。姿を隠すために穴に入っている私には何も見えない。一体何がOKだったのかわからず監督に聞いてみたが「今回は仕上がった作品を見て探してください」とだけ伝えられ撮影終了、慌ただしく撤収作業に入った。スタッフからは「五郎さん達はこの地域からはなるべく遠くに逃げてください」という指示がありチョロ松と私は静内町をあとにして200キロ離れた洞爺湖に向かった。後日説明があったのだが、撮影にあたっては現場の使用料も払っていて撮影許可も取っていたが、別の方からSONYのCM撮影ということを聞いて、法外な使用料を請求してきたのだ。

 撮影から数日経って「SONYウォークマン 草原編」が完成し東京事務所に届けられた。繰り返し何十回も映像を見てようやく「湖編」との違いに気付いた。CMのサビのシーン、大自然に向かってウォークマンを聞いているチョロ松の後姿、チョロ松の尻尾が「ピン!」と立っていくのだ。いかにも偶然に撮れたようにも感じられるが、「湖編」で生まれた「瞑想シーン」と同じく、アクシデントに見舞われたあわただしい現場でも、粘り強くチョロ松の自然な動きを待ち、引き出し、作品に仕上げてくださった結城監督他スタッフの皆様に深く感謝している。

第十八話 人生の岐路

 1988年6月は本当にめまぐるしいひと月になった。地方のイベント出演をこなす多忙なスケジュールの中、上旬に阿蘇猿まわし劇場の起工式に出席、中旬にはSONYウォークマンCM第二弾「草原編」の撮影で北海道静内町へ遠征し、そして下旬にかけては自分の人生を左右するであろう教育実習を受けるために母校である山口県光市立浅江中学校の門を久しぶりにくぐった。

 私には教員になるという夢があった。そのきっかけとなったのは、私が浅江中学校2年生の時に赴任してきた富永泰寿先生(当時30歳)だった。先生の第一印象としては今の時代には考えられないようなスパルタを絵に描いたような『怖い』『危険』という言葉がぴったり当てはまるような先生であった。私が部活で在籍した野球部の顧問でもあり野球の面白さ厳しさをスポーツ全般を通じて教わった。部活以外でも生徒に一生懸命向き合うひたむきさ、どんな困難にもあきらめない姿勢、富永泰寿という人物を知れば知るほど私は先生の人柄、魅力にひかれていき、中学2年生の夏、先生と同じ日本体育大学に進学して教師を目指し、いつか先生のような指導者になりたいとう思いを抱くようになった。

 それまでの夢は・・・・。小学校2年の時に親父にグローブをプレゼントしてもらったのがきっかけで野球をはじめてからは明けても暮れても野球というぐらい勉強もせず野球と遊びに没頭していた。そして、小学校4年の時にテレビ中継で、中日ドラゴンズの「星野仙一(現楽天ゴールデンイーグルス監督)選手」を見てファンになり以来今でも星野監督が指揮を執る球団を常に応援している。さらに、小学校5年の時にNHKの中継で見た夏の高校野球大会での神奈川県代表、東海大相模高校の「原辰徳(現読売ジャイアンツ監督)選手」に憧れていつしかプロ野球選手になりたいという世間一般の子供と同じような夢を持っていた。 野球選手から、教育者へ、夢は孤を描いて変化していった。 夢と希望に満ちあふれてのぞむ教育実習でありながらその気持ちとは裏腹に複雑な心境があったことも間違いない。この時点までは間違いなく教員になることがひとつの目標であり、それを実現するには大学卒業後チョロ松とのパートナーを解消しなければならない。このまま猿まわしの後継者として進むのか、教員の道を目指すのか。どちらの人生を選択するのか。仕事と学生生活の狭間で本当に迷いながら教育実習へ挑むことになる。 チョロ松と共に中央道、中国道を走って山口に向かった。

第十九話 教育の壁

 1988年6月下旬、2週間の教育実習を母校である浅江中学校で行う。その間、チョロ松は周防猿まわしの会本社の猿小屋で幼馴染のお猿さんたちとしばしの休息をとることができた。仲間のお猿さんたちと旧交を温める喜びにチョロ松は生き生きとしており教育実習で相方の私が居ないことなど全く気にしていなかった。とはいえ実習終了翌日には都内でのイベント出演もありその間もチョロ松との稽古等は欠かせなかった。早朝の稽古は1.5キロから2キロの基本的な散歩を、夕方は小劇場で舞台内容の反復稽古を行った。

 教育実習の指導を担当してくださったのは体育教師でもある山村進先生である。先生は陸上競技の指導者として幾多の人材を育成し世界の檜舞台でも活躍する選手を育てられたが、そんな素振りを一切感じさせない謙虚な方であった。山村先生が担任される1年1組を、授業は1年生?3年生をすべて担当させてもらった。初日早々山村先生から「村崎くん、今から3年生の授業があるから思うようにまずはやってみたらいい」と言われ驚いたが、威勢よくグラウンドに出て行くと生徒達はウォーミングアップをしていた。私たちの時代と変わらず授業の始まりは200mのグラウンドで体育委員を先頭に3周走るのだが、先頭から最後尾までまったくそろっていないバラバラの状態であった。その状態にいてもたってもおられず生徒達に即集合をかけ長々と説教を始めた。まだ、生徒のことを誰一人として知らないうちから自分の考えや思いをぶつけてしまい、完全に生徒は私に対して拒否反応をしめして心を閉ざしてしまったような気がするがそんなことにも気付かず突っ走った。担当だった1年1組のある女子生徒の存在が目に付いた。まだ1年生であるが大人に対して斜に構えてまっすぐに見ず私に対しても常に反抗的に接してきた。結局最後まで私はその女子生徒に対して何も対応しきれなかった。しかし野球部の指導に加わったときだけはわたしの様子を見て関心をもって質問してくる生徒もいて少しだけ自分らしさを伝えられたのではないかと思う。

 教師として生徒の前に立ってみるまではわからなかったが、実習に行ってみて思ったことは、様々な個性をもった生徒もいれば私には予想のつかない複雑な環境の中で育ってきた生徒もいる。そんな多種多様な生徒たちに何の信頼関係も築けてない私が生徒に接してしまうと生徒たちは心を閉ざしてしまう。私の描いた教師像は自分の考えや生き方をいい意味で押し付ける先生であったから、教師と生徒の信頼関係を2週間で築くことはできず時間だけはあっという間に過ぎていった。40数名の生徒ぐらい束ねることなど、なんていうことはないだろうという安易な考えはもろくも崩されていった。それもそのはずで、私も調教師とは言えまだまだ2年半足らずの未熟な見習い調教師であったと思う。今あらためて当時を振り返ると調教師としての課題そのものが教育実習の現場でもでたような気がする。生徒の気持ちは二の次で力で押さえつけようとしていた。それがまさに自分が越なくてはならない課題であったのに、その当時は教育実習での難しさや違和感を、「自分が求めていたのとは違うな?」とか「経験してみて自分には向いていないな?」と軽く受け止めてしまうことしかできないおめでたい人間だったと思う。

 そして今だから正直に言えることがある。私は中学時代の恩師富永先生に出会い、あこがれ、教師になりたいと思った。その気持ちを決定的にしたのは高校時代の野球部での出来事だった。高校2年の冬、ベースランニング中突然腰に激痛が走り左足が利かなくなり選手生命が絶たれた。その後、キャプテンを任されていることもあり野球部に残ったが、練習も出来ず煮え切らない中途半端な私だったので部員達に迷惑を掛けてしまった。その思いを払拭するためにも今度は指導者としてグラウンドに立ちたいという一心で教師を目指していた。実際、教育実習で一番充実していたのは野球部を任された時であった。教師になりたかったのではなく野球部の監督になりたかっただけかもしれない。

 今から15年前に周防猿まわしの会の芸能部長という調教師をまとめる大役を任されながら10年以上焦点の定まらない仕事を続けてきた。そんな私を見兼ねて現周防猿まわしの会最高責任者である長男の與一兄貴から「五郎、お前が育てる高校野球部はどこにあるのか?素晴らしい芸人達に恵まれながらお前はどこを見ている。周防猿まわしの会の調教師集団を育てる仕事こそ、やりがいのある監督業はないぞ。」私も40歳を迎えようとしていた頃だったと思うが、自分の活躍できるステージに気付くことができた。約20年近くかかり、「教えることは学ぶことから始まる」という與一兄貴の言葉、噛みしめながら今は辛いことも苦しいことも「お猿さんに学ぶ」「若手調教師から学ぶ」「お客様から学ぶ」姿勢を自然体で楽しめているのではないかと思っている。親父の「猿一頭調教できないやつに人間の教育ができるわけがない」という言葉があらためて胸に響く。

 教育実習が終わった時に気持ちの整理がついたのかもしれない。翌日に行われるイベントに出演するために、開催場所の東京都大田区に向けチョロ松とともに出発した。900キロの長旅であったが、晴れやかな気持ちでふるさとを後にした。

第二十話 チョロ松とともに歩む

 覚えておられますか北海道静内町で撮影したSONYウォークマンCM第二弾「草原編」は、第一弾に続き、全国のお茶の間を騒がせた。それは建設途上にある阿蘇猿まわし劇場にとっても追い風となった。来春のオープンにそなえ1988年7月1日付で九州事務所を開設し、団体予約の受付開始や観光関係組織への訪問説明など幅広く動き出した。そしてチョロ松と私の使命はもちろん劇場建設資金を稼ぐことであったが、横浜ドリームランド、奈良シルクロード博を中心に全国のお祭りイベントに出演し、夏休みの締めの仕事は前年に続き吉本興業の舞台に11日間出演させていただいた。しかも今回はリニューアルされたばかりのNGK(なんばグランド花月)である。吉本興業に所属する数千人の芸人といえども限られた芸人しかたてない狭き門である。まさしく笑いの殿堂でもあるNGKの舞台にチョロ松と立てたことは得がたい経験であったし光栄なことだと思っている。私にとって猿まわしは大学卒業までのお手伝いであったのだが、教育実習を終え、こうした経験を積み重ねる中で心境に変化が起きてきた。

