チョロ松物語

第一話 チョロ松へ

 初代チョロ松は2007年(平成19年)1月14日に永眠しました。日本猿の年齢で29歳、人間の年齢にするとほぼ100歳と大往生であった。

 チョロ松へ

 君とコンビを組んだのは24年前の1986年(昭和61年)2月24日だったね。チョロ松は8歳、芸猿としては一番脂がのっていて、何より1人の調教師を辞めさせるまでに追い込んだ強者、僕は20歳、日本体育大学在学中で体力的にも自信に満ちあふれお互い血気盛んな頃ではあったと思う。そんな2人がコンビを組んで翌日デビュー、その日のことは当然忘れることはないよ。猿まわしにおける僕の原点だからね。当日は、ツアーの方が80名ぐらいだったかな。デビューと言っても君は芸歴6年、しどろもどろの僕とは対照的に無難に芸をこなしていく、そしてクライマックス、猿まわし十八番芸、輪抜けの『うぐいすの谷渡り』、君は全く飛ぼうとしない、飛ぶ気もない、僕のいうことを聞かない君の行動と焦っている僕を観ているお客様は大爆笑、公演終了後怒りのおさまらない僕は君を責めまくった。そして君を押さえようと掴んだ左手の親指に…。一瞬の出来事だったけど、僕の親指は君に食いちぎられていた。力で責めてくる僕に君は『ノー』と言ってたのに僕は気付かなかった。逆にそっちがその気ならやってやろうじゃないかという勘違いの方向にいってたような気がする。 

 親父(注:周防猿まわしの会初代会長村崎義正)に散歩の稽古を指導してもらった時のことを憶えているか。当時の日課だった多摩川の河川敷1.5キロの散歩、半分過ぎたあたりだったかな、疲れてきて歩くのを拒否する君を無理やり歩かせようとする。その時親父が「チョロ松は歩きたくないと言ってるのに何故お前は無理やり歩かせようとする。大切なのはまずチョロ松の気持ちだ。」それからしばらくしてチョロ松が歩こうとした時「そうか、歩くか、よしええど」チョロ松と会話している親父に驚いたし、何よりチョロ松の気持ちを大切にしていた。その時、もう1つ大切なことを教えてもらった。「ええか、やらせちょる芸は猿まわしの芸じゃない、お猿さんが自ら動くのが芸じゃ。」
 あれから24年間、楽しくも苦しくももがき続け、少しずつだけど調教というものを理解してきたような気がするよ。あの時君が言いたかったのはこういうことだったんだと思う。君も僕もお互いのことを何も知らないのに、僕は人間の一方的な理不尽さで「僕のいうことを聞け、俺をなめるな」と言わんばかりに力づくで動かそうとした。僕は君のことを知ろうともせず、「何故俺の言ってることを理解しない」と責める。本当に申し訳なかったと思っているよ。

 今も、周防猿まわしの会の芸能部長としてお猿さん、若手調教師、沢山のお客様から大切なことを学ばさせてもらってるよ。ちょっと気付くのが遅い気もするけどね。もう一度君とコンビを組めるのなら本当に嬉しいな。今の僕であれば、間違いなくあの時より君の持っている能力を引き出すことが出来ると思う。

 最後に、もう一点君に教えてもらった大切なこと、猿まわしの芸の主役はお猿さんであり、お猿さんの芸は命であり宝であること。肝に銘じて猿まわしの発展に努めるよ。

 チョロ松、本当に有難う!

第二話 親父の罠

 大学1年の冬、後期の試験を終え、次のバイト探しを始めようと考えていた時、1年に1回の本社(山口県光市)に集合する際に、親父から「義則も一緒に戻ってくればいいじゃないか」と話がある。日頃は学生の身分で、そんなに故郷に帰ってくる必要はないという親父が「帰って来い。」という言葉には、一瞬迷った。というのは、東京の事務所では、連日深刻な話が続いている。
 まさかとは思ったが、帰るにあたっては、「そろそろ猿まわしを継がないか」という話をふられた時の事も含めて、覚悟を決めておかなければと思った。
 そして、1985年2月20日、車で、山口に一緒に戻る。帰った際に、親父のにやけ方が妙に気になったので、友人のところへ遊びに出掛け、自宅にはなかなか戻らなかった。
 翌日の2月21日の夕方、自宅に戻ると、ダイニングで和やかな雰囲気の雑談が聞こえるが、こっそりと部屋に戻ろうとすると、「義則戻ってきたか。」と親父の声が、この瞬間にダイニングに行くのであれば、本当に覚悟を決めて行かなければいけない。本当に一瞬の間だが、覚悟を決めた。常日頃から、親父の口癖は「迷うな!返事をするのに何秒もかかるのは駄目だ。」と子供の頃から言われていた。
 「ちょっと来い。」と言われ、行くと、その空気には緊張感は全くなく、入りやすい雰囲気をつくってくれたのか、ただ座ると同時に、親父からは予想通りの話が即座に来た。
 「今日、今までのチョロ松のパートナーが辞めた。このチョロ松という猿は、素晴らしい猿で、このまま引退させるのは、猿まわしの会においてももったいなさすぎる。」
 「それで、お前の夢は、高校の教師になり、高校野球の監督で、甲子園に行く事だったな。俺からすると、大学でも沢山の事は学べる事も間違いない!ただ、甲子園に行くような指導者になりたいのであれば、猿一頭も調教出来ないようであれば、その夢も厳しい。どうか、チョロ松のパートナーになってみないか。」
 その時は、意地と自分が何とかしなければいけないという勘違いの甘さの考えから、即座に返事をした。
 「分かりました。ただ、今日は皆様(その当時の猿回しのメンバー)がいますので、ひとつだけ条件があります。大学は辞めない事、教員免許を取得して高校の先生になる。すなわち、大学4年までやるということでもいいでしょうか。」
 親父もその事は分かっていたかのように、
 「その事は分かった。大学4年までの3年間頼むぞ。」
 と言われ、その時、すでに親父の心の中では、「これで義則は一生猿まわしだ」という確信があったのではないかと思うし、罠というか、親父の思い描いた通りのストーリーになる事さえ確信していたのではないかと思う。

第三話 チョロ松の逆襲

 翌日、2月22日、チョロ松のボスになる為の儀式が行われた。その時、「今日、5番目の息子が調教師になるから撮影に来てくれ。」とドキュメンタリー「モンキーブルース」を制作していた地元テレビ局も呼んでいた。いよいよ儀式の時、緊張だとか恐怖心は全くなかったが、むしろ、村崎義正の息子として出来て当たり前、やれて当たり前という周囲の期待に応えるために開き直ってその場に臨んだ。チョロ松は周囲の空気を察していたのか、私の指示に従い芸をやってくれた。何よりもうれしかったのは親父が喜んでくれたことである。「やはり、俺は親父の息子だ。」と勘違いしてしまう。
 さらに、儀式を終えた後の親父の言葉にびっくりした。「2月23日、観光バスの予約が入っている。さっそく、明日がお前達のデビューだ。」
人前に立ったこともない、台詞も知らない私に「もう、デビュー?」驚いたが時間はない。それから数時間で台詞を覚えさせられ、翌日初めての舞台を迎えた。

 まともに台詞の喋れない私の言うことを聞くわけのないチョロ松、要所要所はチョロ松が勝手にやってくれたが、私の指示に全く動いてくれなかった。
 舞台直後、私はチョロ松を責めた。すると、チョロ松は猛然と私に立ち向かい、左手に向かって咬み付いてきた。チョロ松も命懸けだ。この時はわからなかったけど、チョロ松は凄かった。何が凄いかというと、チョロ松は最初から私が左利きということを見抜き、その左を殺せば、私に勝てるということをわかっていたのだ。この当時は、猿を押さえて背中を咬み付かなければボスになれないと考えられていた。チョロ松を押さえようとした、本当に一瞬の出来事だったと思う(時間にして0.3秒の世界)、私の左手の親指は出血し激痛が走った。お袋に連れられ、光市民病院の救急へ行ったが、「親指の第一関節からもげてますね。」私は震え上がった。というか、ここで初めて日本猿の怖さ!凄さ!野生の強さ!に気付く。
 「やっぱり俺には猿まわしの調教師は無理だ。今だったら辞められるのではないか。」意気消沈して帰宅した私に親父は一言「義則、4月7日(第一日曜日だったと思う)、埼玉県の桶川市役所のイベントが入っている。この仕事はお前が行け!」
 親父は、俺の逃げたいという気持ちをお見通しだったみたいだ。

第四話 不釣合いのコンビ

それからすぐ、東京事務所に戻り、多摩川の河川敷で稽古の日々、自信をつける為に、前日代々木公園の歩行者天国で自主公演に行った。いつも親父が言ってくれていた言葉「呑まれるな呑め」を心の中でリピートしながらお客さんを食ってかかるぞという気持ちで向かったが、やればやるほど自信を失っていく、それもそのはず、チョロ松は芸歴5年、私とコンビを組むまででも数えきれないほどの舞台を経験してきてやるべき事がわかっている。それに対して私の台詞は支離滅裂。しかし初々しかったからか、立ち止まって観てくれるお客さんはとても暖かく応援してくれた。ご祝儀をくれるお客様の声で、「チョロ松君、凄いですね。お兄さんも頑張って下さい。」この言葉には悔しさもあったが本当に励まされた。

 実は私は人前にでるのがすごく苦手で幼少の頃から「あがり症」であった。緊張すると、どもりぐせがあり、デビューした当時は覚えた台詞も人前に出ると全部とんでしまい、何をしゃべっているのかわからない状態だった。でも、チョロ松はすばらしいお猿さんでダメな調教師の私とでも芸だけはやってくれる。猿まわしの場合はやっぱーお客様はお猿さんの芸を見ている。私がダメな分、逆にチョロ松の芸をよりすごいものにしていたのかもしれない(笑)。
 いよいよギャラをいただいての初めての営業、埼玉県桶川市役所のお祭り。その頃の猿まわしと言えばそれはそれは人気があり、会場は狭かったが、大道芸形式で、300~400人は集まっていたかなと思う。極度の緊張感の中、自分が何をしたのか全く覚えてない状態、これこそあっという間の30分。一通りの芸はチョロ松が完璧にやってくれたのは間違いないが、台詞がきちんと出来たのかすら憶えていない。こんな形で自分の猿まわし人生が始まった。

第五話 迷いと甘え

 桶川市の営業が終わって直ぐに、大学二年生の授業がスタートした。親父との約束事がいくつか決められていて「学校が始まったら、まずは学校優先。」ということになっていたが、その当時チョロ松に仕事(出演依頼)が入っているのはまれで、月に2~3本、シーズンで7~8本ぐらいだったのではないかと思う。だから、まずはきっちり学校に行くことができた。通学は片道、約2時間かかっていたため、朝は6時前に起きてチョロ松の散歩だけはやる。立川の河川敷で、約1.5Km~2Kmのコースを30~40分で歩く。お猿さんの小屋の掃除もやらなければいけなかったが、月曜日から土曜日は、同じ調教師仲間のJ君が居てくれたので、掃除は免除してもらい練習だけをして通学することができた。夕方は16時10分に授業が終わるとすぐに帰宅、18時頃から基本的な芸のチェックのため練習を繰り返していた。営業のない土、日、祝日は代々木公園の歩行者天国での自主公演(大道で芸を見せてご祝儀をいただく)にでかける。土曜日は授業がありJ君がチョロ松をキャラバンにのせて代々木公園につれてくる。私は授業が終わると合流して夕方まで10~15回前後、1回10分前後の公演をしていた。日曜日は歩行者天国の場所取りが厳しいので9時前には弁当を買って場所を確保し、12時の開始とともに18時頃まで自主公演を行った。仕事が入っていた日もあったが不思議とデビュー直後の桶川イベント以外あまり記憶にない。学校とチョロ松の両立に必死だったのかもしれない。なんて、かっこうをつけているが、入門して約1年の間、私は2回程、親父を悩ませている。末っ子の甘えとも言われていたが…。

 チョロ松との時間は限られていたが何とか芸を維持しようというだけでなあく、向上心もあったのだが、まだまだ調教師としてはかけ出しの私では何もわからず、どうしても芸を高めようと思えばチョロ松との責めぎあいも強くなり私の気持ちを一方的に押し付けてしまう、そして押し付ければ押し付けるほどチョロ松も抵抗し野生の凄さで向かってくる。調教の難しさ厳しさに直面すると必ず逃げたくなる気持ちを強く感じる時があった。覚悟のなさからか、甘えからか、それは必ず高校野球が始まるシーズンと重なっていた。高校野球のシーズンが始まると、何処か自分の気持ちは調教などに向かず、衝突の理由を作り逃げようとしていたのではなかと思う。

  1回目は7月の中旬頃、夏の高校野球東京大会の予選が始まっていた。何も考えず調教もしないで予選を1日中観に行っていた。2回目、年があけて3月下旬、春の選抜高校野球が開幕していた。その日は月に1度か2度ある多摩川河川敷での調教会の日、まったく調教に身が入らず、調教の指導を謙虚に受け入れられず突然の兄のTさんとの衝突、その場から飛び出した。経過は覚えていないが、気付いたら甲子園球場に来ていた。試合観戦に夢中になり2日ぐらいまったく連絡をとらなかったが、日に日に大変な事を起こしたという実感がわいてきて恐る恐る親父に電話を入れた。親父は私の考えていることぐらいはお見通しだったみたいで、「お前、甲子園に行っちょるんか、気がすんだら東京に帰れ。」さすが親父、完服であった。

第六話 スターへの階段

 1987年4月、大学3年生になり、週22時間の授業時間から、半分になりチョロ松と付き合いのできる時間も多くなってきた。そして、 GW(ゴールデンウィーク)5月5日の子供の日、某テレビ局の朝の情報番組のオープニングの生出演が決まった。当然初めてのテレビ出演、前日親父から電話がかかってきて、また驚きのひとこと「明日のテレビ出演、名前を変えるぞ!義則では平凡すぎる、国民の皆様からも憶えやすい、親しみやすい名前、五郎に変える」、戸惑いがなかったわけではない。勘ぐる訳ではないが、親父にはまた何か別の意図があるのではないか。実は猿まわしをやるにあたり親父と約束を交わしていることが2つあった。第二話で書いた学校優先でのスタートが1つ、もう1つは、教師を目指すという目標があったので、猿まわしは大学の3年間という約束だった。ある意味、猿まわしをいつやめてもいいと逃げ道を作っていたのだと思うが、名前を変えるというのは更なる責任と覚悟が求められるのではないか、自分の持っている夢や目標がある中で簡単に返事をして良いものなのか、返事をするまでに迷いはあった。しかし今までの親父の発言やアドバイスに間違ったことはないし、いつもそう信じていた。こうして「五郎・チョロ松コンビ」が誕生した。

 テレビ出演から2週間後の日曜日、代々木公園に自主公演に行っていたJ君のパフォーマンスを見て声が掛かる。SONYのウォークマンの新CMで日本猿を使いたいということ。他のお猿さんも見てみたいということで、翌日、東京事務所をたずねてきて、チョロ松の見事な体格(その当時10才で、身長95cm体重14kg)、そして何よりその素晴らしい姿勢がいいと、即決でチョロ松に決まった。他にも候補はいたが親父からも「これだけの大きな仕事をやってのけられるのはチョロ松と五郎しかいないだろう」と言う言葉もありチョロ松が選ばれた。「すごい!SONYのCMに出演か!」と大喜びをしていたのも束の間、数日経って、「ちょっとギャラが高すぎるので(動物出演としては破格のギャラ)」と断りの連絡が入り、落胆したが話は二転三転、1週間後、「やっぱりこのCMは周防猿まわしの会のお猿さんでないと無理みたいです、チョロ松くんでお願いします」と連絡があった。後で知った話だが、野生のお猿さんで撮影しようとしたが、イメージ通りの撮影が出来そうもなかったそうだ。まさしく、SONYのCMへの思いと周防猿まわしの会の目指しているものが一致したCMだと思う。絵コンテも決まり、撮影に向けて練習が始まる。ウォークマンを持つ時の肘は直角でないとダメ、SONYブランドを目立たせるため持つ手は絶対動かさない等、今までにない動きにチャレンジした。当時のチョロ松にとってはこの程度の撮影であれば・・・ぐらいの安易な気持ちでいた私達は、過酷な撮影当日を迎えることになる。