 夏休みも終わりひと段落したところのこと、月に何度かの調教会がもたれた。東京事務所前の多摩川河川敷で、兄のT氏が指導役で東京在駐のメンバーが参加した。調教会ではチョロ松と私の関係性がテーマとなることが多かった。成猿でもあり、以前コンビを組んでいた調教師を辞めさせたチョロ松とどうつきあうかそれは私だけでなくみんなにとっても共有しなければならない大事な課題であった。学生でもある私にはそれまではチョロ松の芸を向上させていくというよりチョロ松の持っている芸を維持すればいいぐらいの考えしかなかったが、チョロ松と正面から向き合うようになった今では以前にも増してすごい勢いで私に歯を剥いてくるようになった。兄のT氏からは「歯を剥いてくることはお前をボスと認めてない。絶対服従させけじめをつけなければいけない」と指導を受けるが、調教会を重ねるごとに服従するどころかチョロ松の反抗はエスカレートした。チョロ松を力で抑え込もうとすれば力で跳ね返す。それこそ野生のプライドであり、それがないチョロ松では命さえながらえることはできない。とにかく目の前に厚い壁が立ちはだかったかのような苦しいときでもあったが、なんとかしたいと思うようになったことでようやく調教師としてのスタートラインについたのかもしれない。
 荒れ狂う成猿とつきあう難しさと真剣に向き合うようになったころに、「五郎、野性の猿を制御するのに暴力は駄目。調教師が目に見えない力を身に付けるしかないんじゃ。それは何か、しっかりチョロ松に教えてもらえ。」って義正親父によく言われた。見えない力とは何でどうすれば身につくのか。チョロ松に服従を求める前に自己の非力によりきびしく対決していかなくてはならないと親父は言いたかったに違いない。

 阿蘇猿まわし劇場のオープンは舞台を支えるメンバーの数の確保と芸のレベルの向上が急がれる課題であった。親父の中では大学卒業後私が本格的に調教師としての道を歩むだろうと確信していた。さらに朗報だったのは2月に入門して半年しかたっていないDと小猿の勘平が順調に育っていること。周防猿まわしの会においては最も重要視される礼儀作法・立ち居振る舞いといった基本芸は当然のこと、輪抜け、竹馬、八艘飛びといった猿まわし十八番芸まで習得した。Dさんは、明るく人前でも物怖じしない舞台向きのキャラクターで、入門当時は兄のT氏が将来性をかい、テレビ番組にも紹介して、一番弟子として厚遇するようになっていた。それで、勘違いするDさんでないことは後に、T氏が周防さるまわしの会から強引に独立活動を行った際にも、義正会長との約束を忘れず決断、行動したことで明らかである。そういうドラマがあろうなどとはこの時は思いもしなかったし、私としては入門当時のDさんがどこを向いていようが関心がないというか、チョロ松と自分のことで精一杯だった。ただ、様々な重圧の中で会を動かしていた義正親父が「周防猿まわしの会が21世紀へ飛躍するための主役が増えた。」と喜んでいたことがうれしかった。

第二十一話 猿まわしを栄える女性達

 阿蘇猿まわし劇場の建設も順調に進み、1989年3月26日オープンが決まった。夏過ぎには最初の団体予約が入った。12月上旬には東京事務所のメンバーも阿蘇に集結し、劇場の建設状況を見てまわる。劇場の概容がはっきりしてきてオープンが現実味を帯びてきた。オープン後の綿密なスケジュールの打ち合わせも行われ、チョロ松・五郎コンビも一ヶ月交代のローテーションで出演することになった。

 そんな年の瀬のある日、阿蘇進出に尽力いただいた塚元議員が調教師志望の女性を連れてきた。本来であれば女性という時点でお断りをするのだが塚元議員の紹介ということもあり面接だけは受けたが、やはり野生のお猿さんと向き合うためには女性の腕力やスピードでは難しいし危険を伴う仕事なのでお断りをした。しかし、その女性はあきらめずに何度も親父のもとへ足を運んだので、その熱意に応え入門が認められた。当時を振り返ると本当に驚きだったが、親父に認めた理由を聞くと、「ほんのわずかな可能性に賭ける決心をした。その可能性とは師匠のアドバイスを素直に受けて頑張ればどんな困難でも突破できる。いささかでも我流になれば失敗するけど・・・。」女性が調教師を目指すという話題は阿蘇猿まわし劇場のオープンと重なりマスコミに大きく取り上げられ追い風になった。

 復活後、初の女性入門者ではあったが、実はその当時周防猿まわしの会には女性調教師がいた。重岡フジ子という人物である。昭和最後の猿まわしとして東京中心に活躍していたが、昭和38年に廃業する。

 昭和52年、周防猿まわしの会が復活事業を開始するも調教法がわからず暗礁にのりあげた時には、親父は重岡フジ子に協力をお願いし、アドバイスしていただいたことがきっかけとなり、親父が調教法を解明し、科学的に調教法を確立することにつながった。重岡フジ子がいなければ猿まわし復活は実現しなかったかもしれない。重岡フジ子の調教は本物であった。さらに調教法だけにとどまらず、猿まわし芸能の豊かな継承者であり、周防猿まわしの会の一員に加わっていただき、大きな花を咲かせてくださった。タナ捌き、バチ捌き、間の取り方、口上、唄、見事であった。我々が学んで、学びきれないほど豊かであり、柔らかい姿勢の中に揺らがない芯を持っておられたからこそ、女性であっても調教師になれることを実際にしめされた。女性が調教師を目指すというバトンは、その後十数人もの女性志願者のチャレンジによって受け継がれ、成果と挫折を重ねながら、現代版の重岡フジ子誕生への可能性を高めつつある。時代が産んだとも言える重岡フジ子再来は難しいけれど、女性達は必ず願いを叶えるに違いない。そして女性調教師の活躍は現在猿まわしの舞台に欠かせない存在となり猿まわしを支えている。

 重岡フジ子さんは2009年(平成21年)2月11日、78歳で亡くなられた。20年前の2月11日は、親父が病に伏した日でもあり不思議な巡り会わせを感じた。私の中に生きる重岡フジ子さんについてはあらためて皆様にお伝えしなければならない。

 1989年、阿蘇猿まわし劇場オープンの新年を迎えた。チョロ松と私は、元旦より兵庫県宝塚市の宝塚ファミリーランドの10日間のイベントに、動物マジックの第一人者でもあるジャック武田さんとご一緒させていただいた。ジャック武田さんは数十種類の動物を扱いながらのマジックショーを繰り広げる。その中にピンクパンサーの愛称で人気者であったチンパンジーがいて、刺激を受けたチョロ松は落ち着きをなくし、いつも以上に調整に苦労していた。

 そして、1月7日、日本に重大ニュースが報じられた。昭和天皇がご逝去されたのだ。翌日からの公演は全て中止になり、1月8日、「昭和」から「平成」と時代が変わった。

第二十二話 親父がつないだ縁

 私がまだ周防猿まわしの会に入門する前の大学1年生夏の話しにさかのぼるが、本社(山口県光市)の親父の元へ、突然一本の電話がはいった。「日本体育大学の教授をやっている山田良樹と言いますが、村崎義正さんはいらっしゃいますか。」親父は即座に日体大に在籍する息子の私が問題を起こしたのではないかと思い、電話に出るなり「息子が何かしでかしましたか」と答えたが、山田教授は私のことで電話したのでなく、村崎義正本人に電話してきたのだ。ちんぷんかんぷんの電話だった。それもそのはず、山田教授からすると村崎義正の息子が日体大へ行っているとは知らずに電話したわけだから会話も噛み合うわけもなかった。
 山田教授は私たちと同郷で山口県周防大島出身である。当時日本体育大学で体育経営管理学を研究し学部長も兼任されていた。現在は日本体育大学名誉教授を勤められている。 ある日、日体大の職員から「先生の故郷の山口県で、猿まわしを復活させた村崎義正さんが書かれた本『猿まわし復活 調教とその方法』を見つけました。面白い本なのでよかったら読んでみてください。」と進められたのが村崎義正を知るきっかけになった。読んだ瞬間一目ぼれしたらしく、これはすぐに会いに行かなければいけないということで本社(山口県)への突然の電話だった。二人は会うなり意気投合し、親父の持つ「日本猿の調教論」「人間の教育論(子育て)」に山田教授は深く興味を持ってくださった。人間教育に不足している厳しさ、やさしさ、毅然とした姿勢が猿まわしの調教にあり、これを大学生に伝えたい、そう思ってくださった。日体大の特別講師として村崎義正を招き学生と喧々諤々の交流を重ねたのはもちろん、周防猿まわしの会の応援団として大学関係の学園祭や地方のお祭りに紹介してくださった。また、私が日本体育大学を卒業するまで親代わりのようにご指導いただき、山田教授のおかげで卒業出来たと言っても過言ではないほど迷惑をお掛けした。「義正さんもお前の子育てには失敗したようだな。五番目で唯一親父にかわいがられた。甘くなった分、俺がたたきなおしてやる。」山田先生の口癖だった。大学3年以降、チョロ松がSONYのCMでブレイクした時には大学と仕事を両立させるために午前中授業に出席して午後から地方等のイベント出演にしなければいけないこともあり、そんな時は山田教授のはからいでチョロ松をのせた営業車を大学敷地内の安全な場所に駐車させてもらったこともありました。
 山田教授の縁で普通なかなか会えない人物を紹介され、かわいがってもらいました。当時の日体大の綿井永寿学長や、山口県出身、レスリングで東京オリンピック金メダリストの花原勉教授(現在、日本体育大学名誉教授)にも眼をかけていただき、卒業の際には「日本を代表する周防猿まわしの会の芸能の発展のためにしっかり頑張れよ。」と激励の言葉をいただいた。九州方面に出張した機会にわざわざ熊本県の阿蘇猿まわし劇場まで足を伸ばして下さった時の感激は忘れられない。同級生からはいまだに卒業式に出席していなかったとからかわれるが、間違いなく日本体育大学卒業式に出席し万感の思いを抱いて学び舎を後にした。