第七話 監督を魅了した表情

​ 1987年6月下旬、場所は神奈川県にある芦ノ湖のほとり、現場に入りスタッフの人数・機材に圧倒される。スタッフだけで50人以上はいただろうか。「一体何を作るの?ただウォークマンを持って立っておけばいいんだよね。」ぐらいの軽い気持ちで撮影に臨んでいたので想像していた以上の規模に驚き今までに経験した事のない緊張を感じた。撮影時間はうっすらと靄(もや)がかかっている時間帯を狙っているため、午前5時から8時前後(準備は2時間前から行うので3時過ぎには起床)、お昼は休憩して午後3時から7時過ぎまで一日7、8時間の撮影が三日間にわたった。 いよいよ撮影が始まった。チョロ松はいつも通りに見事な姿勢で「ひじは直角になっていてSONYブランドが強調できている。」と結城監督からもほめられ順調なスタートがきれた。「正直言ってこれなら簡単に撮影も終わるだろう」と思っていたが撮影が進むにつれチョロ松に求められることも厳しくなってきた。そしてもうひとつ自然との闘いがあった。たまに吹くちょっとした風でチョロ松の輝いた毛並みが動くと監督の「カット!」。そしてチョロ松は長時間の撮影と同じ動作の繰り返しで徐々に飽きがきてテンションが下がり、ウォークマンを持つ手が微妙に下がる。本当に微妙に下がるだけで監督の「カット!」。チョロ松に同情したくなる様な緊迫感の中で撮影が続く。あってはならないことだが二日目の撮影中には、私の気持ちが切れかける。すると撮影に立ち会った親父からは「五郎、代わりのコンビは他にもおるんじゃけえ、やる気がないなら今すぐやめて帰れ。」その時の私は言われれば言われるほどふて腐れてしまい空気を悪くしてしまう。監督から、「休憩しましょう。」という声がかかる。そんな時に盛りあげてくれたのが撮影スタッフの「げんちゃん」。彼は同世代でもあり共に大の矢沢永吉ファンだった。私がイライラしていると「五郎さん、永ちゃん聞いてリラックスしますか。」絶妙のタイミングで声をかけてくれる。こんなわけで、監督以下スタッフの方には本当に助けていただいた。だが、チョロ松はどうだろうか。愚痴も言えないしやめることもできない。チョロ松のことを考えれば弱音を吐いている場合ではないと気持ちを切り換えて撮影に臨むが刻々と撮影時間は過ぎていく。結局監督の納得する映像が撮れないまま二日目の撮影が終了した。

 そして撮影3日目の朝、その時が来た。撮影が始まって2時間ぐらい経ったのだろうか。休憩するのに何気なく立ち位置のところでチョロ松を椅子に座らせて休ませた。すると突然、監督の「その顔です」の一言。撮影中、私はチョロ松の前に穴を掘って隠れていたためリアルタイムでチョロ松がみえていなかった。私は「何?」と思ったが、チョロ松が椅子に座って休憩した時にうたた寝している表情が良いらしい。「えっ!これなの?」という感じである。というのは、チョロ松はリラックスして椅子に座れば必ずこういった表情をする。特別でなく日常のことだったからである。「この表情が良かったのなら、最初から言ってくれればいいのに・・・」と冷静に思っていたが、監督さんは、興奮しっぱなしだった。「椅子に座ればいつでもやりますよ」。今まで約20時間以上は立ちっぱなしだったチョロ松からすると、「こんなに楽でいいの」と面喰らった表情ではあったが、私は、「1秒でも長くいい表情をしてくれ」と祈りながら監督の声を待つ・・・「OK!」。これまでの張り詰めた現場の空気が一変した。チョロ松も私もこの3日間の疲れがとんだ瞬間だった。
長時間にわたる撮影、結城監督以下素晴らしいスタッフに恵まれ、このCMにかける情熱とねばりには感服した。本当にありがとうございました。そして何と言っても、撮影で約30時間も立ち続けたにもかかわらずケロッとして疲れを微塵も見せることがなかったチョロ松。撮影が野外ということ、照明が熱い、様々な困難な環境の下では普通のお猿さんであればじっとしている事は出来ないが、チョロ松の強靭な体力・精神力で撮影をやりきってくれ本当に感動した。

 SONYさんの意気込み、スタッフのバックアップ、周防さるまわしの会のこだわり、そしてチョロ松のさりげない仕草が凝縮して「瞑想する猿」というとてつもないCMが日本いや世界全体を席捲しようとしていた。


 本編から話はそれますが、

 これまでの猿まわし人生、本当に沢山の方に支えられ、励まされ、時には厳しく指導いただきながら頑張ってくることが出来ました。実は、2010年夏、私にとって大切な方が二人亡くなられました。一人は佐藤さん。猿まわしを始めて間もなく代々木公園で大道芸をやっている私に声を掛けてくれたことがきっかけとなり長年公私にわたりお付き合いをいただいた方です。年齢が18歳も離れているにもかかわらず、私のことをいつも兄弟のように心配してくださいました。最近では、周防さるまわしの会、そして河口湖猿まわし劇場の関東における認知度を上げるためにと自分の仕事はさておき私達のために本当にご尽力いただきました。自分のことよりまずは佐藤さんのまわりの人達がよくなることをいつも優先していた。付き合う中で不思議な方であった。もう一人の方は、「めでたや」の創始者である藤井信(まこと)さん。日本で初めて「餅つき」をパフォーマンスとして商いにした第一人者で、出会いは、私が猿まわしを始めた年の夏休み、横浜にあったドリームランドという遊園地でのイベントでした。初対面ながら執拗に「ショーが終わったら食事でもしようよ。」と声をかけられたりしましたが、まだその頃の私は若干人見知りの性格と協調性のなさもあり、また藤井さんがあまりにもしつこいこともあり絶対付き合いたくないというのが第一印象でした。その後も同じ現場で顔を合わせることがあったのですが、「ちょっと、おっさん(32歳当時の藤井さんのこと)のパフォーマンスを見てみようか」と見世物小屋を覗く。芸人「藤井信」の面白いのにびっくり、芸人としての魅力を感じ「藤井さんから学びたい」と思うようになりました。その頃の私は、お客さんをお客さんと思わず接する横柄なところがあり、帰りのロイヤルホストで、藤井さんに「お客さんがあるからこそお前達が活かされているんだ」と説教をされたのを思い出します。藤井さんは、私の芸人としての目標でもあり、時には兄貴のようにも慕った24年間でした。大切な存在でした。今後、「チョロ松物語」が進む中で、お二人の話しも紹介させていただきます。かなりきつい夏になりましたが、「苦しい時こそ前に進まなければいけない」という親父の言葉を思いだし、二人の分も精一杯頑張ります。

 ご冥福をお祈りいたします。 

第八話 チョロ松スターになる

 まず、第七話で書かなかったCM撮影秘話をご紹介させていただきます。

 「チョロ松くんの持つウォークマンは撮影用に何台用意すればよろしいでしょうか。」と撮影前にスタッフから連絡があり、「チョロ松が壊すことは多分ありませんが、3~5台もあれば十分です。」と伝えた。スタッフは万全を期し30台用意したにもかかわらず、撮影で使用したのはたったの1台だけ。普通のお猿さんであれば気持ちが切れたりするとウォークマンを落としたり投げたりするのだが、チョロ松はそーっとウォークマンを置くか私に手渡すのです。今考えてもお猿さん離れしたチョロ松の優しくて穏やかな性格、真面目さにはスタッフはもちろん私も驚かされました。

 本編に戻ります。

 過酷な撮影が終わり、夏休みを迎えようとしていた。スケジュールは相変わらず暇、40日間で7~8本の営業(ちなみにチョロ松指名の仕事は1本もなかったが・・・)があっただろうか。代々木公園や数寄屋橋で行う大道芸も夏は暑さが厳しい為夕方の限られた時間しか公演が出来ない。学校も休みになりある意味ゆっくり調整しながら営業に出て行く。今では考えられないが、のんびりとやれる時期でもあった。

 1987年7月中旬、CMが流される初日。朝から「どんなCMだろう」と興味を持って待ち望んでいたが、放送前までは軽い気持ちもあり期待感はほとんどなかった。CMを見て「ああ、こんな感じね」、いつも付き合っているチョロ松そのままであったから、私自身たいした感動はなかった。しかしそう思っていたのとは正反対でCMによって生活が一変することになる。CMが全国に流れ、SONYに問い合わせが殺到した。「CMに出ているお猿さんはぬいぐるみなんでしょ。本物のお猿さんなの。お猿さんがあんなうっとりした表情をするわけないでしょう。」「どこのお猿さんなんですか。」という内容だった。CM放送後1時間が経ち東京事務所の電話が立て続けに入り始め鳴り止まなくなった。事務所の壁に模造紙で書かれたスケジュール表が見る見るうちに埋まってくる。更に驚くのは、これまで数ヶ月先のスケジュールなんかは入る事も無かったのに、早々と、翌年のスケジュールまで入り出した。夏休みのスケジュールは2~3日で全ていっぱいになった。私はただただ驚きのひとことだが事務所のスタッフもこんな事態になるとは予想もしていなかったので突然の反響に慌てていた。ただ本社にいる親父だけはCM撮影直後から相当な手応えを感じていたようでいたって冷静であった。5月に芸名を義則から五郎に変えた時に「今後お前とチョロ松は必ず世の中に出ていくことになる。」と親父に言われたのを思い出す。CMが放送された直後に親父とどう会話したか憶えていないが「チョロ松」という周防さるまわしの会のスターが誕生し未来への希望を抱いたに違いない。さらに自分もびびってしまうような仕事が飛び込んできた。吉本興業が梅田花月への出演を打診してきたのだ。一流の芸人しか立てない舞台である。CMの反響の大きさをあらためて感じた。吉本興業からの打診を仲介してくださったのは大阪の音楽家すずききよし先生(もんたよしのりのお師匠さんでもある)、周防さるまわしの会復活当時から応援団のお一人だったのですぐに出演が決まった。

第九話 身の程知らずの大舞台

 夏休み一杯になったスケジュールをチョロ松とどのように片付けていったかお話しましょう。

 その当時はマネージャーやドライバーというものも付かない時代。チョロ松が入るステンレス製のゲージを備え付けた専用の車を私がひとりで運転しチョロ松と二人で全国各地のイベントお祭りに全て車で移動した。芸の披露はもちろん、依頼先への挨拶、現場での道具の運搬・セッティング・片付けまですべて私ひとりでやらなければいけなかった。可能な時は1日3ヵ所のイベントで4回の公演を行ったこともある。五反田のフィットネスクラブで午前中・午後と2回公演し、夕方中野サンプラザでのお祭りで1回、そして夜都内帝国ホテルのパーティに出演した。実は夕方の中野サンプラザでの出番待ちの時、たまたまホールでコンサートをやっていたジャニーズ事務所のトップアイドルマッチ(近藤真彦さん)が通りかけ「チョロ松くんと写真を撮らして欲しい」という一幕もあった。時には寝る時間もないぐらい移動したこともあった。名古屋でのイベントが夜の9時に終わり翌日のイベント先の宮城県牡鹿半島へ移動。イベントにギリギリ間に合う早朝の8時に到着し休む間もなく11時と14時の舞台、終わってすぐに翌日のイベント先に移動。しかし若さと勢いは怖いもので全く疲れを感じることはなかった。何よりその頃の忙しさは楽しくてしょうがなかった。そう言えば今でもよく憶えている話がある。CMの持つイメージは大きい。あるスーパーのイベント会場で舞台の準備をしていると店長が来られて一言「この道具はなんですか」店長、面白いことを言うなと思い「これはチョロ松が芸をする道具です」。すると店長は「えっ!チョロ松くんは芸をするの?ウォークマンを持って立っているだけではないの?」。ショーの時間というのはだいたい30分で設定されているのだが、「30分立っているだけでは間がもてないでしょう」と私は思ったが、店長はそう思っていたらしく、実は他の人からも同じ質問を受けることが多く、たいていの人は芸もせずにウォークマンを持っているだけと受け止めているのには驚かされた。

 それにしても夏休みは本当に飛びまわった。移動距離だけでも6,000キロ~7,000キロは走った。東京⇔関西方面だけでも5往復。
 そして夏休みの締めは8月21日~31日大阪の吉本興業梅田花月での11日間公演。梅田花月初、動物が舞台にあがるということで初日に記者会見も行なわれた。たくさんのマスコミの数に圧倒され徐々に緊張感が高まってくる。そして初舞台、私達の前に出演したのがあの「いくよ・くるよさん」だったことで、地に足が付いていない状態で出番を迎える。持ち時間は約15分。いざ舞台に出るが緊張がとれることなく時間は過ぎていく。そして、周防猿まわしの会の十八番芸「竹馬高乗り」はチョロ松とコンビを組んで一度も失敗したこのない芸であり絶対的に自信を持っていた。ところが私の動揺を見抜いたチョロ松はさぼってまじめにやろうとしない。竹馬高乗りの醍醐味は全長3m50cm以上もある竹馬をお猿さんが全て自分の力だけで立ててそしてバランスをとりながら一歩一歩登っていくところだ。しかしこの日は2mあたりまで登ったところから一歩も進もうとしない。何回かやり直すが同じ所で止まってしまう。「これは出来ないな」と諦めた私の気持ちをチョロ松に悟られてしまい最悪の結末になる。舞台袖のスタッフから「五郎さん時間です」の虚しい声、結局竹馬にチョロ松をのせて歩かせるだけになった。それでも袖に下がる時にお客様の拍手は鳴りやまなかった。お客様に救われたが申し訳ない気持ちで悔しくて情けなかった。「もしかしたら11日間出来ないかもしれない・・・。でもやめることも出来ない。」楽屋で悩み苦しんだが、「こんな時こそ練習しかない」と奮い立ち合間にステージを借り繰り返し稽古をした。チョロ松は完璧に成功してくれ「それでいいんだよ」と何度も確認しあった。「あとはチョロ松を信用するだけだ」という強い気持ちで2回目のステージへ臨み、一発で成功。大舞台という気負いからか、自分達の持っている以上のものを求めていたような気もする。その後は冷静になり自信も取り戻すことができたので失敗はなかった。しかし吉本興業という会社の芸人の荒い使い方には目の当たりにしてみると「さすが吉本」と感服させられる。吉本興業の仕事をもらっている11日間はチョロ松・五郎コンビは吉本の芸人として扱われる。というのは私は梅田花月に出演するだけぐらいに考えていたのだが、前日出番表が楽屋に貼られ(平日2回公演、土日3回公演)、更に1回目と2回目の出番の空いた時間や公演後や時には夜にいたってテレビ等の出演もさせられた。通常、周防さるまわしの会のギャラに含まれているのは舞台出演料のみでテレビ出演や取材は別料金なのだが吉本興業との契約では11日間すべて、そして朝から晩まで拘束されてしまい、こき使われる。でもお蔭様で瞬く間に有名になり女子高校生の追っかけ等も出てきたりして嬉しいこともありましたけど。

 最後に梅田花月でのこぼれ話がありますので紹介して九話を締めさせていただきます。梅田花月出演中に私達の出番のあとは「阪神・巨人さん」ということが結構多かったんです。ちょっと袖で勉強させてもらっていると必ずチョロ松の話をされるんです。「チョロ松の人気は凄いですね。でも凄いと言えばチョロ松くんのギャラ・・・。私達はこの舞台に立って1回3000円ですよ、チョロ松くんのギャラは100倍ですからね!!」と掴みのネタにしてくれました。私もギャラがいくらかは知らないんですけど・・・会社任せなので。

第十話 フライデー事件

 多忙な夏休みも無事に終え一息つけると思ったがチョロ松の人気は勢いを増し、テレビだけでなくマスコミへの出演や取材が連日連夜続いた。チョロ松の持たれるイメージからか女性誌が多かったことを憶えている。そして1クール(3ヵ月)だったCMの契約も当然1年に延長された。仕事よりも大学生活が優先だったはずの約束は、3年生の後期授業を迎えていつの間にか仕事優先にシフトが変わっていた。午前中はチョロ松を連れて大学の授業に出席し(当然チョロ松は授業に出るわけがなく営業車のゲージで待ってるんですが)、午後から営業という日もあった。しかしどんなに多忙であってもチョロ松と私の原点である代々木公園の歩行者天国には大道芸をするため通い続けた。そんな時にチョロ松の私生活が暴かれることになる。スターの証しとも言えるあの「フライデー」に狙われていた。歩行者天国のど真ん中で若いギャルに囲まれてデレデレしているチョロ松が激写されたのだ。カメラマンから来週号のトップページに載せるとのこと。あのフライデーに激写されたのだから発売されるのが楽しみだった。そして発売日の金曜日、朝一でコンビニに買いにいき確認するとチョロ松はギャルに囲まれて写っているのだが・・・あれ?私の姿が写っていない。よく見てみると、私は左足だけが写っていた。当たり前、スターはチョロ松なのだから。