 そしてついに、猿まわし千年の悲願が実現する日がやってきた。1989年(平成元年)3月26日、日本の観光地を代表する阿蘇山の麓に655名収容の「阿蘇お猿の里・猿まわし劇場」がオープンした。当日は全国各地の猿まわしのファンや復活以来応援いただいているたくさんの知人・友人もお祝いに駆けつけてくださり盛大に式典も行われた。チョロ松・五郎コンビも初舞台に立たせてもらったが、本当にすみません、どんな舞台だったのか記憶がほとんどありません。ただ、広い敷地にそびえたつ劇場の勇姿を見てこれから猿まわしの芸能はどんなに発展をしていくのだろうと胸が躍るような気持ちで夢を描いていた反面、正直23歳の私には数億円投資した借金を返していけるのかという不安ばかりが先に立った。しかし親父からは「まず年間20万人の安定した入場者を確保することができれば猿まわしの芸能も磐石である。そして劇場以外の施設もさらに充実することができ、頑張ってくれているお猿さんや芸人たち、そして支えてくれるスタッフに生活を保障してあげることができる。」と高笑いしながらうれしそうな笑顔が返ってきたことが鮮明に浮かんでくるのだ。

第二十三話 チャンスの時にピンチあり

 阿蘇猿まわし劇場はオープン前の予想をはるかにくつがえす快進撃を続けた。親父の目標では3月26日から6月下旬までに5万人の入場者数と見込んでいたのがオープンして2ヶ月足らずの5月29日に達成。入場者7万人も6月25日に突破した。夏休みに入った8月3日には10万人目のお客様に来場いただき、8月20日には一日の総入場者数としてはオープン以来最高の3090人、初めての大入り袋(阿蘇猿まわし劇場は3000人以上の入場者で大入りとした。)が出た。

 8月27日には3811 人と大入りの記録を塗りかえていく。 そんな記録ずくめのおめでたい日にお客様が訪ねてきた。石川県金沢市でイベント会社を経営する昭和企画株式会社北陸支社社長の千代晃久(せんだい あきひさ)さんという方である。千代さんと周防猿まわしの会のお付き合いが始まったのは、まだ千代さんが愛知県の昭和企画株式会社名古屋本社にいらっしゃる頃である。私とはチョロ松とコンビを組んで間もない頃、名古屋市内でのショッピンッグセンターでのイベントに呼んで下さったのが最初の出会いだった。それ以前にも他のコンビには数回仕事をいただいていたが、初めてチョロ松を呼んでくれた時から大変気に入っていただけた。千代さんは「チョロ松・五郎コンビは、今まで見てきた他のコンビにはない芸の力強さがある。俺はチョロ松が有名であろうが無名であろうが関係ない。チョロ松の芸に惚れたからこれからはチョロ松をしっかり売っていくからな。」と言われ、その言葉通り温かく見守ってくださり、 時にはお客様目線での厳しいアドバイスもあり、チョロ松・五郎コンビを育ててくれた大恩人と思っている。

 そんな千代さんが家族揃って遠い石川県から熊本県の阿蘇の地まで表敬訪問してきてくれた日が、大入り入場者新記録の日でもあり、千代さん家族が到着するなり、親父さんみずから阿蘇猿まわし劇場の施設を案内し、「五郎は稽古をやっておけ、夕方来ればいいから。千代さんは俺に任せろ。」と気にする私をはねのけて、阿蘇の秘湯温泉にお誘いして大歓迎した。しかし、その2時間後に大変な事が起きた。「親父が温泉で倒れた」とお袋から劇場に一報が入った。親父は当時55歳、その日も午前中若手の調教師に引けを取らないぐらい迫力ある舞台を演じていたので信じられなかった。搬送先の病院に駆けつけたときには意識も戻っていたので安心した。原因は「脳血栓」である。今回は何とか一命をとりとめた。次に発症したら命の保障はないと最後通告ともとれるような医師からの厳しい診断であったが、そんな警告すら動揺するような親父ではない。命にも関わる病気だけに今回だけはオープン以来の疲れを癒すいいチャンスと思って十分休養してほしかったが、親父はじっとしていられなかったのか、 一ヶ月後には復帰してきた。

 チャンスの時と誰しも勢いに乗っていたときピンチの影が忍び寄っていた。さらなる災難がチョロ松と私に襲いかかる。9月下旬、広島県の「海と島の博覧会」のイベントに出演していた。公演前のリハーサルでチョロ松の動きがおかしいことに気付く。チョロ松が左手を使うことをすごく拒否するのだ。その時は目立った外傷なく無難に舞台をこなしてくれたが、翌日の朝になると左手の人差し指が腫れ上がり、思った通りの芸が出来ないまま舞台を終了した。すぐに近くの動物病院に行きレントゲンを撮ってもらったところ、人差し指の第二関節から骨がないと診断された。広島から帰京して当時の主治医の先生に診てもらったところ病名は「骨髄炎」であった。早急な手術が必要だということで、事情を説明してチョロ松指名のイベント出演を他のコンビに差し替えてもらい緊急手術をおこなった。第二関節から指を切断せざるおえなく引退という最悪の事態も頭をよぎった。幸いにして他への転移もなく手術後から2 週間のちにはいつものチョロ松らしさを取り戻し仕事に復帰することができた。野生の生命力や回復力はたいしたものであるが、手術後麻酔が切れ、自分の人差し指がないことに気付いたチョロ松はすごく悲しそうな表情をしていた。もう少し早く異変に気付いてあげられたらと後悔している。

 阿蘇猿まわし劇場がオープンして約7ヶ月の10月23日、年間目標としていた20万人の入場者数を記録した。目標より5ヶ月も早い達成だった。

第二十四話 猿まわし最大のピンチ

 観光地は、紅葉の季節を終えた12月から2月頃まではオフシーズンというのが定説である。登山道に入ってくる車もまばらになり本格的な冬を迎えていたが、阿蘇猿まわし劇場の勢いは止まらなかった。12月7日にはオープン以来の総入場者数が25万人を突破した。年を越え、1990年(平成2年)1月には月間入場者数が二万八千人を越えた。2月11日、12日は大入り(3000人以上)が出るほどの来場者、しかも2月12日には総入場者数30万人も突破した。猿まわしの常設劇場を阿蘇に建設するという構想に疑問や反対意見があった中で信念を貫いて実現した劇場が、冬枯れの観光地で賑わいのピークを迎えている。村崎義正会心の笑み、自分に関わる事業でこれほどの成功は初めてであった。「自分は最後でいい。」と人の事業や生活を優先してきた人生、ちょっと器用に生きればお金になる情報はたくさんありながら貧乏くじを選んできた。周防の猿まわしを復活させたことやその著作への反響、マスコミでも取り上げられ注目された。反面「人生はあざなえる縄のごとし。」と本人が語っていたように、周囲から嫉妬の矢をあびることとなる。その矢を放つ急先鋒に立ったのは、村崎義正が手塩にかけて守り育ててきた実の兄弟、そして実の息子達であったから、不幸の闇を成功の美酒で補っても埋まるものではなかった。成功の絶頂にありながら、心も身体もボロボロであった。その親父が猿まわしを守るために一策を講じた。事業の拡大に備え、他の職業に就いていた長男を周防猿まわしの会に参加させ、ナンバー2につけて、事業の運営を任せた。この荒療治が更なる波乱を呼ぶことになることは親父も承知していた。だから、五男坊の自分には「兄には絶対服従で人生を生きろ。」との命令、そしてその言いつけ通りに生きてきた。まじめだけが取り柄の長男、そして、周防の猿まわしの理念だけは守らなければならないと無意識のうちに生きてきた自分、親父さんが残した宿題をこの頼りない二人に任せたとのだと気づいたのはつい最近のことだ。

 阿蘇猿まわし劇場の予想外の快進撃もあったが、何よりもお猿さん達や劇場スタッフの頑張りのお陰で2月には二回目の慰安旅行が計画されていた。場所はハワイである。前年8月に脳血栓で倒れてから、親父は懸命なリハビリや医師の指導による節制もあり徐々に回復していたので、療養も兼ねてのハワイ旅行を親父は誰よりも楽しみにしていた。

 ハワイ旅行を間近にひかえた2月12日の早朝、チョロ松と私は東海地区の朝のテレビ番組に出演するために愛知県名古屋市内のテレビ局スタジオにいた。リハーサルを終えたところでディレクターの方から「五郎さん。本社(山口県)の方へ電話してくださいとのことです。」と連絡をもらい電話すると、親父が倒れたとのこと。番組出演を終え、その足で山口県へ向かった。病院に到着したときには早い発見だったことで親父は一命をとりとめ意識はしっかりしていた。倒れた原因を聞いて愕然としたが、2月のオフシーズンにもかかわらず連休で大入りを記録したことに気を良くした親父はうれしさのあまり「今日はお祝いじゃ。年末、五郎が送ってくれたワインで乾杯しよう」と調子に乗り、ひとりで一本のワインを空けた。お酒もまわりすぐに就寝したのだが、胸騒ぎを感じた長男が心配になって親父の様子を寝床に見に行ったときにはすでにうつ伏せで倒れていた。「脳血栓」である。「次に発症したら命の保障はい」と言われてから半年後、恐れていた二度目の発作がおこった。

 とりあえず二日後に予定されているハワイ旅行は今回キャンセルする方向で話は進めていたが、親父から「ハワイ旅行を中止にするという馬鹿なことを考えちょるんじゃないか。芸人や社員も楽しみにしちょる旅行なんじゃからお前たちだけでも行ってこい」と言われ、結局お袋と長男が病院に残って看病してもらい、私は第一班の社員を連れて常夏の島ハワイへ出発した。しかしハワイ旅行二日目の夜、親父の容態が急変したので帰国するようにと連絡が入り、翌日の早朝便にて帰国の途につくことになる。ハワイ滞在40時間であった。

 後になって聞いた話だが、ハワイに出発した後、親父の病状は悪化していく一方だった。まずは口がまわらなくなって筆談になり、次第に字すらまともにかけなくなっていった。その時すでに親父は致命的な病が進行していたのだが気付いてあげることができなかった。自分のピンチには全力で勝負し守ってくれたのに、親父のピンチに気づき救出できなかったことは悔やんでも悔やみきれない。自分が送ったワインで倒れたことも悔やまれた。

第二十五話 鯖の味噌煮が食べたい

 親父が危篤との連絡があって翌日の早朝便でハワイをあとにする。成田空港に到着すると羽田空港までタクシーで移動、広島空港の最終便に乗り換え、広島駅から新幹線で徳山駅へ、その足で病院へ向かい着いたのが23時頃だったか、病室で親父と対面したときにはまだかすかに意識はあった。私に気付いてくれたみたいで、私の顔をじっと見て、そして私の手を力強く握りしめてくれた。そして私にメモを手渡してくれたのだが、そこには「兄弟仲」とだけ書かれていたが、それを見た私に何度かうなずきながら親父は意識をなくしてしまった。これが親父との最後になってしまった。

 それから1週間後の平成2年2月23日午後6時30分、村崎義正永眠、享年56歳であった。

 私にとって村崎義正とはまさしく親父である。当たり前のことのようであるが最近は、親を親と思ってないのが普通であると私は感じる。村崎義正家の末っ子の五男坊に生まれてきて、絵に描いたようにかわいがられ、甘やかされて育ってきた。その反面、人として道から反れたような行動があるととことん厳しく怒られることもあった。親父は五人の息子それぞれに子供の頃からいつくかの試練を与えてくれていた。

 小学校2年生の時であった。自分のまわりの友達たちは15時になるとお決まりのようにおやつが出るというのが当たり前であったが、当時の村崎家と言えば世間一般でいう貧乏子沢山の家であったため当然「3時のおやつ」というものはなく、小腹がすくと私のおやつはもっぱら猫に餌であげていた「いりこ」(関東でいうにぼし)であった。そんなことに不満を持っていたのではなかったが子供心に友達を見ていて羨ましいと思っていたことも事実である。そしてとうとう間がさしてしまい取り返しのつかない事件を起こしてしまう。それはある日の夕食どきであった。今でも本当によく憶えているが、その日の献立は大好物の鯖の味噌煮だった。そんな楽しい夕食を前にお袋の財布に入っていた100円がなくなったと大騒ぎになる。当時の村崎家の家計事情からすると100円という金額は大変貴重なお金だったので100円という金額ですらなくなると気づくほどであった。親父は、上の兄貴から「知らんか」と順番に聞いていった。すると四男の兄のTさんが「夕方、義則(私のことである)が近くの岡村商店でおでんを食べよったけど」という発言で私が盗んだことがばれてしまった。血相を変えた親父に「義則、おでんを買うお金はどうしたんか」と聞かれ私は「母ちゃんの財布からとって買った」と正直に答えたが、今まで見たことがないほどの形相で親父は私をつかみ、殴り飛ばした。何度も何度も繰り返し「ええか、人を騙す人間になるな。」と言っては殴り飛ばされ「人の物を決して盗んではならない。」と言われてまた殴り飛ばされ、「絶対に人を裏切る人間になるな。」と言われ殴り飛ばされ、殴られる度に私は「もう一発殴られれば大好きな鯖の味噌煮が食べれる」と心の中で思い続けること約1時間以上にわたって殴り飛ばされた。「わかったんなら飯を食え」と言われ終わったときには顔は腫れ上がり口も開けられない状態にまでなり、鯖の味噌煮は食べられなかった。その話を聞いてすぐに家に駆けつけてくれた人がいる。当時、学校が終わると通っていた浅江児童館の館長を務めていた有沢先生(女性)である。旦那さんも中学校の教師を務めている方で有沢先生ご夫妻には村崎家一族の子息の教育と成長を見守ってくださり、たくさんの御縁と長年のお付き合いをしてくださっております。私の腫れ上がった顔を見て「義則君その顔どうしたんかね・・・。」事情を知った先生は親父を訪ねて「息子にこんな目にあわせて、あなたは父親失格です。今日から私が義則君の面倒見ます」と言うなり私を先生宅に連れて帰った。数日経ってから親父は深く反省し有沢先生にお詫びを申し上げ私を自宅に連れて帰った。

 あの時親父に殴られたことは今でも鮮明に残っている。それほど大変な出来事だったし、以降親父は怖いという感情を持ったことも確かだが、それ以上に愛情を注がれていることを感じていたので不思議と恨みだとかもろもろの感情は一度も抱かなかった。

 逆に4人の兄貴たちに比べれば、末っ子である私だけはやりたいことをやらせてもらい本当に感謝している。小学校3年になると中日ドラゴンズの星野仙一(現楽天ゴールデンイーグルス監督)選手に憧れ少年野球に入部し、高校卒業までの10年間大好きな野球に没頭させてもらった。勉強は一度も強要されることはなかったけれど、からっきし駄目だった。結局、小学校を卒業するまで成績はオール1だった(マジです)。小学5年生の秋を迎えた頃だったか、親父から突然話しかけられた。「義則、野球は楽しいか?」との問いかけに私は「うん・・・」とだけ頷く。親父はうれしそうに「そうか。勉強は嫌いなんじゃろうの?」の問いにまた私は「うん・・・」とだけ頷いた。すると親父は、「勉強は嫌いなんじゃろうから無理してやらんでもええからの。好きな野球でもええんじゃけど、一番とかいうことじゃなくとにかくこれだけは誰にも負けんちゅうものを見つけれたらええの。」と言われた。その時それだけで話は終わったが、今まで何も考えなかった私がその日から私に話しかけてくれた親父の笑顔を忘れることが出来ず「誰にも負けんちゅうもの」を何日も真剣に考えた。そして9月30日、「これだ!」と突然ひらめいたんです。

第二十六話 夏服と初恋

 1976年9月30日、小学校5年の秋の話です。翌日からは衣替えで夏服から冬服に変わる。その日の下校中、いつも一緒に帰っていた隣村の友人Yくんに私はある提案をした。「先生に夏服のままで誰が冬を越せるか競争せいと言われたいや。おいY!このまま夏の制服で通わんか。どっちが寒さに耐えて頑張れるか勝負せんか」と。Yくんは迷うことなく「おお、ええど」と簡単に了解してくれた。今、考えると寒さをこらえてそこまでやる必要があったのかと思うけど、実のことを言うと冬服がパンパンになり着れなくなったからで買ってもらうのも悪いと思ったからだった。当時、少年野球に没頭していて練習も熱心にしたがその分食欲も旺盛で夕食には丼飯を軽く2 杯は食べていた。多分、野球の練習以上にご飯を食べていたため肥満児になってしまった。

 冬でも夏服で通すというチャレンジ、友人を巻き込んで始めたが、温暖な瀬戸内の地方なのにそんな年に限って雪が降り0度をきるような厳しさが続いた。友人Yくんも私も脱落することなく二人だけが春を迎えた。しかし、先輩達の卒業式をひかえた前日に事件は起きる。卒業式の予行練習中に先生とPTAの方たちが騒々しく話をしていて、しばらくすると私と友人Yくんが呼び出された。ある父兄の方から「君たちは何故半袖なのか。全校生徒の中で白いYシャツが目立ち不自然だから明日の卒業式は上着を着てきなさい。」と指導された。私と友人は悩んだ。はじめは自分が着る冬服がないことから始めたことだし、他人からするとどっちでもいい事かもしれなかったが辛い時に続けてきたことなのでどうしても譲ることが出来なかった。子供心に悩んだ。家に帰って親父に相談すると、何時間かして「明日も今まで通り半袖半パンで行ってええけえの」と笑顔で答えてくれた。内情はよくわからないが学校やPTAの皆さんを説得してくれたみたいだった。6年生の冬も半袖半パンで登校し、小学校卒業まで夏服を続けることができた。親父はこの時のことを振り返り「女か男かわからない。食べる時だけ目が光る義則を鍛えてくれたチャレンジ。その乱暴な提案をしてくれた先生の御恩を忘れてはならない。」と話していたそうだ。

 決めたことをやりぬいたことで私は勇気と自信を持つことができた。地元の光市立浅江中学校に進み野球部に入部した。少年野球とは違い、今までライバルだった選手も同じ中学校に集まったので100人近い部員数、ベンチに入ることは厳しくなった。逆にその競争が私の闘争心に火をつけた。そしてレギュラーを目指し小学生時代同様勉強には目もくれず野球の練習に励んだ。肥満体型は先輩達のしごきのおかげで鍛えあげられた。
 中学校2年生になり、転校生がやってきた。当時、音楽で夢中になっていたイギリスの「ノーランズ」という姉妹グループの末っ子コリーンに似ていて、女神のような子だった。それまで異性に対して意識をしなかったわけではないが、多分ときめいたのは初めてのことだったと思う。初恋であった。クラスも同じになり、しかも席まで隣になった。1学期の期末試験の上位者が廊下に張り出されるとそこにその子の名前が載っていて驚いた。威張って書けるような話ではないが、私の成績は184 人中最後から数えられる位置だった。単純だがこの初恋が私にその子と同じ学校に進学するという無謀とも思える一大決心をさせた。夏休みになったある日、家に帰り「親父、俺今日から勉強するけえ。できたら地元の光高校へ行って、大学まで行きたいと思うちょる。」と言うと「そうか、頑張れよ!」と嬉しそうに返してくれた。早速その日から三番目の兄貴に勉強を教わることになり、三日ほど私に付き合ってくれたけれど、私のあまりの頭の悪さに呆れて「お前は、本当に馬鹿なんじゃの。俺じゃどうしようもならん。」と一言で見捨てられた。そんな私の状況をみかねて長男が指導を引き受けてくれた。当時、長男は現役の中学校教員であり、夏休み期間中であっても部活の顧問で忙しかったが勉強に付き合ってくれた。私の部活が午前9時から午後3時過ぎまであったので夕方4時から夜中0時まで約8時間ほとんど休まず勉強をした。何度も何度も挫折しかけたが半袖半パンを続けた自信が弱い自分を支えてくれた。夏休みに勉強を始めた時の私のレベルは想像を絶するほど低くて、中学2年生なのに中2レベルの勉強が理解出来ないことがわかった長男は翌日中学1年生の問題集を買ってきてくれた。これがまったく理解出来ない。また翌日小学校6年生のドリルを買ってきてくれた。それも理解できない。また翌日小学5年生のドリルを買ってきてくれたが・・・理解出来ない。また翌日小学校4年生のドリルを買ってきてもらい、そのあたりでようやく理解出来た。長男は難しい問題は出さない。漢字のドリルを10問正解するまで何度も繰り返す。簡単な問題つまり基本ほど大事に習得するまで指導してくれたような気がする。小学校4年生で止まった学力を中学2年生で取り返す猛勉強が昼間の野球部の練習と同じくらい厳しく続いた。私と粘り強く付き合ってくれた長男に感謝している。