 チョロ松人気はとどまるところを知らない。ダイナミックセラーズ社がチョロ松の写真集をつくりたいと提案してきた。撮影してくださるのは、あの高島史於先生だ。先生は動物写真を撮ったことがない。ダイナミックセラーズ社と周防さるまわしの会は先入観をもたずにチョロ松を撮ってくださる先生にお願いすることにした。

 完成した写真集「チョロ松くん」と10年後、意外な所で遭遇することになる。

 20数年に渡り周防さるまわしの会のアドバイザーとしてご尽力いただいている田口洋美氏と1997年10月東北大学を訪問した。田口洋美氏は、2005年、東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程終了後から現在まで東北芸術工科大学で教授として活躍されている。民俗学者宮本常一先生、並びに民俗文化映像研究所の姫田忠義所長に師事し、日本各地をその足で歩き廻りフィールドワークを実践してきた民俗学の継承者である。私達とは、周防さるまわしの会東京事務所開設前後から、猿まわしの歴史研究、芸の開発や企画などに参加してくださり、さらに阿蘇お猿の里猿まわし劇場オープン前から調教、芸猿の飼育管理などを中心にアドバイザーとしての役割を、そして現在は猿まわし芸能を取り巻く法制度等を含む環境整備に深く関わって下さっている。というか私にとって兄のような存在であり、かけがえのない友人であり、酒を飲む量を競い、猿まわし芸のあり方を口角泡を飛ばして議論する相手でもある。
 田口さんから紹介されたのが東北大学で日本猿を研究されている鈴木教授である。仙台市内の大学を訪ねると鈴木教授直々に正門に迎えられ「五郎さんに会えると思わなかった。チョロ松くんは私の日本猿への常識を超えた素晴らしい日本猿です」と挨拶をいただいた。鈴木教授の部屋に案内され、書籍棚にはお猿さんに関する本が数千冊はあったが、その中から先生がおもむろに一冊を取り出し「写真集チョロ松くんは私のバイブルです。新学期の最初の授業で必ず生徒に紹介するんですよ」とおっしゃった。意外な方がチョロ松のファンであり写真集「チョロ松くん」の愛読者であったことに喜びと誇りを持ったことを今でも忘れません。

 次回は鈴木教授に絶賛いただいた写真集「チョロ松くん」の撮影や出版について紹介する予定です。

第十一話 カメラマン 高島史於

 チョロ松の普段の生活を撮るためにカメラマンがやって来た。カメラマンは十話でも紹介した高島史於先生他3名のスタッフで多摩川河川敷へ着いた。毎日訓練している知った所とはいえ、今日のチョロ松は違った。いつも以上に威風堂々たる歩き方で土手をゆっくり四つ足で下りていった。もう撮影することを知っている感じでもあった。九月中旬とはいえ、まだ日中は残暑が厳しい一日で、普通の人でもかなりの休憩を挟みながらでないときついだろうなと思うほどハードな撮影だったが、チョロ松は陽が沈む夕方まで撮影に付き合った。少しも嫌がる態度を見せなかったチョロ松がたくましくも見えた。それにもまして、私が指示命令を出す前にチョロ松の方から高島先生の向けるカメラに反応して勝手にポーズをとっていたことが、いかにもチョロ松がスターであることを私にアピールしているかのようにも見えた。高島先生は「チョロ松くんは本当にすごい。人間のモデルでもなかなかカメラマンの狙ったポーズはしてくれないけど、チョロ松くんはカメラを向けると勝手に望んでいるポーズをとってくれる。やるべきことが分かっているんですね」。とおっしゃった。初対面からたった数時間の撮影で高島先生とチョロ松の距離はぐっと縮まって信頼関係すら出来ていた。チョロ松を尊重し、自然に輝きを引き出そうとしてくださる高島先生に感服した。

 写真集「チョロ松くん」は、ダイナミックセラーズ社編集部の上嶋光三氏の企画で実現した。実は第一弾で「ケニー・スケボーにのった天使」という一人の少年を題材にした写真集がベストセラーを記録し、その第二弾としてチョロ松に白羽の矢が立ったのだ。いわゆる社運を賭けた企画と聞き、プレッシャーを感じていた。また、撮影現場で、チョロ松に様々なポーズを求められリクエストに応えることができるか正直不安はあった。しかし初日の撮影を終え、高島先生の人柄を知り、何より先生がチョロ松に惚れ込んで下さったこと、この後続くであろうハードな撮影も高島先生ならチョロ松の良さを十分に引き出してくれると確信し不安は一掃された。この後、都内スタジオでの撮影、横浜を代表するスポットでの撮影が行われた。

第十二話 大人気! 写真集「チョロ松くん」

 撮影場所を多摩川河川敷から都内スタジオへ移す。閉鎖的な室内での撮影ということもありチョロ松の表情もややこわばっているような気がした。もしかしたらチョロ松らしさが失われるのではと私は心配したが、そこは「モデルチョロ松」と「カメラマン高島史於」の息の合ったコンビネーションで撮影は順調に進んでいった。80年代後半、バブル期絶頂の日本の世相や当時流行した人物等をチョロ松がパロる。バブル期の象徴である地上げ屋に扮する。カフェバーでダーツに、プールバーでビリヤードに興じる。当時来日した世界のスーパースター「マイケルジャクソン」「マドンナ」、そして日本のスポーツ界から「読売巨人軍のクロマティ」「江川卓」「西武ライオンズの秋山」、テレビで話題だった「スケバン刑事の浅香唯」、シネマ界から「男はつらいよの渥美清」「かぐや姫の沢口靖子」、ハリウッド映画界から「ロッキーことシルベスタースターローン」そして「ジャッキーチェーン」と名だたるスターをチョロ松が演じさせてもらった。撮影しながらチョロ松が各役柄の衣裳に着替えると本人ではないかと思えたりもして不思議であった。ちょっと持ち上げ過ぎかもしれませんが・・・。
 2日間のスタジオ撮影も終え舞台は横浜を代表する観光スポット、港の見える丘公園、山下公園、横浜外人墓地、元町などでの撮影に移った。外での撮影はチョロ松も活き活きとした表情になり、さらにチョロ松らしさが出せたと思う。最後の撮影場所はチョロ松と私の原点でもある代々木公園での歩行者天国だった。ゲリラ的な撮影だったこと、チョロ松人気が加速していたこともあり、久しぶりに行く歩行者天国ではどこに行っても沢山の人垣ができた。難航したところもあったが事故等もなく数日間に及ぶ撮影は終了した。

 写真集「チョロ松くん」は1987年12月27日にダイナミックセラーズ社より発売され、本屋での店頭販売はもちろん、自分達でも各地のイベント先で販売、毎回100冊~200冊準備して発売したが即完売になるほど好評を得た。

 出版後も高島先生のご好意で撮影した写真やネガなどを周防さるまわしの会のPR等に今現在も活用させていただいています。2003年4月14日、周防さるまわしの会復活25周年を記念した下北沢公演にも忙しい合間をぬって駆けつけてくださり、撮影までしていただき、その時の写真も使用させていただいています。高島先生と仕事が出来たことは私達にはとても大きな財産であったし、また今後先生とお仕事出来ることを楽しみにしています。

第十三話 明石家さんまさんと年末特番に出演

 2011年3月11日(金)、三陸沖を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生しました。 私の人生で経験したことがない想像を絶する大震災になってしまい、謹んで亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに被災された皆様、そのご家族の皆様に対し心よりお見舞い申し上げます。
 私の猿まわし人生は25年ですが、東北地方のイベントやお祭りなどにチョロ松・五郎コンビを呼んでいただきました。未熟なコンビを育てていただき暖かい声援をたくさんいただいきました。それだけに連日の報道・ニュースを見ていて本当に悲しく寂しい気持ちです。チョロ松がCMでスターになってからは、陸前高田市内の遊園地、宮城県くじらの町牡鹿半島、多賀城市内のショッピングセンター、名取市内の住宅公園、福島県浪江町サンプラザ、その他書ききれないほどの東北地方の皆様に囲まれて芸をしてきたので感謝の気持ちでいっぱいです。
 私もチョロ松とともに復興を願い応援してまいります。東北地方の一日も早い復興復旧に一丸となり歩んで行きましょう。


 1987年、本当に慌ただしい一年になった。その年の「CM大賞」では大賞こそ取れなかったが、「CM大賞最優秀スポット賞」に輝いた。チョロ松のSONYウォークマンのCMが、映像の素晴らしさ、「瞑想する猿」と言われた表情、そして真骨頂である「直立二足」の美しさが評価された。CM批評で権威ある「広告批評」が選ぶ1987年度の最優秀作品、数千人の広告批評家による投票で満票、チョロ松を採用してくださったSONY様、代理店の東急エイジェンシーの皆様、撮影に携わっていただいた仲畑広告映像所の結城監督他スタッフの皆様、黒澤フィルムスタジオの皆様へ感謝申し上げたいと思います。

 年末を迎えて各地のイベント・ホテルのパーティ等で忙しい毎日、さらに年末年始のテレビ特番へも多数出演した。リハーサルと本番がとても長く、チョロ松を落ち着かせるのに苦労した。比較的楽な収録だったのが「加トちゃんケンちゃん」である。加藤茶さんと志村けんさんがジャングルを探検しているとチョロ松がウォークマンを持って立っているのを見つけ加藤茶さんが「君があのチョロ松君か」という台詞のひとコマ、撮影時間にしてたったの30秒、拘束時間が短く本当にこれでいいのか戸惑った。大晦日の閉めの仕事は、「フジテレビのCM大賞?」という番組でした。その特番のオープニングを明石家さんまさんとチョロ松が飾る。モニターから映像で流れるチョロ松が一人でソファーにくつろいでテレビを見ている。そしてチョロ松が面白い番組はないかとリモコンでチャンネルを変えるとテレビの中でさんまさんとチョロ松が番組のオープニングのMCをやっているという内容だった。この部分は生放送でなく収録。さんまさんはお猿さんが苦手だったのでかなり難航したが、さすがさんまさん楽しい番組にしてくださった。

第十四話 秘められた構想

 1988年、新しい年を迎えてもチョロ松人気は衰えることはなく元旦から西へ東へ、営業車でチョロ松とふたりで各地へ飛びまわった。元旦から5日までは都内近辺、6日からは大阪市、堺市、高石市のパーティの仕事にまわり、正月最後は京都高島屋のイベント。高島屋は年末に当時周防猿まわしの会を代表するコンビ、兄のT氏も出演したくさんのお客様が集まったということもありチョロ松でどれだけの人が集まるんだろうか不安もあった。1月10日(日)当日、蓋を開けてみると当時トップアイドルだった「光GENJI」以来の人を集めたらしい。スペースが限られる屋上でのイベントだったが、2000人近くは入れただろうか、会場はいっぱいになり5階から屋上にかけて長蛇の列ができた。予定は一日2回(11時と14時だったと思う)のショーだったが、急遽3回のステージに変わり、用意していた写真集も1回目のステージで完売になるほどの大盛況だった。

 多忙な正月公演を無事に終えたかと思えば翌日からは大学の後期試験が始まり本当に慌ただしい日々の連続、けれどうれしいこともある。人生初の海外旅行が待っていた。会の福利厚生の一環として海外旅行に行くことが決まった。
 会長である親父はとにかく旅行が好きで、私は幼少の頃から日本各地の名所によく連れてってもらった。今でも憶えているのは、小学校6年生の時だったか、春休みが明日で終わるという日の前日、「明日、金比羅さま(香川県金比羅)へ行くぞ!」と言い出した。お袋や兄貴達は親父の突然の発言に迷惑そうだったが、私だけは親父と旅をするのは楽しくて「やったぁー!」と思った。今では日帰り可能な所だが、その頃は、瀬戸大橋は無く、松山からの高速道路もない。早朝のフェリーで松山まで行き、何時間もかけて金比羅さんまで車で走る。現地に到着するまでに疲れ果てた上に、本堂までの785段もある階段を必死に登った。最後に旅行の目的の一つだった讃岐うどんの店に寄る。頼んだ讃岐うどんがイメージと違い一同がっかりした。こんな風に村崎義正のぶっつけ旅が行われた。今思えば少し押し付けな旅でもあったが、サービス精神たっぷりの親父との旅行は本当に楽しかった。
 しかも今回は海外旅行。実は飛行機に乗るのも初めてだった。お猿さん達の世話があり誰かが残らなくてはいけないが、その役はJ君が引き受けてくれた。J君は海外旅行より、本社(山口)に残りお猿さんの面倒を見ながら、夜は田舎の仲間と遊ぶ方が楽しいのだ。チョロ松その他お猿さん達のお蔭で人生初の海外旅行にも行け、本当に満喫できた。チョロ松も仲間といる時間を楽しんだようだ。
 この海外旅行出発当日2月1日に入門したのがD君である。私の従兄弟にあたり、東京に出て理髪師の修業をしていたが、再三の引き抜き工作に負けて入門してきた。モテモテの明るい若者で人当たりも良くどの分野の仕事でも頭角を現しそうな感じがする。もちろん猿まわしにはうってつけのキャラクター、期待を集めての入門だった。そして、初の仕事が海外旅行という甘い汁を吸わされた。芸名はDとなり以後20年以上にわたり周防猿まわしの会の屋台骨を守り続け苦労を背負わされることになる。兄のT氏を始め周防猿まわしの会から多くのメンバーが去っていったが、後々、D君、J君、そして私の三人で会を支えていくことになろうとは思いもしなかった。

 サイパン旅行を終え、福岡空港へ到着した直後親父がまた突拍子もないことを言い出した。「折角だから阿蘇山に行こう」。暖かいサイパンに行ったのに何故寒い阿蘇に行くんだろう。親父の性格から考えるとたぶん楽しいサイパン旅行が終わりこの雰囲気を終わらせたくなかったのかなと思っていたが今考えてみると親父はまだ誰にも語っていない構想を秘めていたのだ。
 実は周防猿まわしの会復活後、悲願であった猿まわし専用の小劇場を故郷山口県光市に作った。観光地とは言い難い地であったが、たくさんの来場者に恵まれた。大道芸、放浪芸といわれた猿まわし、芸の継承には安定した基盤を確立しなければならない。小劇場を成功させてくださったお客様が教えてくださったのは観光地への進出。親父は会の次の目標として九州を代表する阿蘇への進出を一人目論んでいたのだ。サイパンで長年の疲れを癒しながら視線ははるか先の阿蘇に向かっていた。

 「折角だから阿蘇山に行こう。」まだ誰も知らないドラマが始まろうとしていた。

第十五話 へそくり 一千万円の勇気

 暖かいサイパンから一路真冬の阿蘇山へ。サイパン旅行の余韻に浸り、程よい疲れで車中の会話すら当然なくなっていたが、そこは日本を代表する観光地「阿蘇山」が私たちを迎えてくれるとみんなの表情も次第に緩んできた。阿蘇登山道路(赤水線)の入り口から800メートルほど入ったところで親父は車を止めて歩き出した。何かに関心をもったのかと思ったらただ立ち小便をしに行ったらしい。しばらく戻ってこないので様子を見に行き「親父、大丈夫かね」少し離れたところから親父の声が「ちょっと中に入って来い」。そこは人間の姿を覆うほどのうっそうとした葦で囲まれていて、人が歩いた形跡なのか小道ができていた。その小道を5メートルほど入ったところにうっすら霧がかかっていて何とも幻想的な池があった。そこにあった池をしばらく眺めていると突然「よし、ここに劇場を建てるぞ!」と言われ私は驚いた。誰にも打ち明けていなかったが観光地として好感を抱いていた九州への劇場進出を密かにもくろみ、メンバーを引き連れての阿蘇への寄り道だったことに気づいた。親父が「やる」と決めたら行動は早い。その場ですぐさま現地の不動産業者を捜し阿蘇の調査に動き出す。業者からは登山道をさらに2キロ登ったところに別荘や飲食店もあり開発も進んでいる土地があるからとそちらを勧められたが、親父は直感で一目ぼれした池付近以外、別件の話しには見向きもしなかった。強い決意は幸運を呼ぶ。阿蘇進出に欠かせない人物を紹介された。その方は代々、阿蘇の長陽村下野地区発展のために尽力されている塚元隆氏だった。後に長陽村議会議長も務められた方だが、腹の据わった人物同士意気投合するのに時間はかからなかった。この地に惚れ猿まわし劇場を作りたいと力説する親父に協力を惜しまないと約束してくださった。