 初恋の威力は恐るべし。  

第二十七話 反抗

 地元の高校に進学しさらに大学へという希望は絵に描いただけの夢で終わらなかった。五教科で250点中、最初は取れて60点だったが、入試直前には180点をとるまでになっていた。家族は当然のごとく、友人、先生、誰もが無理だと思っていた地元の県立高校へ進学する道がこうして開かれた。振り返ってみると、小学校5年、6年の時、真冬に半袖半パンで通学したことが自信になり大きく人生を変えた。自分が目標を持つと、親父がいつもにこやかに見守ってくれたことが力になった。文武両道を重んじる高校で、朝は6時前に起床し7時過ぎから連日夜9時過ぎまで甲子園目指しての練習、部活と学業を両立しながら高校生活を謳歌した。

 高校生になっても怖かった親父に反発するなど考えられなかったが、学校や社会に対しては堂々と反抗した。高校に入学したばかりの頃、鉄腕アトムの様な剃りこみをいれ眉毛も剃っていた。帰宅する頃にはいつも親父は就寝していたので、これ幸いに剃りこみはどんどんエスカレートしていった。そんな時にかぎって親父は起きていて、まずいと思い帽子を深くかぶっていると「義則、家に入ったら帽子を脱がんか」と言われ、バツ悪そうに帽子を脱ぐと私の剃りこみと眉毛を見て半笑いしながら「なんか?お前の中途半端な眉毛は?剃るなら剃る。情けない平安時代の公家風の眉毛は止めんか」と言われる始末、この程度の抵抗を軽くあしらわれるのだった。

 高校三年の夏、夢にまで見ていた甲子園出場は叶わなかったが、指導者として甲子園に行きたいと考えるようになった頃、親父から高校卒業後の進路について話を切り出された。「今まで、お前のやりたいことはやらせてあげることが出来たと思うちょる。それでこれからのことじゃが、猿まわしの発展のためにもお前自身のためにも猿まわしをやるべきと思うがどうか」と。意外な展開で話を持ちだされたため「俺は猿まわしはやらん。」とだけ答えると親父も思いもよらぬ返事が返ってきたと思ったのか「猿まわしを継がんのんじゃったら、この村崎の家から出て行け」と言った。今まで私の考えや思いを尊重してくれていた親父が私の考えをまったく聞かずして一方的に考えを押し付けてきた。一瞬私も頭に血が上り「わかった。こんな家出て行っちゃるわ・・・。」と捨て台詞を吐いた上に食卓をひっくり返して家を出た。18歳にして親父への初めての反抗であった。行くあてもなく家を飛び出したが、一人暮らしをしている高校の友人Sくんのアパートへ転げ込んだ。家を出て一週間経った頃だったか、寧叔父さん(やすし、親父の弟、以後寧おじきと表記)が居所をつきとめ訪ねてきた。寧おじきは「義則、元気か。親父からカレーを預かったから届けにきた。またくるわ」とだけ言って戻った。今まで何の不自由もなく育ってきた私がちゃんと生活できているのか心配でしょうがなかったようだ。それからは毎日食材を届けてくれたのだが数日後、「義則、そろそろ帰ってもええんじゃないか。親父も相当こたえちょるみたいじゃけえ(山口弁で精神的に落ち込み反省しているという意味)」。寧おじき、そして間借りさせてもらった友人には本当に迷惑を掛けてしまった。二週間にわたる家出にピリオドをうち自宅に戻った。家出をしている間、寧おじきや、長男からの親父への説得もあり、私の当初の進路希望でもあったいずれは指導者として甲子園に行きたいという夢を実現するために親として協力をするということで家出騒動は納まった。今考えてみると親父が強引に猿まわしを継がせたかったのにはもうひとつ理由があったのではないか。私は高校2年の冬の野球の練習中に致命的な怪我をしてしまった。「第五腰椎分離症」という骨盤と腰椎をつなげている第五腰椎の骨折である。右足は麻痺し靴下も履けない状態で、毎日リハビリに通いながら試合の日には腰の痛み止めの注射を打ちながらも野球を続けさせてもらった。将来的には更に悪化する可能性もあると診断されていたため、家業である猿まわしを継げば安心して病気と向き合うことができるという親心もあったのかなと思う。

 親父が亡くなって23年が経ち、一度は断った猿まわしの道を歩んでいる。親父が生きていたときは包み込むような愛情で守られていた。何もかも親父に任せておけばよかった。司令塔である親父が亡くなってからも五男という気楽な立場で親父が残してくれたレールに乗って何となくやってこれた気がする。猿まわし復活の際に、まず、四男が後継者第一号として猿まわしの世界に入った。次男、三男、そして五男の私も続いた。長男も加わり、5人男ばかりの兄弟全員が揃った。兄弟一致団結して猿まわしを発展継承させることは親父の夢だったが、5人の兄弟が同じ会社で仕事をすることは大きな困難を伴う。兄弟でありやがて互いにライバルとしてよくも悪くも競い合うときが来る。避けられない宿命。そのことを承知しながら、5人兄弟に『兄弟仲』を求めた『無謀な願い』は村崎家においても波乱をもたらした。兄弟の列から早々と三男が去り、世間から注目を集めた四男は、争いを起こし周防猿まわしの会を離れざるをえなくなった。長く周防猿まわしの会の発展に貢献した次男も男気に溢れる生き方を貫き、会を去った。幼い頃から「兄貴の言うことは絶対に従え。」と親父に徹底的に叩き込まれ、理不尽に感じても兄貴をたててきた。五男という気軽さと4人の兄から受けるストレスと戦う日々であったが。気がつけば、長男と二人で周防猿まわしの会を背負っている。車の両輪となった今、責任は重い。

 しかし、迷った時には必ず1985年2月22日を思い出すようにしている。チョロ松とコンビを組み、猿まわしの調教師見習いになった日、親父は本当に嬉しそうだった。「息子を5人産んじょってよかった」と家業に加わった五男の私に対しての親父の喜びようは忘れることが出来ない。そして、チョロ松とコンビを組ませてくれたことが今に生きている。屈強にして人間に媚びることのない堂々たるボス猿チョロ松。中途半端な付き合いは許さない相方だったからこそ、奥深い調教の門に立ち謙虚な気持ちを今なお持ち続けることができているのだと思う。

第二十八話 初代チョロ松からジュニアへ

 1990年3月26日、阿蘇猿まわし劇場がオープンして1年が経った。大方の反対を気にせず、観光地阿蘇での成功を信じて全力で駆け抜けた親父はもういない。年間入場者目標20万人をはるかに超えるお客様に感謝して阿蘇猿まわし劇場併設の休憩所建設に向けての準備が順調に進んでいた。親父が最後に手掛けることとなったこの休憩所は劇場の待ち時間があるなかでお客様にゆっくり待っていただくためのもので親父ならではお客様目線の結晶であった。百坪はある建物は第二劇場予定になっている森の見事な杉を数十本も活用した造りで「猿公館(えんこうかん)」と名づけていた。この一角にはお袋が味付けした自慢のうどん屋も有り、猿まわしの歴史の紹介、富山県を代表する井波彫刻の大野秋次先生のお猿さんをモデルにした欄間の彫刻や山岳画家の第一人者でもある山里寿男先生の油絵も展示された。時を同じくして、猿まわしの世界に飛び込んできた人たちが落ち着いてお猿さんと向き合い修行出来るためにと劇場の敷地内に調教師専用の寮の建設にも着手していた。

 5月、チョロ松も13歳を迎え、心なしか体力の衰えを私は感じはじめていた。人差し指の怪我以来チョロ松の調子はよくなかった。そんな時に引退させてあげたらどうかという話が持ち上がった。会にとっても自分にとっても宝であるチョロ松、そして今なお全国各地から寄せられるチョロ松への公演依頼など多く、現役続行と引退かで悩みに悩んだ末、チョロ松を元気な内に引退させることで気持ちを固めた。チョロ松は阿蘇猿まわし劇場にある現役の芸猿や引退した芸猿が一緒に暮らす遊び場付の猿舎で晩年を過ごした。奇しくも親父の相方だった芸猿常吉も同時期に引退していたので、現役時代よりも長い引退生活をゆっくりのんびり楽しんでくれたのではないか。二頭とも時折舞台上で見せていた緊張感のある素顔がすっかりなくなり、引退後もチョロ松を訪ねてくるマスコミ関係者に興奮することなく冷静に対応してくれた。初代チョロ松は引退しても周防猿まわしの会の誇る大スターであった。

 初代チョロ松の名跡を受け継いだのがチョロ松Jr(愛称ジュニア)である。本来なら二代目チョロ松と命名するところだが、これから相棒となる若干2歳のかわいらしい小猿でもあり「Jr(ジュニア)」と呼ぶのに何となく響きもいいし、当時のチョロ松にはぴったりだと考えた。Jrという名前を選んだもう一つの理由は私がサミーデーヴィスJrの大ファンだったからだ。大学生の時に友人に薦められて観た映画があった。「オーシャンと11人の仲間(後にオーシャンズ11という映画でリメイクされた)」の主人公役でもあったサミーデーヴィスJrを観てファンになり、当時から洋楽が大好きなこともありの彼の音楽も聴いた。アメリカを代表する歌手でもありまたエンターティナーとしてもアメリカだけでなく世界中で認められた人物でもある。
初代チョロ松が引退し、ジュニアとの新しい物語が始まる。

 初代チョロ松には圧巻の芸と名声があったが、ジュニアとはこれからだ。だが不安よりも新たな希望がわいてくるのだった。8月に予定されている「ナイトシアター」と題した劇場始めての試みでもあった営業時間外の夜の公演でのデビューが決まり、公演前日までに足下1m80cm以上の竹馬高乗りに乗れるという目標を目指すことになった。

第二十九話 人生の師に出会う

 1991年6月、チョロ松ジュニアとデビューに向けての稽古が始動した。「明日、舞台に立て」と言われればすぐにでもデビューできるぐらいの基本的な芸はマスターしていたが、一人前の芸猿として舞台に上がるにはいくつかの芸を習得しなければならない。どうしても初代チョロ松と比較するので焦りが先走る。「竹馬高乗り」を極端に高くして無理をさせる、早く「八艘飛び」の芸を完成しなければという私の思いがジュニアに負担をかけてしまって、挙句の果てには怪我をさせ、療養期間も取ったためデビューが遅れた。初代チョロ松と苦労したこと、チョロ松から学んだことは生かされることなく3才を迎えたばかりの精神的にも肉体的にも子供であるジュニアに10才の成猿でないとできないようなレベルの芸や風格を求めた。本当は3才のジュニアの輝きやかわいらしさがまず芸の中心に据わるべきである。私が理想を求めるあまりジュニアの魅力には気付かないでいたが、お客様はジュニアの仕草を勝手に喜んでくださっていたに違いないし、ジュニアの魅力は自然に伝わっていた。ただし救いだったのは、「基本が大事だ」と親父に口すっぱく教えられたこともあり基本を馬鹿の一つ覚えのように欠かさず徹底してやったことでみるみるうちにジュニアも立派な芸猿になり、相変わらず強引ぶりだった私の指導をジュニアは受け止めてくれ成長していった。

 夏休み中盤にさしかかり、「ナイトシアター」と題して阿蘇猿まわし劇場初の試みでもある夜の公演が行われた。コンセプトとしては通常の公演では試せない演目に挑戦し新しい芸を開発していくための実験的な公演を行うことが目的であった。復活以来始めて4組のコンビが同時に舞台上に出演し、従来の1組では難しかったコントなど今までにない舞台を試みた。狭い舞台に相性も年齢も違う芸猿が同時に出演することは難しい。それを試すことで猿まわし芸の可能性を広げていけないか若い未熟な芸能集団であるだけに怖いものなしの私たちは前向きにチャレンジしていく気運に包まれていた。ジュニアは課題とされていた足下1m80cmの竹馬高乗りが出来るようになり、公演のおおとりでもある竹馬高乗りも一発で成功させ場内を沸かせた。夜開催の公演で心配されたチケット販売は地元の方の応援もあって沢山のお客様に来場していただき、満員御礼の大盛況であった。

 そんな時を同じにして阿蘇猿まわし劇場にお客様が訪れた。猿まわしの舞台を豊かにしていくために外部のアドバイザーが必要だと芸能部長が提案し数名の方を阿蘇猿まわし劇場に連れてきたのだ。芸能部長だったT兄が東京で知り合った方達であった。以前紹介した若き日の餅つきパフォーマンスの藤井さんや当時フィールドワークで全国を駆け巡っていた田口さんなどすでに知り合いだった方もいらっしゃったがまったくの他人である人間が介入してくるように思えて受け入れられなかった。ましてや猿まわしの調教師や芸人でもない人間がお互いの信頼関係もない中で突然私たちの稽古に参加し猿まわしの今後の舞台について勝手に意見を言い出したことで私は完璧に拒絶した。そのときは最後まで私は心を開くことが出来ず訪問者との関係に違和感を拭えずに時間だけを経過させてしまった。

 しかしその後付き合いが続いていくうちにある一人の方には気持ちを許せるようになってきた。その方は終始にこやかで、ある時「あっ、この人は本当に猿まわしが好きなんだな」と思った。その瞬間に私から自然に話しかけるようになっていった。舞台を鑑賞し意見を求められると必ず最初に、自称「猿まわしおたく」と自己紹介した上で気取らずゆっくりお話しされるし、持論を話されるより我々の話を聞きしっかりすべてを受け止めてくださる。また、「猿まわしは歌舞伎より能や狂言が参考になる。」「お猿さんが上手くできるところだけでなく苦手なところ、失敗も組み込んだ台本を創るべき・・・。」と舞台から芸能集団としての在り方、はたまた人材育成まで多岐にわたり我々の血肉になる言葉をいただいた。

 古川さんである。見た目の第一印象は「猿まわしおたく」とはほど遠い「如何にも都会のインテリ」という雰囲気をかもしだしている方である。三重県御浜町出身で早稲田大学卒業後「紀伊国屋書店」に就職。後に退職して東京神田で出版社を立ち上げられた。民俗学をはじめとして学術書など出版物への評価は高い。その民俗学が接点となり我々とも長くお付き合いいただくこととなった。

 古川さんは猿まわし復活当初から、周防猿まわしの会のお猿さんたちの無類のファンである。後に周防猿まわしの会の顧問をうけてもらい、血の気の多い村崎兄弟の潤滑油役を長きにわたり務めていただいた。猿まわしの舞台についても顧問という立場ではなく常に「猿まわしおたく」としてお客様目線でアドバイスをしていただき猿まわし芸能の発展を見守って下さった。これからチョロ松物語で展開されていく芸術祭出演、アメリカ公演、明大前実験劇場公演、北海道ツアー、河口湖猿まわし劇場オープンと数々のチョロ松・五郎コンビのドラマを書く中で決して外すことの出来ない人物であり、村崎五郎を成長させてくれた大恩人であると感謝しています。

第三十話 見えない糸

 新人の調教師見習いが増えるようになって私の負けず嫌いの種火に火が点いた。二代目、チョロ松Jrとは本当によく練習した。休憩をはさみながら一日中稽古することもあった。当時の私が理想としていたお猿さんの芸は、とにかくどのお猿さんより高く飛び、そしてどのお猿さんよりも遠くへ飛ぶ、そしてどのお猿さんよりスピーディに動くことであった。Jrはそんな私の理想に近づけるだけの体力と精神力を兼ね備えたお猿さんであった。阿蘇猿まわし劇場の舞台と客席は1.5メートルあるが竹馬に乗ったまま軽々と飛び移るなり段差の客席をポンポンとかけあがってゆく。跳躍力、目標に着地する確実さ、そして脚力は鞍馬山の義経を連想させるほどであった。
 調教師のしゃべりや表現力で漫才のように笑わせる芸に人気が集まる中で、人前で笑いをとれるほど器用でもなかった自分はまずお猿さんの輝きを大事にしたいと思っていた。それに、人間の漫才のようにスピードを求めるあまり、笑いの代償としてタナ(お猿さんをつないでいる紐)を短く持ってしゃくる調教師が増えて同じことはしたくなかった。笑いにつながるといえば、ソフトボールをチョロ松Jrに持たせ目の上にくっつける「目の上のたんこぶ」というネタをそのころやっていた。二日酔いのネタも好きだった。全く演じていなかったわけではないが、笑いも織り込んみバランスのとれた構成の演目を本格的に目指すのはもっと後になる。小手先の笑いに走らないでお猿さんの輝きを大事にするまわり道を選んだことで猿まわし芸の美しさ楽しさを幾重にも追求表現できる現在があるのではないかと思う。

 1991年春、周防猿まわしの会は文化庁主催の芸術祭に参加する方針を建て実現に向け奔走した。大道芸で生きてきた周防猿まわしの会が阿蘇猿まわし劇場という専用劇場をもってからは、大道芸から舞台芸への昇華を如何に実現するかが課題となっていた。大道芸の猿まわし芸を単純に舞台へ載せたばかりの頃で、舞台芸としての蓄積がはじまったばかりであったから、国を代表する「舞台芸の祭典」への出演は背伸びした大それた目標であった。

 動物芸として初の参加希望、そもそも大道芸であった猿まわしの参加が認められるかそれが第一難関である。その件について水面下で文化庁に問い合わせたところ「参加を歓迎します。」という回答をいただいた。後にわかったことだが、山口県で周防猿まわしの会による猿まわしの復活運動がおこったことに強い関心とそのスタイルに期待をしてくださっていたのだ。多くの応援団の支援で復活の意義が伝わっていたことに深く感謝している。周防猿まわしの会としては昭和期最後の猿まわし調教師である重岡フジ子さんを広く知っていただくことができるし、村崎義正が後世の子供達に見せたいと希望した復活猿まわしの力強い生命力を伝える場にもなることを願った。そこにチョロ松Jrと私も参加することになった。お猿さんの輝きを表現するために欠かせないコンビとして選んでいただいたと後で知り、喜びと共に気合も入った。