 この地に猿まわし劇場建設が決まると 親父はこの池を勝手に『麗岳湖』と名付けた。そして、親父は麗岳湖の魅力をこう書き残している。「阿蘇五岳に雨が降ります。その水が地中深く浸透して地下水脈をつくり、それがお猿の里建設用地そばの小湖に湧き出しています。ぼうだいな水量で、どんな渇水期でも豊かに湧き出して、尽きることがありません。壮大な阿蘇のもうひとつの象徴と言えましょう。水豊かな土地は栄えると言われていますが周防の猿まわしは本当に恵まれていると思います。会長はいま、この豊かで神秘的な小湖のよさをとり入れ生かしながら、どう活用するか、好きな魚釣りも忘れて思案にふけっています。」(村崎義正著 猿まわし通信79号)

 サイパンから阿蘇山経由で本社(山口県光市)に戻ると、すぐさま地元の金融機関に話を持ちかけたが突然沸いて出てきたような夢のような話には付き合ってくれるはずもなかった。親父の中では確固たる自信の上での構想だったと思うが金融機関だけでなく会の面々すら賛同する雰囲気ではなかった。それに、たかが復活して10年足らずの芸能団体、ようやく経営の基盤が整いつつあった時期だし、復活には莫大な費用もかかっていたので預金もなかったはずである。しかし、救世主が現われた。阿蘇に猿まわしの劇場を建てたいという親父の夢に唯一賛成したのが意外にもいつもはブレーキ役にまわる、私の母親でもあるが、妻「節子」であった。暗礁にのりあげている親父を見兼ねて、コツコツ貯めた虎の子の1000万円をぽんと出した。それも亡き母親が節子のために残してくれた数十万円を元手に何年もかけ、特に夫の義正には内緒で蓄えてきたへそくりだった。親父は、節子のことを山之内一豊の妻だと大騒ぎし、その後もことあるごとにその話を得意満面に語るようになった。「ケチな節子が1千万円を出してくれた。」これこそ鬼に金棒、節子の心意気に俄然、親父の萎えかけた闘志に火がついた。そして約一ヶ月後の3月上旬東京へ。「阿蘇お猿の里・猿まわし劇場」事業計画を作成し、東京の金融機関に話を持ちかけるために一人で上京してきた。東京駅に迎えに行ったときの親父の格好には呆れるというか開いた口が塞がらなかった。スラックスに上着は半纏。「親父、その格好はまずいじゃろ。」すると「人間格好じゃない。ありのままの村崎義正を見てもらって判断してもらえばええ。」飾ることなく勝負する、それが親父だった。池袋にある金融機関まで送り、その後私は立ち会っていなかったので詳しい内容はわからないが、その金融機関の常務取締役他2名の方と約1時間面談できたみたいで、駐車場に戻ってきた親父はまんべんの笑みで「阿蘇に来るそうじゃ。」本当に嬉しかったんだと思う。今でもあの時の親父の希望に満ち溢れた笑顔を忘れることはない。なんども消滅の危機にさらされてきた伝統芸能猿まわしが大地に根を張り基盤を固める。そのために観光地に自前の劇場を持つのだ。豊かな自然の中でお猿さんを飼育し、調教法の研究、大道芸から舞台芸へ発展させる。親父、周防猿まわしの会初代会長の壮大なる野望が現実に向かって動き始めた日になった。恐るべし「村崎義正」、それを象徴する一日であった。

 最後に、チョロ松物語の連載を始めてお陰様で1年が経ちました。河口湖の劇場でも「読みましたよ」とか「毎月楽しみにしていますよ」等たくさんの声もいただき本当に励みになり書いています。もっと全国の皆様に「周防猿まわしの会」という芸能団体を知っていただくために丹念に書き続けていきたいと思います。これからも忌憚ないご意見、ご感想をお待ちしています。

第十六話 ススキ

 都内の金融機関から、背広を着た紳士達数人が阿蘇を訪問してくださった。常務取締役という名刺をもたれた方が視察のリーダーであり、融資するかどうかの最終判断をされるのだ。進出の前提として、土地は買収、そして自前の劇場を建設することが親父の基本的な考えだ。初期投資に膨大な資金が必要になるし、途中で事業が困難だからと簡単に放棄することもできない。後ろは谷底、前に進むしかない。それが親父流の覚悟の見せ方である。初期の周防猿まわしの会にとってのるかそるかの大事業であることは間違いない。投資額は数億円、見たことも触ったこともない大きな金額である。予定地を丹念に紹介し事業を説明した。こんこんと湧く麗岳湖周辺の美しさ、周囲の落ち着いた地勢についても建設予定地として最適であること、何よりも「阿蘇五岳」(阿蘇山の別称)に登っていく赤水登山道の脇にあり、観光客が高い割合で側を通過するという最高の条件を備えていた。そして、常務さんがぽろっと親父に話をしはじめた。「村崎さん、私はこの阿蘇に自生しているススキが大好きなんです。ススキが残る自然を大事にしたいと思っているのですよ。この阿蘇にはススキがいっぱいですね。枯れススキも最高に魅力的です。どうかこのススキが阿蘇の観光資源として大事に継承されるように村崎さん達も頑張ってください。」常務さんは終始にこやかで短い阿蘇視察を惜しむように楽しまれて帰郷された。親父からこの時の話を聞くたびに、高度成長という名の下に日本各地が開発され、自然や郷土の芸能が簡単に消滅していく現状を憂える方がいらっしゃるのだと感じた、雄大な阿蘇の自然を象徴するススキとともに阿蘇猿まわし劇場実現が加速していくこととなった。ふりかえってみると当時日本は、高度成長時代の最終局面にさしかかり、金融機関としても有望な融資先を探していた。

 私が21歳の時に都内のあるお店で知り合った友人がいる。彼の仕事は不動産業で私とはまったく異なった仕事だがお互いのために本気で本音を言いあえる25年来の友人となった。今から12年ほど前に彼の勤める不動産会社の会長と会食する機会に恵まれた。会長といっても私の友人すら影を踏めない特別の存在感をお持ちの方だったのです。数ある不動産会社の中でも間違いなくトップクラスの成功者でした。 初対面のその席でさすがに緊張してしまいかなりのお酒が入ってしまった上に無礼講の雰囲気の中で空気も読めず、深い考えもなく村崎義正の話しになってしまったのです。挙句の果てには不動産業界では成功者である会長に阿蘇の劇場を建てたときの苦労話を延々と一時間に渡って話をしてしまい、会長は黙って聞いてくれ、「五郎ちゃん感動したよ、お前の親父は本当にすごい人だ。確かに当時のバブルという時代を考えれば金融機関としてはお金を貸すところをさがしている。しかし将来あるのかすらわからない猿まわしごときに簡単に億単位のお金を貸せるものではない。結局のところは、人対人なんだ。お前たちも今の関係を大事にしろよ」と力強く握手してくださいました。言葉の通り、その後も垣根のない付き合いをしてくださり、12年経った今でも本当にいいお付き合いをさせていただいています。初対面でハラハラしながら話を聞いていた友人が、ぶっしん!(私の仇名)にも親父さんにも感心するよ。といまでもその話に及ぶたびに冷や汗をかきながら話しが弾む。

 阿蘇の土地の買収に動く、そして劇場の設計、駐車場計画と着工準備へ向け順調に進んでいった。親父夫婦は本社を守らなければいけないこともあり阿蘇の責任者として次男夫婦を阿蘇に赴任させた。兄貴夫婦は山口県光市にある周防猿まわしの会の本社の隣に家を新築したばかりではあったが迷うことなく親父の任命を受け、まったく土地勘のない阿蘇へ赴任することを決意した。長年親父の側で仕事をしてきた兄貴は親父の苦労を一番理解し協力を惜しまない兄であった。親父の勝負に自分も家族も身を投じるさすが兄貴(次男)、この男気のある生き方が、阿蘇の皆様にも伝わり意気投合し阿蘇猿まわし劇場の成功に大役を果たすこととなった。兄貴のこの決断なくしては阿蘇の成功はなかったといっていい。そして兄貴を兄弟同様に思い、お付き合いくださったのが塚元隆議員の長男でもある同世代の塚元秀典氏だった。この阿蘇の地においては塚元隆議員同様に人望も厚く全幅の信頼を得られている人物であり地元との大切なパイプ役も担っていただくことにもなる。そしてさらに心強かったのが兄貴の片腕になる久保幸浩(現阿蘇猿まわし劇場事務長)という人物を塚元隆議員より紹介を受けたことではないかと思う。国鉄の人員削減が吹き荒れ去就を考えあぐねておられたが阿蘇さるまわし劇場に加わっていただけることとなった。実直で人を裏切らない。しかもこれほどの人物どこを捜しても見つからない素晴らしい参謀役であった。その後現在まで23年間にわたり阿蘇猿まわし劇場のために身を粉にして頑張ってくださっている功労者である。後に入社される奥様の久保主任(役名兼仇名)は若くて美しいだけでなく夫や家族を支え久保氏とは違った多彩な才能の持ち主であり、未知数の阿蘇猿まわし劇場の戦闘能力が高まってゆく。

 チョロ松と私の役割としては当時周防猿まわしの会の稼ぎ頭であるためこれから劇場完成までにどれだけの費用がかかるかわからない、とにかく親父からは「稼げるだけ稼いできてくれ」と全国各地のお祭りイベントに飛びまわった。全国各地を飛びまわっていて日銭を稼いで阿蘇に送金するそれが役目だった。投資額も大きいがそれに利息も当時はびっくりするほど高かった。10年で貯金が二倍にもなるバブル期だった。周防猿まわしの会のメンバーの団結力、そして塚元家や阿蘇の地元の皆様の支えや協力もあり、1988年6月8日、阿蘇進出計画決定から4ヶ月足らずで「阿蘇猿まわし劇場・起工式」にまでこぎつけることができた。一言で4ヶ月というと簡単にことが進んだと思われがちだが親父の劇場にかける情熱はとにかく半端ではなかった。これだけの計画は親父の情熱だけで当然作れるものではないが何故か人は親父に巻き込まれていった。親父が動けば人も動くというように不思議な魅力を持っている、それが村崎義正だった。起工式当日は周防猿まわしの会の全コンビも阿蘇に集結し地元の園児達を中心にたくさんの方に猿まわしの芸を楽しんでもらい魅力を知っていただけるきっかけにもなった。ここから「笑い」と「感動」の阿蘇猿まわし劇場の建設が加速していくことになる。成功か失敗か考える余裕も迷いもなく進んでゆく。私は4月に大学4年生となり、最後の学生生活がはじまるとともに決断の日が近づこうとしていた。 決断は自分がするけれどやはり親父抜きでは考えれない決断、本話の最後にその親父とのエピソードを紹介させていただいて終わりにさせていただきます。

 村崎義正という人は豪快でありながら繊細な一面も持ちつつもとにかく愉快な人であったと思う。サービス精神も旺盛で色んな場面であきさせない親父であった。チョロ松がウォークマンでブレークした年末の話だが、親父から東京事務所の私に電話が入った。「今年は、チョロ松と五郎は本当によく頑張ってくれ た。特別ボーナスをだしちゃらんといけんと思うちょる。郵便で送ったから楽しみにしちょってくれ」。何ともテンションのあがる嬉しい連絡。数日後、そのボーナスが東京事務所に書留で送られてきた。当然、現金だろう、幾らかと思い郵便を開けてみると中には箱のような物がはいっていた。「ウォークマン・・・?」、それはSONYさんがCM大賞最優秀スポット賞に輝いた記念に製作した刻印入りのウォークマンで周防猿まわしの会村崎義正会長に記念品として贈られてきた大変貴重な三台のうちの一台であった。「何故ウォークマンなの?」その後聞くことも出来ず結局私に送られた意味は聞かずじまいになってしまったが今でも箱を開けた瞬間のどう反応するべきか迷っていた自分の気持ちを思い出すと笑ってしまうんです。 そんな愉快な親父であり、知らないうちにたくさんのことを学び、猿まわし人生の土台を造ってくれた親父、しかし、親父と共に生きることができる残された時間は急ぎ足で過ぎて行った。

第十七話 思いもよらぬ訪問者

 1988年6月中旬、チョロ松は北海道静内町の草原に威風堂々と立っていた。

 空前の大ヒットとなったソニーウォークマンのCMに出演してから1年を迎えようとしていた。5月中旬には第二弾の出演依頼も請けていた。第一弾「湖編」は神奈川県芦ノ湖にて撮影を行ったが、第二弾は期待を裏切るという意味でハワイのワイキキビーチという案が浮上した。
 その話を聞いた当時の私にとっては「なんだ・・・ハワイか?」くらいの気持ちだったが、今思えば残念な気持ちでいっぱいである。しかし、渡航にはチョロ松の検疫等の問題をクリアーにしなければいけないし、そのための準備期間が1ヶ月では不可能だった。そこで涼しく雄大な自然を背景にというコンセプトで選ばれたのが競馬の競走馬育成などで有名な北海道静内町の草原であり、暑さに弱いチョロ松(ニホンザル)にはありがたい場所であった。

 そして撮影当日、第一弾で苦労しただけのこともあり第二弾に臨むチョロ松には余裕も感じられ、セットの立ち位置につくやチョロ松は「これでいいの」と言わんばかりの目つきでウォークマンを持つとすぐさまお得意の「瞑想」の表情をした。完璧なチョロ松の演技に私も「チョロ松、いいぞ」と思ったが、制作側は第一弾とは若干違う素材をSONYさんからも求められているからか、結城監督からは簡単にOKは出てこない。ただ、改めてチョロ松の学習能力には驚かされる。「湖編」では三日間も要した部分をたった一日で撮影出来たのだから。残りは二日間の余裕があり、第二弾ならではのシーンが撮れれば終了である。

 撮影二日目、早朝からの撮影も順調に進んでいた。午前中の撮影も終盤にかかった頃、高級外車で4、5人のいかにも・・・という男性達が乗り込んできた。撮影現場に緊張と重々しい空気が流れる。10分ほどだったがスタッフと話をしてすぐに帰って行ったのだが、しばらくして監督から「五郎さん、撮影内容としてはほぼ納得していますがあとひとつどうしても撮りたいシーンがあります。時間がないので申し訳ないのですが撮影を急がせてください」。予定では撮影は三日間あるはずなのだが再度スタッフから「撮影を早く済ませて撤収します」との説明があり撮影再開した。監督の納得のいく映像が撮れず刻々と時間だけは過ぎて行った。その時突然監督が大声を上げた。「OKです」。姿を隠すために穴に入っている私には何も見えない。一体何がOKだったのかわからず監督に聞いてみたが「今回は仕上がった作品を見て探してください」とだけ伝えられ撮影終了、慌ただしく撤収作業に入った。スタッフからは「五郎さん達はこの地域からはなるべく遠くに逃げてください」という指示がありチョロ松と私は静内町をあとにして200キロ離れた洞爺湖に向かった。後日説明があったのだが、撮影にあたっては現場の使用料も払っていて撮影許可も取っていたが、別の方からSONYのCM撮影ということを聞いて、法外な使用料を請求してきたのだ。

 撮影から数日経って「SONYウォークマン 草原編」が完成し東京事務所に届けられた。繰り返し何十回も映像を見てようやく「湖編」との違いに気付いた。CMのサビのシーン、大自然に向かってウォークマンを聞いているチョロ松の後姿、チョロ松の尻尾が「ピン!」と立っていくのだ。いかにも偶然に撮れたようにも感じられるが、「湖編」で生まれた「瞑想シーン」と同じく、アクシデントに見舞われたあわただしい現場でも、粘り強くチョロ松の自然な動きを待ち、引き出し、作品に仕上げてくださった結城監督他スタッフの皆様に深く感謝している。