 第二関門で芸術祭参加に暗雲がかかった。参加公演規定では10月中に東京都23区内にある劇場もしくはホールで公演時間90分以上の演目をおこなわなければならなかった。大抵の公演は一年前からホールを押さており、一年以内では探すのは手遅れであった。
 というわけで芸術祭参加を決めたものの夏が近くなっても、まだ公演日程、公演ホールが決まらなかった。残念ながら今年は断念という流れになった頃、私は兄(現在の社長)に呼び出された。そう簡単に引き下がらないのは義正譲り、兄は一見難しいと思えても角度を変えて可能性を探る。ずぶの素人である私にホールを探せという。ホールを借りての公演など経験したことがない私にはまったく見当がつかなかったが、とにかく専門雑誌を買ってきてしらみつぶしに探し始めた。経験もなければ先入観もない若者は何をしでかすかわからないが、可能性も秘めている。
 まずは人を集めやすいのは都心ではないかと考え新宿区、渋谷区、世田谷区あたりにターゲットをしぼった。パルコ劇場、新宿シアタートップスは予約で埋まっていた。次に主役であるお猿さんが気持ちよく芸を演じることができる舞台、なお且つどの客席からでも主役であるお猿さんがしっかり見えるホールでなければいけないという考えのもとにホールを徹底的にさがしまわった。青山円形劇場、「こんなホールでやってみたいな」と思う素晴らしいホールはあるが料金が高すぎて合わない。「ホールがよくて料金もリーズナブルで、ここであれば」と問い合わせしてみると申込みが遅すぎて空いてない。
 兄からは、「諦めるな」。都心にこだわるのでなくもっと視野を広げて探したらどうかと提案され、北区、足立区、台東区、そして墨田区とエリアを広げること数十件目、「猿まわしの舞台にぴったり」と思えるホールに出会うことができた。このホールはほしかった3日間連続の借用が可能で借用料も手が届く。京成線曳舟駅を降りて徒歩1分の場所にある墨田区にある曳舟文化センターであった。私が見つけたのも本当に偶然なのだが、この曳舟は猿まわしにとってゆかりの地であった。曳舟と報告した瞬間兄は絶句した。驚いたことに、大正昭和期に猿まわしの一団が常宿、拠点としていたのが押上、曳船界隈であったのだ。昭和期最後の猿まわしであった重岡フジ子さんは押上から上野公園に出没して猿まわしを行っていた。村崎家の先祖もここを足掛かりにしていた。何とも言えぬ猿まわしの歴史の奥深さを感じたのを憶えている。すぐにホールが空いている日を押さえて公演日を決定した。1991年(平成3年)10月7日(月)8日(火)9日(水)の午後7時開演、場所は曳舟文化センターである。
 今年、この押上駅に東京スカイツリーが開業したことで有名になったがまさにここに我々はさまよいながらも導かれた。

第三十一話  1キロの衣裳

 曳舟文化センターに会場が決まってから芸術祭への準備が急ピッチで進み始めたが、実は公演まで一ヶ月後にひかえた段階でまだ3割近く空席があった。とくに芸術祭の審査委員の先生方が観劇される10月8日(火)の公演はなんとしても満席で迎えたかった。空席を残さないという気迫で、芸人総出で京成線曳舟駅をはじめ浅草・上野を中心に通勤時間のラッシュをねらって早朝、夕方とチケット販売に奔走した。すれ違う人という人、下町の人達の人間味ある暖かい言葉や人情深さにふれあうことで本当に励まされた。たくさんの方の応援やスタッフ一丸となった販売活動が報われギリギリになってチケットが完売した。
   芸術祭に参加できること、そこで様々なチャレンジをすることは猿まわしの芸能を継承するうえで貴重な経験を重ねることができるけれど、芸を育て、舞台を支えるには舞台に立つ、つまり芸猿と調教師だけでなくスタッフそしてプロデュースを含めた総合力を周防猿まわしの会が持っていなくては良いチャレンジができるわけがない。残念ながらその当時素人集団だった我々は、そういう力を持っておらず、外部にご協力を仰ぐしかなかった。さらに、芸術祭参加プロジェクトの組織体制も弱点だらけだったので舞台内容の決定から稽古の進め方まで大きな問題を抱えていた。その弱さを今は率直に見つめることができるが、その当時は偏った意見が通ったり、強引な決定がまかり通りしわ寄せがお猿さんや立場の弱いスタッフに押し付けられることとなった。自分としても当時を振り返ることさえ断腸の思いである。内部のメンバーにとっては芸術祭参加が叶いお祝いムード一色とは思えなかった。ただ、客席を満席にすることだけは一丸となって取り組めたことを誇りに思う。

 舞台演目の目玉は、当時脚光をあびていた猿之助さんのスーパー歌舞伎に刺激を受けた「義経」物語であったが、それでいいのか議論が起こり、最終的に我々が信頼を寄せる古川さんら数名の方に演出グループに入ってもらい演目構成、および演出が実験的な舞台に偏ることなく、お猿さん本来の輝きも随所に入る4幕構成の舞台内容になった。特に幕開けとなる第一幕「重岡フジ子」の世界は、鍛えあげられた猿まわしの名人芸をシンプルにお見せする一幕で会場の雰囲気を一気に猿まわしの世界に引き込む内容であり、実際もこの第一幕が多くの方から評価をいただいた。
 チョロ松の出番は「義経」を題材にした演目での源氏の武士役、そして「猿まわし十八番芸・八艘飛び」である。どちらもチョロ松らしい運動能力が十二分に発揮することができる舞台になるはずであったが、ことはそう簡単には進まなかった。第二幕「義経」の演目でチョロ松達が着用する衣裳が仕上がってきたのだが、衣裳を試着して驚いた。当時、体重5キロもない体格のチョロ松に1キロ近い重さの衣裳を身に着けさせ舞台にたつというのだ。当然チョロ松といえどもこんなに重い衣裳を身に着けては本来のチョロ松らしさを発揮できない。しかし当時の私にはこんなに基本的で大事な感想を言えずに、またそれを理由に芸のレベルを落としたと思われることが許せず、本番に向けチョロ松にさらなるハードな稽古を強い無理をさせてしまった。そして、舞台内容では同じ舞台上で他の共演者(調教師・芸猿以外)ともからむ部分がかなりあるので難しい。そこは警戒心旺盛なお猿さんには苦手であった。しかも演出代表はその部分克服の稽古に時間を割く気はなく、出来不出来は各コンビの調整に任された。ただいくら調整しようが慣れない人間と舞台に立ってうまくいくはずがない。今では基本中の基本ともいえる演出がどうどうと無視される状態であった。したがって、ろくに共演者とチョロ松との練習時間が十分とれず、主役であるお猿さんたちが安心して舞台に臨める環境づくりもないまま時間だけが過ぎていった。
 そんな時、古川さんから演出グループに対し「人間のエゴでお猿さんが本来持っている動きを損なうような無理な衣裳を身に着けさせて舞台に立たせるべきではない」。と提案してくださった。誰も言えない空気の中での古川さんの言葉に私は救われた気持ちだったが、そんな意見にも耳を傾けようとしていない演出代表に私は疑問と不信感を持ったまま芸術祭は迫っていった。


 2012年7月12日集中豪雨災害 皆様への緊急アピール


 2012年7月初め、北部九州各地で大水害被害が発生しました。観測史上例を見ない雨量が短時間に集中的に降ったというニュースは皆様に届いておられることでしょう。阿蘇地方は7月12日未明の数時間で最大雨量を観測し、防災に備えた大河川も決壊、人的被害も甚大なものとなりました。我々といつも連携してくださる宿泊施設、立ち寄り施設、お食事処も復旧に相当長い時間を必要とするところもあり、営業再開も決まらない施設もでるなど事態は深刻を極めました。劇場も大規模な谷の崩落で傷跡生々しく一丸となって復旧にあたりほぼ現状を回復しました。地元の有志の応援と計らいで業者を紹介してくださったり、大量の土砂を運んでくださったリと尋常ならない応援をいただきました。一瞬の集中豪雨が7月から夏休みを挟んだ9月まで観光に大打撃をあたえるなどと、誰が想像できましょうか。我々も大きな落ち込みで冬を前にして緊張感を持たずにはおられません。豪雨による被害から、今では復旧作業も進んでおり主要道路も通行可能となり安心安全に観光していただけるところまで回復しましたが、風評被害も含め観光客の足が止まった状況で一向に阿蘇の観光に回復の兆しが見えません。このままでは、阿蘇猿まわし劇場の運営のみならず周防猿まわしの会の存続すら危ぶまれる状況です。時代の流れと共に衰退し一度は途絶えてしまった千年の歴史をもつ伝統芸能「猿まわし」が再び途絶えることのないように河口湖猿まわし劇場と阿蘇猿まわし劇場が共に力を併せこの困難を乗り越えていかなければおけないと考えています。ぜひともこの伝統芸能「猿まわし」消滅の危機を救うべく国民の皆様の更なる応援をよろしくお願いいたします。どうか、これまで以上に阿蘇・河口湖の両猿まわし劇場に足を運んでくださり秋の安全安心、実りの秋を楽しんでいただきますことを伏してお願い申し上げます。

第三十二話 渡る世間は鬼ばかりですか・・・。

 1991年10月7日(月)、平成3年度文化庁主催芸術祭参加の日を迎えた。主役であるお猿さん、芸人、客演する役者さん、プロデューサー、舞台監督、音響、照明、その他たくさんの関係者含め総勢50名近いスタッフが曳舟文化センターに集結した。早朝から舞台道具、舞台セット等の搬入も終り、何よりも一番大切な主役であるチョロ松達お猿さんの個々の稽古は入念に行った。特に、二幕で共演する役者さんたちとの稽古には熱が入る。当然公演をむかえるにあたってこの場面の稽古は十分におこなってきた。・・・・・午後からのゲネプロ(通し稽古)をひかえた会場は何とも言えない空気に包まれ、緊張感だけが増してくる。音響スタッフさんの最終チェックの音楽がステージ上に大音量で流れる。そんなとき、曳舟文化センターのステージの全責任を任されている方が、「今流れている曲はもしかしたら大阪の音楽家、鈴木きよし先生の曲ですか」とたずねてきた。私は当たり前のように「そうですよ。」と答えたのだが、次の瞬間お互いに「何故?鈴木きよし先生を知っているんですか?」というようなちんぷんかんぷんな反応になっていた。鈴木きよし先生は、親父村崎義正と数十年来兄弟同然の親交があり、村崎義正の会葬のときには葬儀委員長も務めていただいた。チョロ松・五郎コンビが吉本興業の梅田花月、なんばグランド花月に出演する際には吉本興業との間を取り持っていただいた。ちなみに鈴木先生は吉本興業の有名タレントさんの漫才や新喜劇等の台本も書いていらっしゃる。阿蘇猿まわし劇場オープンのときには、猿まわし劇場オリジナルソング「お猿音頭」を作詞作曲していただき、今でも阿蘇・河口湖猿まわし劇場の舞台開演前には客席に流しているので来場した際には是非お聞きください。自然に手拍子してしまう曲です。
 曳舟文化センターの責任者の方は以前音楽関係で鈴木先生と縁があり、師匠と仰ぐほどの深い親交があり「今でも尊敬する人物だ。」とお話してくださいました。その直後、会場入りした鈴木先生と久しぶりに固い握手を交わしたお二人は久しぶりの談笑を楽しまれたようです。ニホンザルを舞台に上げての公演など当時は前代未聞のチャレンジだっただけに、曳舟文化センターとしてもどう受け入れるか悩まれたことでしょう。無名の周防猿まわしの会の公演は大丈夫か、そういう心配もされる中で、鈴木先生がバックにいることで強い絆が生まれ、公演への協力関係が深まった。