第十八話 人生の岐路

 1988年6月は本当にめまぐるしいひと月になった。地方のイベント出演をこなす多忙なスケジュールの中、上旬に阿蘇猿まわし劇場の起工式に出席、中旬にはSONYウォークマンCM第二弾「草原編」の撮影で北海道静内町へ遠征し、そして下旬にかけては自分の人生を左右するであろう教育実習を受けるために母校である山口県光市立浅江中学校の門を久しぶりにくぐった。

 私には教員になるという夢があった。そのきっかけとなったのは、私が浅江中学校2年生の時に赴任してきた富永泰寿先生(当時30歳)だった。先生の第一印象としては今の時代には考えられないようなスパルタを絵に描いたような『怖い』『危険』という言葉がぴったり当てはまるような先生であった。私が部活で在籍した野球部の顧問でもあり野球の面白さ厳しさをスポーツ全般を通じて教わった。部活以外でも生徒に一生懸命向き合うひたむきさ、どんな困難にもあきらめない姿勢、富永泰寿という人物を知れば知るほど私は先生の人柄、魅力にひかれていき、中学2年生の夏、先生と同じ日本体育大学に進学して教師を目指し、いつか先生のような指導者になりたいとう思いを抱くようになった。

 それまでの夢は・・・・。小学校2年の時に親父にグローブをプレゼントしてもらったのがきっかけで野球をはじめてからは明けても暮れても野球というぐらい勉強もせず野球と遊びに没頭していた。そして、小学校4年の時にテレビ中継で、中日ドラゴンズの「星野仙一(現楽天ゴールデンイーグルス監督)選手」を見てファンになり以来今でも星野監督が指揮を執る球団を常に応援している。さらに、小学校5年の時にNHKの中継で見た夏の高校野球大会での神奈川県代表、東海大相模高校の「原辰徳(現読売ジャイアンツ監督)選手」に憧れていつしかプロ野球選手になりたいという世間一般の子供と同じような夢を持っていた。 野球選手から、教育者へ、夢は孤を描いて変化していった。 夢と希望に満ちあふれてのぞむ教育実習でありながらその気持ちとは裏腹に複雑な心境があったことも間違いない。この時点までは間違いなく教員になることがひとつの目標であり、それを実現するには大学卒業後チョロ松とのパートナーを解消しなければならない。このまま猿まわしの後継者として進むのか、教員の道を目指すのか。どちらの人生を選択するのか。仕事と学生生活の狭間で本当に迷いながら教育実習へ挑むことになる。 チョロ松と共に中央道、中国道を走って山口に向かった。

第十九話 教育の壁

 1988年6月下旬、2週間の教育実習を母校である浅江中学校で行う。その間、チョロ松は周防猿まわしの会本社の猿小屋で幼馴染のお猿さんたちとしばしの休息をとることができた。仲間のお猿さんたちと旧交を温める喜びにチョロ松は生き生きとしており教育実習で相方の私が居ないことなど全く気にしていなかった。とはいえ実習終了翌日には都内でのイベント出演もありその間もチョロ松との稽古等は欠かせなかった。早朝の稽古は1.5キロから2キロの基本的な散歩を、夕方は小劇場で舞台内容の反復稽古を行った。

 教育実習の指導を担当してくださったのは体育教師でもある山村進先生である。先生は陸上競技の指導者として幾多の人材を育成し世界の檜舞台でも活躍する選手を育てられたが、そんな素振りを一切感じさせない謙虚な方であった。山村先生が担任される1年1組を、授業は1年生?3年生をすべて担当させてもらった。初日早々山村先生から「村崎くん、今から3年生の授業があるから思うようにまずはやってみたらいい」と言われ驚いたが、威勢よくグラウンドに出て行くと生徒達はウォーミングアップをしていた。私たちの時代と変わらず授業の始まりは200mのグラウンドで体育委員を先頭に3周走るのだが、先頭から最後尾までまったくそろっていないバラバラの状態であった。その状態にいてもたってもおられず生徒達に即集合をかけ長々と説教を始めた。まだ、生徒のことを誰一人として知らないうちから自分の考えや思いをぶつけてしまい、完全に生徒は私に対して拒否反応をしめして心を閉ざしてしまったような気がするがそんなことにも気付かず突っ走った。担当だった1年1組のある女子生徒の存在が目に付いた。まだ1年生であるが大人に対して斜に構えてまっすぐに見ず私に対しても常に反抗的に接してきた。結局最後まで私はその女子生徒に対して何も対応しきれなかった。しかし野球部の指導に加わったときだけはわたしの様子を見て関心をもって質問してくる生徒もいて少しだけ自分らしさを伝えられたのではないかと思う。

 教師として生徒の前に立ってみるまではわからなかったが、実習に行ってみて思ったことは、様々な個性をもった生徒もいれば私には予想のつかない複雑な環境の中で育ってきた生徒もいる。そんな多種多様な生徒たちに何の信頼関係も築けてない私が生徒に接してしまうと生徒たちは心を閉ざしてしまう。私の描いた教師像は自分の考えや生き方をいい意味で押し付ける先生であったから、教師と生徒の信頼関係を2週間で築くことはできず時間だけはあっという間に過ぎていった。40数名の生徒ぐらい束ねることなど、なんていうことはないだろうという安易な考えはもろくも崩されていった。それもそのはずで、私も調教師とは言えまだまだ2年半足らずの未熟な見習い調教師であったと思う。今あらためて当時を振り返ると調教師としての課題そのものが教育実習の現場でもでたような気がする。生徒の気持ちは二の次で力で押さえつけようとしていた。それがまさに自分が越なくてはならない課題であったのに、その当時は教育実習での難しさや違和感を、「自分が求めていたのとは違うな?」とか「経験してみて自分には向いていないな?」と軽く受け止めてしまうことしかできないおめでたい人間だったと思う。

 そして今だから正直に言えることがある。私は中学時代の恩師富永先生に出会い、あこがれ、教師になりたいと思った。その気持ちを決定的にしたのは高校時代の野球部での出来事だった。高校2年の冬、ベースランニング中突然腰に激痛が走り左足が利かなくなり選手生命が絶たれた。その後、キャプテンを任されていることもあり野球部に残ったが、練習も出来ず煮え切らない中途半端な私だったので部員達に迷惑を掛けてしまった。その思いを払拭するためにも今度は指導者としてグラウンドに立ちたいという一心で教師を目指していた。実際、教育実習で一番充実していたのは野球部を任された時であった。教師になりたかったのではなく野球部の監督になりたかっただけかもしれない。

 今から15年前に周防猿まわしの会の芸能部長という調教師をまとめる大役を任されながら10年以上焦点の定まらない仕事を続けてきた。そんな私を見兼ねて現周防猿まわしの会最高責任者である長男の與一兄貴から「五郎、お前が育てる高校野球部はどこにあるのか?素晴らしい芸人達に恵まれながらお前はどこを見ている。周防猿まわしの会の調教師集団を育てる仕事こそ、やりがいのある監督業はないぞ。」私も40歳を迎えようとしていた頃だったと思うが、自分の活躍できるステージに気付くことができた。約20年近くかかり、「教えることは学ぶことから始まる」という與一兄貴の言葉、噛みしめながら今は辛いことも苦しいことも「お猿さんに学ぶ」「若手調教師から学ぶ」「お客様から学ぶ」姿勢を自然体で楽しめているのではないかと思っている。親父の「猿一頭調教できないやつに人間の教育ができるわけがない」という言葉があらためて胸に響く。

 教育実習が終わった時に気持ちの整理がついたのかもしれない。翌日に行われるイベントに出演するために、開催場所の東京都大田区に向けチョロ松とともに出発した。900キロの長旅であったが、晴れやかな気持ちでふるさとを後にした。

第二十話 チョロ松とともに歩む

 覚えておられますか北海道静内町で撮影したSONYウォークマンCM第二弾「草原編」は、第一弾に続き、全国のお茶の間を騒がせた。それは建設途上にある阿蘇猿まわし劇場にとっても追い風となった。来春のオープンにそなえ1988年7月1日付で九州事務所を開設し、団体予約の受付開始や観光関係組織への訪問説明など幅広く動き出した。そしてチョロ松と私の使命はもちろん劇場建設資金を稼ぐことであったが、横浜ドリームランド、奈良シルクロード博を中心に全国のお祭りイベントに出演し、夏休みの締めの仕事は前年に続き吉本興業の舞台に11日間出演させていただいた。しかも今回はリニューアルされたばかりのNGK(なんばグランド花月)である。吉本興業に所属する数千人の芸人といえども限られた芸人しかたてない狭き門である。まさしく笑いの殿堂でもあるNGKの舞台にチョロ松と立てたことは得がたい経験であったし光栄なことだと思っている。私にとって猿まわしは大学卒業までのお手伝いであったのだが、教育実習を終え、こうした経験を積み重ねる中で心境に変化が起きてきた。

 夏休みも終わりひと段落したところのこと、月に何度かの調教会がもたれた。東京事務所前の多摩川河川敷で、兄のT氏が指導役で東京在駐のメンバーが参加した。調教会ではチョロ松と私の関係性がテーマとなることが多かった。成猿でもあり、以前コンビを組んでいた調教師を辞めさせたチョロ松とどうつきあうかそれは私だけでなくみんなにとっても共有しなければならない大事な課題であった。学生でもある私にはそれまではチョロ松の芸を向上させていくというよりチョロ松の持っている芸を維持すればいいぐらいの考えしかなかったが、チョロ松と正面から向き合うようになった今では以前にも増してすごい勢いで私に歯を剥いてくるようになった。兄のT氏からは「歯を剥いてくることはお前をボスと認めてない。絶対服従させけじめをつけなければいけない」と指導を受けるが、調教会を重ねるごとに服従するどころかチョロ松の反抗はエスカレートした。チョロ松を力で抑え込もうとすれば力で跳ね返す。それこそ野生のプライドであり、それがないチョロ松では命さえながらえることはできない。とにかく目の前に厚い壁が立ちはだかったかのような苦しいときでもあったが、なんとかしたいと思うようになったことでようやく調教師としてのスタートラインについたのかもしれない。
 荒れ狂う成猿とつきあう難しさと真剣に向き合うようになったころに、「五郎、野性の猿を制御するのに暴力は駄目。調教師が目に見えない力を身に付けるしかないんじゃ。それは何か、しっかりチョロ松に教えてもらえ。」って義正親父によく言われた。見えない力とは何でどうすれば身につくのか。チョロ松に服従を求める前に自己の非力によりきびしく対決していかなくてはならないと親父は言いたかったに違いない。

 阿蘇猿まわし劇場のオープンは舞台を支えるメンバーの数の確保と芸のレベルの向上が急がれる課題であった。親父の中では大学卒業後私が本格的に調教師としての道を歩むだろうと確信していた。さらに朗報だったのは2月に入門して半年しかたっていないDと小猿の勘平が順調に育っていること。周防猿まわしの会においては最も重要視される礼儀作法・立ち居振る舞いといった基本芸は当然のこと、輪抜け、竹馬、八艘飛びといった猿まわし十八番芸まで習得した。Dさんは、明るく人前でも物怖じしない舞台向きのキャラクターで、入門当時は兄のT氏が将来性をかい、テレビ番組にも紹介して、一番弟子として厚遇するようになっていた。それで、勘違いするDさんでないことは後に、T氏が周防さるまわしの会から強引に独立活動を行った際にも、義正会長との約束を忘れず決断、行動したことで明らかである。そういうドラマがあろうなどとはこの時は思いもしなかったし、私としては入門当時のDさんがどこを向いていようが関心がないというか、チョロ松と自分のことで精一杯だった。ただ、様々な重圧の中で会を動かしていた義正親父が「周防猿まわしの会が21世紀へ飛躍するための主役が増えた。」と喜んでいたことがうれしかった。

第二十一話 猿まわしを栄える女性達

 阿蘇猿まわし劇場の建設も順調に進み、1989年3月26日オープンが決まった。夏過ぎには最初の団体予約が入った。12月上旬には東京事務所のメンバーも阿蘇に集結し、劇場の建設状況を見てまわる。劇場の概容がはっきりしてきてオープンが現実味を帯びてきた。オープン後の綿密なスケジュールの打ち合わせも行われ、チョロ松・五郎コンビも一ヶ月交代のローテーションで出演することになった。

 そんな年の瀬のある日、阿蘇進出に尽力いただいた塚元議員が調教師志望の女性を連れてきた。本来であれば女性という時点でお断りをするのだが塚元議員の紹介ということもあり面接だけは受けたが、やはり野生のお猿さんと向き合うためには女性の腕力やスピードでは難しいし危険を伴う仕事なのでお断りをした。しかし、その女性はあきらめずに何度も親父のもとへ足を運んだので、その熱意に応え入門が認められた。当時を振り返ると本当に驚きだったが、親父に認めた理由を聞くと、「ほんのわずかな可能性に賭ける決心をした。その可能性とは師匠のアドバイスを素直に受けて頑張ればどんな困難でも突破できる。いささかでも我流になれば失敗するけど・・・。」女性が調教師を目指すという話題は阿蘇猿まわし劇場のオープンと重なりマスコミに大きく取り上げられ追い風になった。

 復活後、初の女性入門者ではあったが、実はその当時周防猿まわしの会には女性調教師がいた。重岡フジ子という人物である。昭和最後の猿まわしとして東京中心に活躍していたが、昭和38年に廃業する。

 昭和52年、周防猿まわしの会が復活事業を開始するも調教法がわからず暗礁にのりあげた時には、親父は重岡フジ子に協力をお願いし、アドバイスしていただいたことがきっかけとなり、親父が調教法を解明し、科学的に調教法を確立することにつながった。重岡フジ子がいなければ猿まわし復活は実現しなかったかもしれない。重岡フジ子の調教は本物であった。さらに調教法だけにとどまらず、猿まわし芸能の豊かな継承者であり、周防猿まわしの会の一員に加わっていただき、大きな花を咲かせてくださった。タナ捌き、バチ捌き、間の取り方、口上、唄、見事であった。我々が学んで、学びきれないほど豊かであり、柔らかい姿勢の中に揺らがない芯を持っておられたからこそ、女性であっても調教師になれることを実際にしめされた。女性が調教師を目指すというバトンは、その後十数人もの女性志願者のチャレンジによって受け継がれ、成果と挫折を重ねながら、現代版の重岡フジ子誕生への可能性を高めつつある。時代が産んだとも言える重岡フジ子再来は難しいけれど、女性達は必ず願いを叶えるに違いない。そして女性調教師の活躍は現在猿まわしの舞台に欠かせない存在となり猿まわしを支えている。

 重岡フジ子さんは2009年(平成21年)2月11日、78歳で亡くなられた。20年前の2月11日は、親父が病に伏した日でもあり不思議な巡り会わせを感じた。私の中に生きる重岡フジ子さんについてはあらためて皆様にお伝えしなければならない。

 1989年、阿蘇猿まわし劇場オープンの新年を迎えた。チョロ松と私は、元旦より兵庫県宝塚市の宝塚ファミリーランドの10日間のイベントに、動物マジックの第一人者でもあるジャック武田さんとご一緒させていただいた。ジャック武田さんは数十種類の動物を扱いながらのマジックショーを繰り広げる。その中にピンクパンサーの愛称で人気者であったチンパンジーがいて、刺激を受けたチョロ松は落ち着きをなくし、いつも以上に調整に苦労していた。

 そして、1月7日、日本に重大ニュースが報じられた。昭和天皇がご逝去されたのだ。翌日からの公演は全て中止になり、1月8日、「昭和」から「平成」と時代が変わった。

第二十二話 親父がつないだ縁

 私がまだ周防猿まわしの会に入門する前の大学1年生夏の話しにさかのぼるが、本社(山口県光市)の親父の元へ、突然一本の電話がはいった。「日本体育大学の教授をやっている山田良樹と言いますが、村崎義正さんはいらっしゃいますか。」親父は即座に日体大に在籍する息子の私が問題を起こしたのではないかと思い、電話に出るなり「息子が何かしでかしましたか」と答えたが、山田教授は私のことで電話したのでなく、村崎義正本人に電話してきたのだ。ちんぷんかんぷんの電話だった。それもそのはず、山田教授からすると村崎義正の息子が日体大へ行っているとは知らずに電話したわけだから会話も噛み合うわけもなかった。
 山田教授は私たちと同郷で山口県周防大島出身である。当時日本体育大学で体育経営管理学を研究し学部長も兼任されていた。現在は日本体育大学名誉教授を勤められている。 ある日、日体大の職員から「先生の故郷の山口県で、猿まわしを復活させた村崎義正さんが書かれた本『猿まわし復活 調教とその方法』を見つけました。面白い本なのでよかったら読んでみてください。」と進められたのが村崎義正を知るきっかけになった。読んだ瞬間一目ぼれしたらしく、これはすぐに会いに行かなければいけないということで本社(山口県)への突然の電話だった。二人は会うなり意気投合し、親父の持つ「日本猿の調教論」「人間の教育論(子育て)」に山田教授は深く興味を持ってくださった。人間教育に不足している厳しさ、やさしさ、毅然とした姿勢が猿まわしの調教にあり、これを大学生に伝えたい、そう思ってくださった。日体大の特別講師として村崎義正を招き学生と喧々諤々の交流を重ねたのはもちろん、周防猿まわしの会の応援団として大学関係の学園祭や地方のお祭りに紹介してくださった。また、私が日本体育大学を卒業するまで親代わりのようにご指導いただき、山田教授のおかげで卒業出来たと言っても過言ではないほど迷惑をお掛けした。「義正さんもお前の子育てには失敗したようだな。五番目で唯一親父にかわいがられた。甘くなった分、俺がたたきなおしてやる。」山田先生の口癖だった。大学3年以降、チョロ松がSONYのCMでブレイクした時には大学と仕事を両立させるために午前中授業に出席して午後から地方等のイベント出演にしなければいけないこともあり、そんな時は山田教授のはからいでチョロ松をのせた営業車を大学敷地内の安全な場所に駐車させてもらったこともありました。
 山田教授の縁で普通なかなか会えない人物を紹介され、かわいがってもらいました。当時の日体大の綿井永寿学長や、山口県出身、レスリングで東京オリンピック金メダリストの花原勉教授(現在、日本体育大学名誉教授)にも眼をかけていただき、卒業の際には「日本を代表する周防猿まわしの会の芸能の発展のためにしっかり頑張れよ。」と激励の言葉をいただいた。九州方面に出張した機会にわざわざ熊本県の阿蘇猿まわし劇場まで足を伸ばして下さった時の感激は忘れられない。同級生からはいまだに卒業式に出席していなかったとからかわれるが、間違いなく日本体育大学卒業式に出席し万感の思いを抱いて学び舎を後にした。

 そしてついに、猿まわし千年の悲願が実現する日がやってきた。1989年(平成元年)3月26日、日本の観光地を代表する阿蘇山の麓に655名収容の「阿蘇お猿の里・猿まわし劇場」がオープンした。当日は全国各地の猿まわしのファンや復活以来応援いただいているたくさんの知人・友人もお祝いに駆けつけてくださり盛大に式典も行われた。チョロ松・五郎コンビも初舞台に立たせてもらったが、本当にすみません、どんな舞台だったのか記憶がほとんどありません。ただ、広い敷地にそびえたつ劇場の勇姿を見てこれから猿まわしの芸能はどんなに発展をしていくのだろうと胸が躍るような気持ちで夢を描いていた反面、正直23歳の私には数億円投資した借金を返していけるのかという不安ばかりが先に立った。しかし親父からは「まず年間20万人の安定した入場者を確保することができれば猿まわしの芸能も磐石である。そして劇場以外の施設もさらに充実することができ、頑張ってくれているお猿さんや芸人たち、そして支えてくれるスタッフに生活を保障してあげることができる。」と高笑いしながらうれしそうな笑顔が返ってきたことが鮮明に浮かんでくるのだ。

第二十三話 チャンスの時にピンチあり

 阿蘇猿まわし劇場はオープン前の予想をはるかにくつがえす快進撃を続けた。親父の目標では3月26日から6月下旬までに5万人の入場者数と見込んでいたのがオープンして2ヶ月足らずの5月29日に達成。入場者7万人も6月25日に突破した。夏休みに入った8月3日には10万人目のお客様に来場いただき、8月20日には一日の総入場者数としてはオープン以来最高の3090人、初めての大入り袋(阿蘇猿まわし劇場は3000人以上の入場者で大入りとした。)が出た。

 8月27日には3811 人と大入りの記録を塗りかえていく。 そんな記録ずくめのおめでたい日にお客様が訪ねてきた。石川県金沢市でイベント会社を経営する昭和企画株式会社北陸支社社長の千代晃久(せんだい あきひさ)さんという方である。千代さんと周防猿まわしの会のお付き合いが始まったのは、まだ千代さんが愛知県の昭和企画株式会社名古屋本社にいらっしゃる頃である。私とはチョロ松とコンビを組んで間もない頃、名古屋市内でのショッピンッグセンターでのイベントに呼んで下さったのが最初の出会いだった。それ以前にも他のコンビには数回仕事をいただいていたが、初めてチョロ松を呼んでくれた時から大変気に入っていただけた。千代さんは「チョロ松・五郎コンビは、今まで見てきた他のコンビにはない芸の力強さがある。俺はチョロ松が有名であろうが無名であろうが関係ない。チョロ松の芸に惚れたからこれからはチョロ松をしっかり売っていくからな。」と言われ、その言葉通り温かく見守ってくださり、 時にはお客様目線での厳しいアドバイスもあり、チョロ松・五郎コンビを育ててくれた大恩人と思っている。

 そんな千代さんが家族揃って遠い石川県から熊本県の阿蘇の地まで表敬訪問してきてくれた日が、大入り入場者新記録の日でもあり、千代さん家族が到着するなり、親父さんみずから阿蘇猿まわし劇場の施設を案内し、「五郎は稽古をやっておけ、夕方来ればいいから。千代さんは俺に任せろ。」と気にする私をはねのけて、阿蘇の秘湯温泉にお誘いして大歓迎した。しかし、その2時間後に大変な事が起きた。「親父が温泉で倒れた」とお袋から劇場に一報が入った。親父は当時55歳、その日も午前中若手の調教師に引けを取らないぐらい迫力ある舞台を演じていたので信じられなかった。搬送先の病院に駆けつけたときには意識も戻っていたので安心した。原因は「脳血栓」である。今回は何とか一命をとりとめた。次に発症したら命の保障はないと最後通告ともとれるような医師からの厳しい診断であったが、そんな警告すら動揺するような親父ではない。命にも関わる病気だけに今回だけはオープン以来の疲れを癒すいいチャンスと思って十分休養してほしかったが、親父はじっとしていられなかったのか、 一ヶ月後には復帰してきた。

 チャンスの時と誰しも勢いに乗っていたときピンチの影が忍び寄っていた。さらなる災難がチョロ松と私に襲いかかる。9月下旬、広島県の「海と島の博覧会」のイベントに出演していた。公演前のリハーサルでチョロ松の動きがおかしいことに気付く。チョロ松が左手を使うことをすごく拒否するのだ。その時は目立った外傷なく無難に舞台をこなしてくれたが、翌日の朝になると左手の人差し指が腫れ上がり、思った通りの芸が出来ないまま舞台を終了した。すぐに近くの動物病院に行きレントゲンを撮ってもらったところ、人差し指の第二関節から骨がないと診断された。広島から帰京して当時の主治医の先生に診てもらったところ病名は「骨髄炎」であった。早急な手術が必要だということで、事情を説明してチョロ松指名のイベント出演を他のコンビに差し替えてもらい緊急手術をおこなった。第二関節から指を切断せざるおえなく引退という最悪の事態も頭をよぎった。幸いにして他への転移もなく手術後から2 週間のちにはいつものチョロ松らしさを取り戻し仕事に復帰することができた。野生の生命力や回復力はたいしたものであるが、手術後麻酔が切れ、自分の人差し指がないことに気付いたチョロ松はすごく悲しそうな表情をしていた。もう少し早く異変に気付いてあげられたらと後悔している。

 阿蘇猿まわし劇場がオープンして約7ヶ月の10月23日、年間目標としていた20万人の入場者数を記録した。目標より5ヶ月も早い達成だった。

第二十四話 猿まわし最大のピンチ

 観光地は、紅葉の季節を終えた12月から2月頃まではオフシーズンというのが定説である。登山道に入ってくる車もまばらになり本格的な冬を迎えていたが、阿蘇猿まわし劇場の勢いは止まらなかった。12月7日にはオープン以来の総入場者数が25万人を突破した。年を越え、1990年(平成2年)1月には月間入場者数が二万八千人を越えた。2月11日、12日は大入り(3000人以上)が出るほどの来場者、しかも2月12日には総入場者数30万人も突破した。猿まわしの常設劇場を阿蘇に建設するという構想に疑問や反対意見があった中で信念を貫いて実現した劇場が、冬枯れの観光地で賑わいのピークを迎えている。村崎義正会心の笑み、自分に関わる事業でこれほどの成功は初めてであった。「自分は最後でいい。」と人の事業や生活を優先してきた人生、ちょっと器用に生きればお金になる情報はたくさんありながら貧乏くじを選んできた。周防の猿まわしを復活させたことやその著作への反響、マスコミでも取り上げられ注目された。反面「人生はあざなえる縄のごとし。」と本人が語っていたように、周囲から嫉妬の矢をあびることとなる。その矢を放つ急先鋒に立ったのは、村崎義正が手塩にかけて守り育ててきた実の兄弟、そして実の息子達であったから、不幸の闇を成功の美酒で補っても埋まるものではなかった。成功の絶頂にありながら、心も身体もボロボロであった。その親父が猿まわしを守るために一策を講じた。事業の拡大に備え、他の職業に就いていた長男を周防猿まわしの会に参加させ、ナンバー2につけて、事業の運営を任せた。この荒療治が更なる波乱を呼ぶことになることは親父も承知していた。だから、五男坊の自分には「兄には絶対服従で人生を生きろ。」との命令、そしてその言いつけ通りに生きてきた。まじめだけが取り柄の長男、そして、周防の猿まわしの理念だけは守らなければならないと無意識のうちに生きてきた自分、親父さんが残した宿題をこの頼りない二人に任せたとのだと気づいたのはつい最近のことだ。

 阿蘇猿まわし劇場の予想外の快進撃もあったが、何よりもお猿さん達や劇場スタッフの頑張りのお陰で2月には二回目の慰安旅行が計画されていた。場所はハワイである。前年8月に脳血栓で倒れてから、親父は懸命なリハビリや医師の指導による節制もあり徐々に回復していたので、療養も兼ねてのハワイ旅行を親父は誰よりも楽しみにしていた。

 ハワイ旅行を間近にひかえた2月12日の早朝、チョロ松と私は東海地区の朝のテレビ番組に出演するために愛知県名古屋市内のテレビ局スタジオにいた。リハーサルを終えたところでディレクターの方から「五郎さん。本社(山口県)の方へ電話してくださいとのことです。」と連絡をもらい電話すると、親父が倒れたとのこと。番組出演を終え、その足で山口県へ向かった。病院に到着したときには早い発見だったことで親父は一命をとりとめ意識はしっかりしていた。倒れた原因を聞いて愕然としたが、2月のオフシーズンにもかかわらず連休で大入りを記録したことに気を良くした親父はうれしさのあまり「今日はお祝いじゃ。年末、五郎が送ってくれたワインで乾杯しよう」と調子に乗り、ひとりで一本のワインを空けた。お酒もまわりすぐに就寝したのだが、胸騒ぎを感じた長男が心配になって親父の様子を寝床に見に行ったときにはすでにうつ伏せで倒れていた。「脳血栓」である。「次に発症したら命の保障はい」と言われてから半年後、恐れていた二度目の発作がおこった。

 とりあえず二日後に予定されているハワイ旅行は今回キャンセルする方向で話は進めていたが、親父から「ハワイ旅行を中止にするという馬鹿なことを考えちょるんじゃないか。芸人や社員も楽しみにしちょる旅行なんじゃからお前たちだけでも行ってこい」と言われ、結局お袋と長男が病院に残って看病してもらい、私は第一班の社員を連れて常夏の島ハワイへ出発した。しかしハワイ旅行二日目の夜、親父の容態が急変したので帰国するようにと連絡が入り、翌日の早朝便にて帰国の途につくことになる。ハワイ滞在40時間であった。

 後になって聞いた話だが、ハワイに出発した後、親父の病状は悪化していく一方だった。まずは口がまわらなくなって筆談になり、次第に字すらまともにかけなくなっていった。その時すでに親父は致命的な病が進行していたのだが気付いてあげることができなかった。自分のピンチには全力で勝負し守ってくれたのに、親父のピンチに気づき救出できなかったことは悔やんでも悔やみきれない。自分が送ったワインで倒れたことも悔やまれた。

第二十五話 鯖の味噌煮が食べたい

 親父が危篤との連絡があって翌日の早朝便でハワイをあとにする。成田空港に到着すると羽田空港までタクシーで移動、広島空港の最終便に乗り換え、広島駅から新幹線で徳山駅へ、その足で病院へ向かい着いたのが23時頃だったか、病室で親父と対面したときにはまだかすかに意識はあった。私に気付いてくれたみたいで、私の顔をじっと見て、そして私の手を力強く握りしめてくれた。そして私にメモを手渡してくれたのだが、そこには「兄弟仲」とだけ書かれていたが、それを見た私に何度かうなずきながら親父は意識をなくしてしまった。これが親父との最後になってしまった。

 それから1週間後の平成2年2月23日午後6時30分、村崎義正永眠、享年56歳であった。

 私にとって村崎義正とはまさしく親父である。当たり前のことのようであるが最近は、親を親と思ってないのが普通であると私は感じる。村崎義正家の末っ子の五男坊に生まれてきて、絵に描いたようにかわいがられ、甘やかされて育ってきた。その反面、人として道から反れたような行動があるととことん厳しく怒られることもあった。親父は五人の息子それぞれに子供の頃からいつくかの試練を与えてくれていた。

 小学校2年生の時であった。自分のまわりの友達たちは15時になるとお決まりのようにおやつが出るというのが当たり前であったが、当時の村崎家と言えば世間一般でいう貧乏子沢山の家であったため当然「3時のおやつ」というものはなく、小腹がすくと私のおやつはもっぱら猫に餌であげていた「いりこ」(関東でいうにぼし)であった。そんなことに不満を持っていたのではなかったが子供心に友達を見ていて羨ましいと思っていたことも事実である。そしてとうとう間がさしてしまい取り返しのつかない事件を起こしてしまう。それはある日の夕食どきであった。今でも本当によく憶えているが、その日の献立は大好物の鯖の味噌煮だった。そんな楽しい夕食を前にお袋の財布に入っていた100円がなくなったと大騒ぎになる。当時の村崎家の家計事情からすると100円という金額は大変貴重なお金だったので100円という金額ですらなくなると気づくほどであった。親父は、上の兄貴から「知らんか」と順番に聞いていった。すると四男の兄のTさんが「夕方、義則(私のことである)が近くの岡村商店でおでんを食べよったけど」という発言で私が盗んだことがばれてしまった。血相を変えた親父に「義則、おでんを買うお金はどうしたんか」と聞かれ私は「母ちゃんの財布からとって買った」と正直に答えたが、今まで見たことがないほどの形相で親父は私をつかみ、殴り飛ばした。何度も何度も繰り返し「ええか、人を騙す人間になるな。」と言っては殴り飛ばされ「人の物を決して盗んではならない。」と言われてまた殴り飛ばされ、「絶対に人を裏切る人間になるな。」と言われ殴り飛ばされ、殴られる度に私は「もう一発殴られれば大好きな鯖の味噌煮が食べれる」と心の中で思い続けること約1時間以上にわたって殴り飛ばされた。「わかったんなら飯を食え」と言われ終わったときには顔は腫れ上がり口も開けられない状態にまでなり、鯖の味噌煮は食べられなかった。その話を聞いてすぐに家に駆けつけてくれた人がいる。当時、学校が終わると通っていた浅江児童館の館長を務めていた有沢先生(女性)である。旦那さんも中学校の教師を務めている方で有沢先生ご夫妻には村崎家一族の子息の教育と成長を見守ってくださり、たくさんの御縁と長年のお付き合いをしてくださっております。私の腫れ上がった顔を見て「義則君その顔どうしたんかね・・・。」事情を知った先生は親父を訪ねて「息子にこんな目にあわせて、あなたは父親失格です。今日から私が義則君の面倒見ます」と言うなり私を先生宅に連れて帰った。数日経ってから親父は深く反省し有沢先生にお詫びを申し上げ私を自宅に連れて帰った。