 第一幕で出演してくださる周防猿まわしの最後の継承者「重岡フジ子」、そして猿まわしの芸能を絶やさずつないでくださった先祖の皆様のあゆみを刻むためにこの芸術祭参加公演があると未熟な私にもふつふつと闘志が湧いてきた。会場に来られたお客様、審査員の皆様、凛々しい芸猿の立ち姿を観てください。無名だけれど身体に染みついた芸を保持する重岡フジ子の芸の深さ、そして軽妙であたたかい日本女性の芯の強さを存分に味わってください。

 午後、マスコミの取材陣も入る中でのゲネプロがおこなわれたが、チョロ松出演の場所は十分な稽古の成果もだせて台本通りの動きができた。あとはパートナーである私が良い緊張感を保ちつつチョロ松らしさを発揮させることができるか。

第三十三話 まもなく、舞台の幕が上がる

 背伸びした・・・・・。埋め尽くされた客席の熱気が出番を待つチョロ松と私にも伝わってくる。そしていよいよ、大道で育った芸能が「芸術祭」の大舞台に立つ。

 第一幕「重岡フジ子の世界」。芸猿大吉とフジ子は舞台に登場すると一瞬のうちに500名の観客の空気を掴んだ。そして観客の気持ちを自分たちのペースに引き込む。客に媚びることなく「ねんねん子守り」「月形半平太」といった重岡先生の古典芸が展開されていく。大吉は気性が激しく楽屋でもチョロ松たちとは一緒の部屋に出来ないほど負けん気が強かった。しかし、重岡先生の手にかかれば借りてきた猫だ。いや猿だ。そんな大吉が重岡先生の言葉と軽快な太鼓さばきでまったくタナも感じさせない見事な動きでお客さんを魅了していった。派手な芸に頼るのでなく基本的な動きだけで豊かで心温まるシーンが会場を魅了する。大吉の名演技もさることながら、重岡先生の迫力には圧倒される。袖に控えていたが出番が近づくにつれより緊張感が高まってくる。約20分の演目が5分ぐらいにしか感じられない素晴らしい大吉と重岡先生の舞台であった。

 出番がきた。第二幕「義経(創作舞台)」。数か月にわたり十分な稽古時間も作り納得の中で臨むだけにチョロ松の調子は良かったと思う。配役は源氏役である。平家役である役者さんと決闘の絡みのシーンはチョロ松らしさをもっともアピール出来る大事なシーンである。四人が横に並んで突き出している四本の矢の上を飛び越えていく。高さ70センチ、横幅2メートル以上はある四本の矢の上をチョロ松が美しく飛び越えていく。見事に決めてくれた。一緒に演じている私が惚れ惚れするぐらいチョロ松の芸は美しかった。翌年のアメリカ公演でメインの写真となりチラシに使われたほどである。
 続く祝宴のシーン。戦に勝って祝杯をあげている源氏役のチョロ松と勘平のかけあい。ここは役者さんとのかけあいが入るので上手くいくか不安ではあったがコントを得意とする勘平・Dさんコンビの絶妙なテンポでお客さんを笑いの渦にひきこんだ。
 ただし、創作的なこの第二幕全体の評価については、人間の芝居に近付けようとして、落ち入る間違いを含んでいたことを後々痛感させられた。歌舞伎仕立ての方向には、独創的な舞台は不可能である。猿の魅力を引き出すことはできないばかりか、この第二幕では猿が邪魔になってしまった。本末転倒である。芸術祭が終わっても実はこの視点の整理がつかないまま、アメリカ公演までこの演目を続けた。周防猿まわしの会が越えるべき課題であり、矛盾の刃が一層凝縮して私に突き付けられることとなる。お猿さんが輝く舞台の楽しさが失われた悔しさを私も周防猿まわしの会も経験することとなる。

 第三幕は「周防猿まわしの会十八番芸」である。鍛え抜かれたお猿さんの大技が会場の重い空気を開放し興奮を呼ぶ。その一、輪抜け、直径30センチの輪を芸猿じゅんが軽快に飛び抜ける。一つの輪、そして二つの輪を縦に並べて「鯉の滝登り」、そして目いっぱい、横に広げた「うぐいすの谷渡り」と成功していった。続いて、「八艘飛び」はチョロ松の出番である。離れた階段から階段をより広く、高く飛び移り逆立ちする。一度跳んだら逆立ちのまま最後の静止までやめない。チョロ松の高鳴る呼吸が静かな会場に伝わる。階段間の広さは3メートル50センチ。さらに階段の高さは通常の二倍もあったが、チョロ松は稽古通りに決めてくれた。締め括りは「竹馬高乗り」、芸猿勘平が、足下3メートル、全長は勘平の身長の約5倍の高さもある竹馬に登る。緊張すれば失敗がありうる難しい芸だけれど一発で決め、客席の雰囲気は最高潮に盛り上がった。

 第四幕はエンディング。芸猿次郎が周防猿まわしの会の復活の思いを回想的に描いた無言劇を披露した。会場に静かな感動の波紋が広がっていった。

 芸術祭を振り返るとき、忘れられないのは第七話でお話しした藤井信師匠。和楽器を駆使して舞台の格調を高めるお手伝いをいただいた。今は大学教授の要職にあるが、その当時は若き民俗学の研究者であった田口洋美先生にはマスコミをはじめ様々舞い込んでくる問い合わせを捌いていただいた。阿蘇猿まわし劇場の久保さんには慣れないプロデューサー役を担っていただき、全体の調整役として忍耐のいる役割で芸術祭を無事終わるまで導いてくださった。演出家グループの一員として「しっかり稽古時間を持つことが大事だ!主役のお猿さん目線の台本、演出が大事!」と口酸っぱくアドバイスしてくれた古川さんの助言がありお猿さんも気持ちよく舞台にたてた。

 審査員の先生方による満場一致で「芸術祭賞」を受賞するという名誉にも輝いくことができたのも、まさに支援くださったお客様と舞台を支えてくださったたくさんの方々がいたからこそ。今でも感謝の気持ちを持ち続けています。

 「芸術祭」最後のカーテンコール・・・・・。
 ここまで支えてくれたたくさんの方たちがお祝いに駆けつけてくれた。中でも一番記憶に残っているのは俊(トシ)ちゃん。高校時代の先輩兼友人である。当時毎日のように通っていた都内高円寺のモナミという店は矢沢永吉のファンが集まる。そこのマネージャーをやっていたのが俊ちゃんだ。俊ちゃんと店主の阿部ちゃん(私はマスターと呼んでいた)には当時たくさんの迷惑をかけたにもかかわらず、いつも応援してくれ、そして何より不器用な村崎五郎を良い意味で壊して芸人らしく鍛えてくれた二人だった。そんな俊ちゃんとマスターがカーテンコールの時にバナナとバーボンを両手に抱えて舞台にあがってきて「おめでとう!」って渡してくれたことは本当に嬉しかったこと今でも忘れられない。

第三十四話 シマヤ「めんつゆ」CMに出演

 芸術祭という舞台を終えて一息つく間もなくチョロ松と私には大きな目標があった。都内で開かれるお祭りに三日間連続で出演する。このお祭りは延べ20万人もの人出があるということであったが、出演料はなく、投げ銭(芸をみせてお客様からご祝儀を投げていただく)がギャラになる。当時乗りに乗っていた私の闘志に火がつき大道での記録更新を狙うつもりで出演した。毎回黒山の人だかり、嵐のような祭りだった。そしてこの時の記録は20年経った今でも破られていない
 日本はバブル時代の絶頂期であり勢いよく仕事が舞い込んでくる。1992年、チョロ松ジュニアに初のCMが決まった。周防猿まわしの会と同じく山口県に本社のある「シマヤ」からの出演依頼だった。夏向け商品である「めんつゆ」のCMである。私も子供の頃から「そうめんを食べるならシマヤのめんつゆじゃろ!」と思って食べたくらい馴染みのある商品だったので本当にうれしかった。しかも、当時、NHK朝の連ドラで脚光を浴びている女優羽田美智子さんとの共演である。
 織田信長扮する羽田美智子のもとへ木下藤吉郎扮したチョロ松が「つゆ」を届けるというシチュエーション。羽田美智子さんの「サル、つゆをもて」という台詞を受けてチョロ松がコミカルな動きで「つゆ」を届ける。撮影は京都の太秦映画村にて行われた。ただ今回は、共演者の羽田美智子さんが動物アレルギーということで事前にリハーサルすることが出来ず、ぶっつけ本番での撮影になった。それとチョロ松が縦横無尽に動きまわるのでタナ(猿をつないでいる紐のこと)の処理が難しく、タナがどうしても目立ってしまうのでかなり頑丈な釣糸を使用することになった。が、この釣糸も照明に反射してしまう。結局、撮影でよく使うピアノ線に行きついた。プロデューサーや映像担当者はかなり苦労すると覚悟していたようだが収録は順調に進み当初二日間予定のところわずか一日、しかも5時間で終了した。直後ビデオを見せてもらった。チョロ松ジュニアの軽妙でかわいい、小猿当時でしかだせない味がふんだんに盛り込まれた内容だったので初代チョロ松のCMに負けないくらいの反響を期待したが、夏限定のCMであり、放映は西日本に限られていた。しかし、故郷山口県を代表する商品のCMに出演させてもらい本当に感謝している。
 そして7月には池袋サンシャイン劇場にて芸術祭賞受賞記念公演、8月から9月にはアメリカ公演を行うこととなり、休む間もなく勢いに乗ってスケジュールをこなしていく。実はこの時、大きな落とし穴が待ち構えていた。猿まわしとは何か、自分の力はどれほどのものか自覚せざるおえないほどの挫折をあじあわされることになる。

 

周防猿まわしの会

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