 あの時親父に殴られたことは今でも鮮明に残っている。それほど大変な出来事だったし、以降親父は怖いという感情を持ったことも確かだが、それ以上に愛情を注がれていることを感じていたので不思議と恨みだとかもろもろの感情は一度も抱かなかった。

 逆に4人の兄貴たちに比べれば、末っ子である私だけはやりたいことをやらせてもらい本当に感謝している。小学校3年になると中日ドラゴンズの星野仙一(現楽天ゴールデンイーグルス監督)選手に憧れ少年野球に入部し、高校卒業までの10年間大好きな野球に没頭させてもらった。勉強は一度も強要されることはなかったけれど、からっきし駄目だった。結局、小学校を卒業するまで成績はオール1だった(マジです)。小学5年生の秋を迎えた頃だったか、親父から突然話しかけられた。「義則、野球は楽しいか?」との問いかけに私は「うん・・・」とだけ頷く。親父はうれしそうに「そうか。勉強は嫌いなんじゃろうの?」の問いにまた私は「うん・・・」とだけ頷いた。すると親父は、「勉強は嫌いなんじゃろうから無理してやらんでもええからの。好きな野球でもええんじゃけど、一番とかいうことじゃなくとにかくこれだけは誰にも負けんちゅうものを見つけれたらええの。」と言われた。その時それだけで話は終わったが、今まで何も考えなかった私がその日から私に話しかけてくれた親父の笑顔を忘れることが出来ず「誰にも負けんちゅうもの」を何日も真剣に考えた。そして9月30日、「これだ!」と突然ひらめいたんです。

第二十六話 夏服と初恋

 1976年9月30日、小学校5年の秋の話です。翌日からは衣替えで夏服から冬服に変わる。その日の下校中、いつも一緒に帰っていた隣村の友人Yくんに私はある提案をした。「先生に夏服のままで誰が冬を越せるか競争せいと言われたいや。おいY!このまま夏の制服で通わんか。どっちが寒さに耐えて頑張れるか勝負せんか」と。Yくんは迷うことなく「おお、ええど」と簡単に了解してくれた。今、考えると寒さをこらえてそこまでやる必要があったのかと思うけど、実のことを言うと冬服がパンパンになり着れなくなったからで買ってもらうのも悪いと思ったからだった。当時、少年野球に没頭していて練習も熱心にしたがその分食欲も旺盛で夕食には丼飯を軽く2 杯は食べていた。多分、野球の練習以上にご飯を食べていたため肥満児になってしまった。

 冬でも夏服で通すというチャレンジ、友人を巻き込んで始めたが、温暖な瀬戸内の地方なのにそんな年に限って雪が降り0度をきるような厳しさが続いた。友人Yくんも私も脱落することなく二人だけが春を迎えた。しかし、先輩達の卒業式をひかえた前日に事件は起きる。卒業式の予行練習中に先生とPTAの方たちが騒々しく話をしていて、しばらくすると私と友人Yくんが呼び出された。ある父兄の方から「君たちは何故半袖なのか。全校生徒の中で白いYシャツが目立ち不自然だから明日の卒業式は上着を着てきなさい。」と指導された。私と友人は悩んだ。はじめは自分が着る冬服がないことから始めたことだし、他人からするとどっちでもいい事かもしれなかったが辛い時に続けてきたことなのでどうしても譲ることが出来なかった。子供心に悩んだ。家に帰って親父に相談すると、何時間かして「明日も今まで通り半袖半パンで行ってええけえの」と笑顔で答えてくれた。内情はよくわからないが学校やPTAの皆さんを説得してくれたみたいだった。6年生の冬も半袖半パンで登校し、小学校卒業まで夏服を続けることができた。親父はこの時のことを振り返り「女か男かわからない。食べる時だけ目が光る義則を鍛えてくれたチャレンジ。その乱暴な提案をしてくれた先生の御恩を忘れてはならない。」と話していたそうだ。

 決めたことをやりぬいたことで私は勇気と自信を持つことができた。地元の光市立浅江中学校に進み野球部に入部した。少年野球とは違い、今までライバルだった選手も同じ中学校に集まったので100人近い部員数、ベンチに入ることは厳しくなった。逆にその競争が私の闘争心に火をつけた。そしてレギュラーを目指し小学生時代同様勉強には目もくれず野球の練習に励んだ。肥満体型は先輩達のしごきのおかげで鍛えあげられた。
 中学校2年生になり、転校生がやってきた。当時、音楽で夢中になっていたイギリスの「ノーランズ」という姉妹グループの末っ子コリーンに似ていて、女神のような子だった。それまで異性に対して意識をしなかったわけではないが、多分ときめいたのは初めてのことだったと思う。初恋であった。クラスも同じになり、しかも席まで隣になった。1学期の期末試験の上位者が廊下に張り出されるとそこにその子の名前が載っていて驚いた。威張って書けるような話ではないが、私の成績は184 人中最後から数えられる位置だった。単純だがこの初恋が私にその子と同じ学校に進学するという無謀とも思える一大決心をさせた。夏休みになったある日、家に帰り「親父、俺今日から勉強するけえ。できたら地元の光高校へ行って、大学まで行きたいと思うちょる。」と言うと「そうか、頑張れよ!」と嬉しそうに返してくれた。早速その日から三番目の兄貴に勉強を教わることになり、三日ほど私に付き合ってくれたけれど、私のあまりの頭の悪さに呆れて「お前は、本当に馬鹿なんじゃの。俺じゃどうしようもならん。」と一言で見捨てられた。そんな私の状況をみかねて長男が指導を引き受けてくれた。当時、長男は現役の中学校教員であり、夏休み期間中であっても部活の顧問で忙しかったが勉強に付き合ってくれた。私の部活が午前9時から午後3時過ぎまであったので夕方4時から夜中0時まで約8時間ほとんど休まず勉強をした。何度も何度も挫折しかけたが半袖半パンを続けた自信が弱い自分を支えてくれた。夏休みに勉強を始めた時の私のレベルは想像を絶するほど低くて、中学2年生なのに中2レベルの勉強が理解出来ないことがわかった長男は翌日中学1年生の問題集を買ってきてくれた。これがまったく理解出来ない。また翌日小学校6年生のドリルを買ってきてくれた。それも理解できない。また翌日小学5年生のドリルを買ってきてくれたが・・・理解出来ない。また翌日小学校4年生のドリルを買ってきてもらい、そのあたりでようやく理解出来た。長男は難しい問題は出さない。漢字のドリルを10問正解するまで何度も繰り返す。簡単な問題つまり基本ほど大事に習得するまで指導してくれたような気がする。小学校4年生で止まった学力を中学2年生で取り返す猛勉強が昼間の野球部の練習と同じくらい厳しく続いた。私と粘り強く付き合ってくれた長男に感謝している。

 初恋の威力は恐るべし。  

第二十七話 反抗

 地元の高校に進学しさらに大学へという希望は絵に描いただけの夢で終わらなかった。五教科で250点中、最初は取れて60点だったが、入試直前には180点をとるまでになっていた。家族は当然のごとく、友人、先生、誰もが無理だと思っていた地元の県立高校へ進学する道がこうして開かれた。振り返ってみると、小学校5年、6年の時、真冬に半袖半パンで通学したことが自信になり大きく人生を変えた。自分が目標を持つと、親父がいつもにこやかに見守ってくれたことが力になった。文武両道を重んじる高校で、朝は6時前に起床し7時過ぎから連日夜9時過ぎまで甲子園目指しての練習、部活と学業を両立しながら高校生活を謳歌した。

 高校生になっても怖かった親父に反発するなど考えられなかったが、学校や社会に対しては堂々と反抗した。高校に入学したばかりの頃、鉄腕アトムの様な剃りこみをいれ眉毛も剃っていた。帰宅する頃にはいつも親父は就寝していたので、これ幸いに剃りこみはどんどんエスカレートしていった。そんな時にかぎって親父は起きていて、まずいと思い帽子を深くかぶっていると「義則、家に入ったら帽子を脱がんか」と言われ、バツ悪そうに帽子を脱ぐと私の剃りこみと眉毛を見て半笑いしながら「なんか?お前の中途半端な眉毛は?剃るなら剃る。情けない平安時代の公家風の眉毛は止めんか」と言われる始末、この程度の抵抗を軽くあしらわれるのだった。

 高校三年の夏、夢にまで見ていた甲子園出場は叶わなかったが、指導者として甲子園に行きたいと考えるようになった頃、親父から高校卒業後の進路について話を切り出された。「今まで、お前のやりたいことはやらせてあげることが出来たと思うちょる。それでこれからのことじゃが、猿まわしの発展のためにもお前自身のためにも猿まわしをやるべきと思うがどうか」と。意外な展開で話を持ちだされたため「俺は猿まわしはやらん。」とだけ答えると親父も思いもよらぬ返事が返ってきたと思ったのか「猿まわしを継がんのんじゃったら、この村崎の家から出て行け」と言った。今まで私の考えや思いを尊重してくれていた親父が私の考えをまったく聞かずして一方的に考えを押し付けてきた。一瞬私も頭に血が上り「わかった。こんな家出て行っちゃるわ・・・。」と捨て台詞を吐いた上に食卓をひっくり返して家を出た。18歳にして親父への初めての反抗であった。行くあてもなく家を飛び出したが、一人暮らしをしている高校の友人Sくんのアパートへ転げ込んだ。家を出て一週間経った頃だったか、寧叔父さん(やすし、親父の弟、以後寧おじきと表記)が居所をつきとめ訪ねてきた。寧おじきは「義則、元気か。親父からカレーを預かったから届けにきた。またくるわ」とだけ言って戻った。今まで何の不自由もなく育ってきた私がちゃんと生活できているのか心配でしょうがなかったようだ。それからは毎日食材を届けてくれたのだが数日後、「義則、そろそろ帰ってもええんじゃないか。親父も相当こたえちょるみたいじゃけえ(山口弁で精神的に落ち込み反省しているという意味)」。寧おじき、そして間借りさせてもらった友人には本当に迷惑を掛けてしまった。二週間にわたる家出にピリオドをうち自宅に戻った。家出をしている間、寧おじきや、長男からの親父への説得もあり、私の当初の進路希望でもあったいずれは指導者として甲子園に行きたいという夢を実現するために親として協力をするということで家出騒動は納まった。今考えてみると親父が強引に猿まわしを継がせたかったのにはもうひとつ理由があったのではないか。私は高校2年の冬の野球の練習中に致命的な怪我をしてしまった。「第五腰椎分離症」という骨盤と腰椎をつなげている第五腰椎の骨折である。右足は麻痺し靴下も履けない状態で、毎日リハビリに通いながら試合の日には腰の痛み止めの注射を打ちながらも野球を続けさせてもらった。将来的には更に悪化する可能性もあると診断されていたため、家業である猿まわしを継げば安心して病気と向き合うことができるという親心もあったのかなと思う。

 親父が亡くなって23年が経ち、一度は断った猿まわしの道を歩んでいる。親父が生きていたときは包み込むような愛情で守られていた。何もかも親父に任せておけばよかった。司令塔である親父が亡くなってからも五男という気楽な立場で親父が残してくれたレールに乗って何となくやってこれた気がする。猿まわし復活の際に、まず、四男が後継者第一号として猿まわしの世界に入った。次男、三男、そして五男の私も続いた。長男も加わり、5人男ばかりの兄弟全員が揃った。兄弟一致団結して猿まわしを発展継承させることは親父の夢だったが、5人の兄弟が同じ会社で仕事をすることは大きな困難を伴う。兄弟でありやがて互いにライバルとしてよくも悪くも競い合うときが来る。避けられない宿命。そのことを承知しながら、5人兄弟に『兄弟仲』を求めた『無謀な願い』は村崎家においても波乱をもたらした。兄弟の列から早々と三男が去り、世間から注目を集めた四男は、争いを起こし周防猿まわしの会を離れざるをえなくなった。長く周防猿まわしの会の発展に貢献した次男も男気に溢れる生き方を貫き、会を去った。幼い頃から「兄貴の言うことは絶対に従え。」と親父に徹底的に叩き込まれ、理不尽に感じても兄貴をたててきた。五男という気軽さと4人の兄から受けるストレスと戦う日々であったが。気がつけば、長男と二人で周防猿まわしの会を背負っている。車の両輪となった今、責任は重い。

 しかし、迷った時には必ず1985年2月22日を思い出すようにしている。チョロ松とコンビを組み、猿まわしの調教師見習いになった日、親父は本当に嬉しそうだった。「息子を5人産んじょってよかった」と家業に加わった五男の私に対しての親父の喜びようは忘れることが出来ない。そして、チョロ松とコンビを組ませてくれたことが今に生きている。屈強にして人間に媚びることのない堂々たるボス猿チョロ松。中途半端な付き合いは許さない相方だったからこそ、奥深い調教の門に立ち謙虚な気持ちを今なお持ち続けることができているのだと思う。

第二十八話 初代チョロ松からジュニアへ

 1990年3月26日、阿蘇猿まわし劇場がオープンして1年が経った。大方の反対を気にせず、観光地阿蘇での成功を信じて全力で駆け抜けた親父はもういない。年間入場者目標20万人をはるかに超えるお客様に感謝して阿蘇猿まわし劇場併設の休憩所建設に向けての準備が順調に進んでいた。親父が最後に手掛けることとなったこの休憩所は劇場の待ち時間があるなかでお客様にゆっくり待っていただくためのもので親父ならではお客様目線の結晶であった。百坪はある建物は第二劇場予定になっている森の見事な杉を数十本も活用した造りで「猿公館(えんこうかん)」と名づけていた。この一角にはお袋が味付けした自慢のうどん屋も有り、猿まわしの歴史の紹介、富山県を代表する井波彫刻の大野秋次先生のお猿さんをモデルにした欄間の彫刻や山岳画家の第一人者でもある山里寿男先生の油絵も展示された。時を同じくして、猿まわしの世界に飛び込んできた人たちが落ち着いてお猿さんと向き合い修行出来るためにと劇場の敷地内に調教師専用の寮の建設にも着手していた。

 5月、チョロ松も13歳を迎え、心なしか体力の衰えを私は感じはじめていた。人差し指の怪我以来チョロ松の調子はよくなかった。そんな時に引退させてあげたらどうかという話が持ち上がった。会にとっても自分にとっても宝であるチョロ松、そして今なお全国各地から寄せられるチョロ松への公演依頼など多く、現役続行と引退かで悩みに悩んだ末、チョロ松を元気な内に引退させることで気持ちを固めた。チョロ松は阿蘇猿まわし劇場にある現役の芸猿や引退した芸猿が一緒に暮らす遊び場付の猿舎で晩年を過ごした。奇しくも親父の相方だった芸猿常吉も同時期に引退していたので、現役時代よりも長い引退生活をゆっくりのんびり楽しんでくれたのではないか。二頭とも時折舞台上で見せていた緊張感のある素顔がすっかりなくなり、引退後もチョロ松を訪ねてくるマスコミ関係者に興奮することなく冷静に対応してくれた。初代チョロ松は引退しても周防猿まわしの会の誇る大スターであった。

 初代チョロ松の名跡を受け継いだのがチョロ松Jr(愛称ジュニア)である。本来なら二代目チョロ松と命名するところだが、これから相棒となる若干2歳のかわいらしい小猿でもあり「Jr(ジュニア)」と呼ぶのに何となく響きもいいし、当時のチョロ松にはぴったりだと考えた。Jrという名前を選んだもう一つの理由は私がサミーデーヴィスJrの大ファンだったからだ。大学生の時に友人に薦められて観た映画があった。「オーシャンと11人の仲間(後にオーシャンズ11という映画でリメイクされた)」の主人公役でもあったサミーデーヴィスJrを観てファンになり、当時から洋楽が大好きなこともありの彼の音楽も聴いた。アメリカを代表する歌手でもありまたエンターティナーとしてもアメリカだけでなく世界中で認められた人物でもある。
初代チョロ松が引退し、ジュニアとの新しい物語が始まる。

 初代チョロ松には圧巻の芸と名声があったが、ジュニアとはこれからだ。だが不安よりも新たな希望がわいてくるのだった。8月に予定されている「ナイトシアター」と題した劇場始めての試みでもあった営業時間外の夜の公演でのデビューが決まり、公演前日までに足下1m80cm以上の竹馬高乗りに乗れるという目標を目指すことになった。

第二十九話 人生の師に出会う

 1991年6月、チョロ松ジュニアとデビューに向けての稽古が始動した。「明日、舞台に立て」と言われればすぐにでもデビューできるぐらいの基本的な芸はマスターしていたが、一人前の芸猿として舞台に上がるにはいくつかの芸を習得しなければならない。どうしても初代チョロ松と比較するので焦りが先走る。「竹馬高乗り」を極端に高くして無理をさせる、早く「八艘飛び」の芸を完成しなければという私の思いがジュニアに負担をかけてしまって、挙句の果てには怪我をさせ、療養期間も取ったためデビューが遅れた。初代チョロ松と苦労したこと、チョロ松から学んだことは生かされることなく3才を迎えたばかりの精神的にも肉体的にも子供であるジュニアに10才の成猿でないとできないようなレベルの芸や風格を求めた。本当は3才のジュニアの輝きやかわいらしさがまず芸の中心に据わるべきである。私が理想を求めるあまりジュニアの魅力には気付かないでいたが、お客様はジュニアの仕草を勝手に喜んでくださっていたに違いないし、ジュニアの魅力は自然に伝わっていた。ただし救いだったのは、「基本が大事だ」と親父に口すっぱく教えられたこともあり基本を馬鹿の一つ覚えのように欠かさず徹底してやったことでみるみるうちにジュニアも立派な芸猿になり、相変わらず強引ぶりだった私の指導をジュニアは受け止めてくれ成長していった。

 夏休み中盤にさしかかり、「ナイトシアター」と題して阿蘇猿まわし劇場初の試みでもある夜の公演が行われた。コンセプトとしては通常の公演では試せない演目に挑戦し新しい芸を開発していくための実験的な公演を行うことが目的であった。復活以来始めて4組のコンビが同時に舞台上に出演し、従来の1組では難しかったコントなど今までにない舞台を試みた。狭い舞台に相性も年齢も違う芸猿が同時に出演することは難しい。それを試すことで猿まわし芸の可能性を広げていけないか若い未熟な芸能集団であるだけに怖いものなしの私たちは前向きにチャレンジしていく気運に包まれていた。ジュニアは課題とされていた足下1m80cmの竹馬高乗りが出来るようになり、公演のおおとりでもある竹馬高乗りも一発で成功させ場内を沸かせた。夜開催の公演で心配されたチケット販売は地元の方の応援もあって沢山のお客様に来場していただき、満員御礼の大盛況であった。

 そんな時を同じにして阿蘇猿まわし劇場にお客様が訪れた。猿まわしの舞台を豊かにしていくために外部のアドバイザーが必要だと芸能部長が提案し数名の方を阿蘇猿まわし劇場に連れてきたのだ。芸能部長だったT兄が東京で知り合った方達であった。以前紹介した若き日の餅つきパフォーマンスの藤井さんや当時フィールドワークで全国を駆け巡っていた田口さんなどすでに知り合いだった方もいらっしゃったがまったくの他人である人間が介入してくるように思えて受け入れられなかった。ましてや猿まわしの調教師や芸人でもない人間がお互いの信頼関係もない中で突然私たちの稽古に参加し猿まわしの今後の舞台について勝手に意見を言い出したことで私は完璧に拒絶した。そのときは最後まで私は心を開くことが出来ず訪問者との関係に違和感を拭えずに時間だけを経過させてしまった。

 しかしその後付き合いが続いていくうちにある一人の方には気持ちを許せるようになってきた。その方は終始にこやかで、ある時「あっ、この人は本当に猿まわしが好きなんだな」と思った。その瞬間に私から自然に話しかけるようになっていった。舞台を鑑賞し意見を求められると必ず最初に、自称「猿まわしおたく」と自己紹介した上で気取らずゆっくりお話しされるし、持論を話されるより我々の話を聞きしっかりすべてを受け止めてくださる。また、「猿まわしは歌舞伎より能や狂言が参考になる。」「お猿さんが上手くできるところだけでなく苦手なところ、失敗も組み込んだ台本を創るべき・・・。」と舞台から芸能集団としての在り方、はたまた人材育成まで多岐にわたり我々の血肉になる言葉をいただいた。

 古川さんである。見た目の第一印象は「猿まわしおたく」とはほど遠い「如何にも都会のインテリ」という雰囲気をかもしだしている方である。三重県御浜町出身で早稲田大学卒業後「紀伊国屋書店」に就職。後に退職して東京神田で出版社を立ち上げられた。民俗学をはじめとして学術書など出版物への評価は高い。その民俗学が接点となり我々とも長くお付き合いいただくこととなった。

 古川さんは猿まわし復活当初から、周防猿まわしの会のお猿さんたちの無類のファンである。後に周防猿まわしの会の顧問をうけてもらい、血の気の多い村崎兄弟の潤滑油役を長きにわたり務めていただいた。猿まわしの舞台についても顧問という立場ではなく常に「猿まわしおたく」としてお客様目線でアドバイスをしていただき猿まわし芸能の発展を見守って下さった。これからチョロ松物語で展開されていく芸術祭出演、アメリカ公演、明大前実験劇場公演、北海道ツアー、河口湖猿まわし劇場オープンと数々のチョロ松・五郎コンビのドラマを書く中で決して外すことの出来ない人物であり、村崎五郎を成長させてくれた大恩人であると感謝しています。

第三十話 見えない糸

 新人の調教師見習いが増えるようになって私の負けず嫌いの種火に火が点いた。二代目、チョロ松Jrとは本当によく練習した。休憩をはさみながら一日中稽古することもあった。当時の私が理想としていたお猿さんの芸は、とにかくどのお猿さんより高く飛び、そしてどのお猿さんよりも遠くへ飛ぶ、そしてどのお猿さんよりスピーディに動くことであった。Jrはそんな私の理想に近づけるだけの体力と精神力を兼ね備えたお猿さんであった。阿蘇猿まわし劇場の舞台と客席は1.5メートルあるが竹馬に乗ったまま軽々と飛び移るなり段差の客席をポンポンとかけあがってゆく。跳躍力、目標に着地する確実さ、そして脚力は鞍馬山の義経を連想させるほどであった。
 調教師のしゃべりや表現力で漫才のように笑わせる芸に人気が集まる中で、人前で笑いをとれるほど器用でもなかった自分はまずお猿さんの輝きを大事にしたいと思っていた。それに、人間の漫才のようにスピードを求めるあまり、笑いの代償としてタナ(お猿さんをつないでいる紐)を短く持ってしゃくる調教師が増えて同じことはしたくなかった。笑いにつながるといえば、ソフトボールをチョロ松Jrに持たせ目の上にくっつける「目の上のたんこぶ」というネタをそのころやっていた。二日酔いのネタも好きだった。全く演じていなかったわけではないが、笑いも織り込んみバランスのとれた構成の演目を本格的に目指すのはもっと後になる。小手先の笑いに走らないでお猿さんの輝きを大事にするまわり道を選んだことで猿まわし芸の美しさ楽しさを幾重にも追求表現できる現在があるのではないかと思う。

 1991年春、周防猿まわしの会は文化庁主催の芸術祭に参加する方針を建て実現に向け奔走した。大道芸で生きてきた周防猿まわしの会が阿蘇猿まわし劇場という専用劇場をもってからは、大道芸から舞台芸への昇華を如何に実現するかが課題となっていた。大道芸の猿まわし芸を単純に舞台へ載せたばかりの頃で、舞台芸としての蓄積がはじまったばかりであったから、国を代表する「舞台芸の祭典」への出演は背伸びした大それた目標であった。

 動物芸として初の参加希望、そもそも大道芸であった猿まわしの参加が認められるかそれが第一難関である。その件について水面下で文化庁に問い合わせたところ「参加を歓迎します。」という回答をいただいた。後にわかったことだが、山口県で周防猿まわしの会による猿まわしの復活運動がおこったことに強い関心とそのスタイルに期待をしてくださっていたのだ。多くの応援団の支援で復活の意義が伝わっていたことに深く感謝している。周防猿まわしの会としては昭和期最後の猿まわし調教師である重岡フジ子さんを広く知っていただくことができるし、村崎義正が後世の子供達に見せたいと希望した復活猿まわしの力強い生命力を伝える場にもなることを願った。そこにチョロ松Jrと私も参加することになった。お猿さんの輝きを表現するために欠かせないコンビとして選んでいただいたと後で知り、喜びと共に気合も入った。

 第二関門で芸術祭参加に暗雲がかかった。参加公演規定では10月中に東京都23区内にある劇場もしくはホールで公演時間90分以上の演目をおこなわなければならなかった。大抵の公演は一年前からホールを押さており、一年以内では探すのは手遅れであった。
 というわけで芸術祭参加を決めたものの夏が近くなっても、まだ公演日程、公演ホールが決まらなかった。残念ながら今年は断念という流れになった頃、私は兄(現在の社長)に呼び出された。そう簡単に引き下がらないのは義正譲り、兄は一見難しいと思えても角度を変えて可能性を探る。ずぶの素人である私にホールを探せという。ホールを借りての公演など経験したことがない私にはまったく見当がつかなかったが、とにかく専門雑誌を買ってきてしらみつぶしに探し始めた。経験もなければ先入観もない若者は何をしでかすかわからないが、可能性も秘めている。
 まずは人を集めやすいのは都心ではないかと考え新宿区、渋谷区、世田谷区あたりにターゲットをしぼった。パルコ劇場、新宿シアタートップスは予約で埋まっていた。次に主役であるお猿さんが気持ちよく芸を演じることができる舞台、なお且つどの客席からでも主役であるお猿さんがしっかり見えるホールでなければいけないという考えのもとにホールを徹底的にさがしまわった。青山円形劇場、「こんなホールでやってみたいな」と思う素晴らしいホールはあるが料金が高すぎて合わない。「ホールがよくて料金もリーズナブルで、ここであれば」と問い合わせしてみると申込みが遅すぎて空いてない。
 兄からは、「諦めるな」。都心にこだわるのでなくもっと視野を広げて探したらどうかと提案され、北区、足立区、台東区、そして墨田区とエリアを広げること数十件目、「猿まわしの舞台にぴったり」と思えるホールに出会うことができた。このホールはほしかった3日間連続の借用が可能で借用料も手が届く。京成線曳舟駅を降りて徒歩1分の場所にある墨田区にある曳舟文化センターであった。私が見つけたのも本当に偶然なのだが、この曳舟は猿まわしにとってゆかりの地であった。曳舟と報告した瞬間兄は絶句した。驚いたことに、大正昭和期に猿まわしの一団が常宿、拠点としていたのが押上、曳船界隈であったのだ。昭和期最後の猿まわしであった重岡フジ子さんは押上から上野公園に出没して猿まわしを行っていた。村崎家の先祖もここを足掛かりにしていた。何とも言えぬ猿まわしの歴史の奥深さを感じたのを憶えている。すぐにホールが空いている日を押さえて公演日を決定した。1991年(平成3年)10月7日(月)8日(火)9日(水)の午後7時開演、場所は曳舟文化センターである。
 今年、この押上駅に東京スカイツリーが開業したことで有名になったがまさにここに我々はさまよいながらも導かれた。

第三十一話  1キロの衣裳

 曳舟文化センターに会場が決まってから芸術祭への準備が急ピッチで進み始めたが、実は公演まで一ヶ月後にひかえた段階でまだ3割近く空席があった。とくに芸術祭の審査委員の先生方が観劇される10月8日(火)の公演はなんとしても満席で迎えたかった。空席を残さないという気迫で、芸人総出で京成線曳舟駅をはじめ浅草・上野を中心に通勤時間のラッシュをねらって早朝、夕方とチケット販売に奔走した。すれ違う人という人、下町の人達の人間味ある暖かい言葉や人情深さにふれあうことで本当に励まされた。たくさんの方の応援やスタッフ一丸となった販売活動が報われギリギリになってチケットが完売した。
   芸術祭に参加できること、そこで様々なチャレンジをすることは猿まわしの芸能を継承するうえで貴重な経験を重ねることができるけれど、芸を育て、舞台を支えるには舞台に立つ、つまり芸猿と調教師だけでなくスタッフそしてプロデュースを含めた総合力を周防猿まわしの会が持っていなくては良いチャレンジができるわけがない。残念ながらその当時素人集団だった我々は、そういう力を持っておらず、外部にご協力を仰ぐしかなかった。さらに、芸術祭参加プロジェクトの組織体制も弱点だらけだったので舞台内容の決定から稽古の進め方まで大きな問題を抱えていた。その弱さを今は率直に見つめることができるが、その当時は偏った意見が通ったり、強引な決定がまかり通りしわ寄せがお猿さんや立場の弱いスタッフに押し付けられることとなった。自分としても当時を振り返ることさえ断腸の思いである。内部のメンバーにとっては芸術祭参加が叶いお祝いムード一色とは思えなかった。ただ、客席を満席にすることだけは一丸となって取り組めたことを誇りに思う。

 舞台演目の目玉は、当時脚光をあびていた猿之助さんのスーパー歌舞伎に刺激を受けた「義経」物語であったが、それでいいのか議論が起こり、最終的に我々が信頼を寄せる古川さんら数名の方に演出グループに入ってもらい演目構成、および演出が実験的な舞台に偏ることなく、お猿さん本来の輝きも随所に入る4幕構成の舞台内容になった。特に幕開けとなる第一幕「重岡フジ子」の世界は、鍛えあげられた猿まわしの名人芸をシンプルにお見せする一幕で会場の雰囲気を一気に猿まわしの世界に引き込む内容であり、実際もこの第一幕が多くの方から評価をいただいた。
 チョロ松の出番は「義経」を題材にした演目での源氏の武士役、そして「猿まわし十八番芸・八艘飛び」である。どちらもチョロ松らしい運動能力が十二分に発揮することができる舞台になるはずであったが、ことはそう簡単には進まなかった。第二幕「義経」の演目でチョロ松達が着用する衣裳が仕上がってきたのだが、衣裳を試着して驚いた。当時、体重5キロもない体格のチョロ松に1キロ近い重さの衣裳を身に着けさせ舞台にたつというのだ。当然チョロ松といえどもこんなに重い衣裳を身に着けては本来のチョロ松らしさを発揮できない。しかし当時の私にはこんなに基本的で大事な感想を言えずに、またそれを理由に芸のレベルを落としたと思われることが許せず、本番に向けチョロ松にさらなるハードな稽古を強い無理をさせてしまった。そして、舞台内容では同じ舞台上で他の共演者(調教師・芸猿以外)ともからむ部分がかなりあるので難しい。そこは警戒心旺盛なお猿さんには苦手であった。しかも演出代表はその部分克服の稽古に時間を割く気はなく、出来不出来は各コンビの調整に任された。ただいくら調整しようが慣れない人間と舞台に立ってうまくいくはずがない。今では基本中の基本ともいえる演出がどうどうと無視される状態であった。したがって、ろくに共演者とチョロ松との練習時間が十分とれず、主役であるお猿さんたちが安心して舞台に臨める環境づくりもないまま時間だけが過ぎていった。
 そんな時、古川さんから演出グループに対し「人間のエゴでお猿さんが本来持っている動きを損なうような無理な衣裳を身に着けさせて舞台に立たせるべきではない」。と提案してくださった。誰も言えない空気の中での古川さんの言葉に私は救われた気持ちだったが、そんな意見にも耳を傾けようとしていない演出代表に私は疑問と不信感を持ったまま芸術祭は迫っていった。


 2012年7月12日集中豪雨災害 皆様への緊急アピール


 2012年7月初め、北部九州各地で大水害被害が発生しました。観測史上例を見ない雨量が短時間に集中的に降ったというニュースは皆様に届いておられることでしょう。阿蘇地方は7月12日未明の数時間で最大雨量を観測し、防災に備えた大河川も決壊、人的被害も甚大なものとなりました。我々といつも連携してくださる宿泊施設、立ち寄り施設、お食事処も復旧に相当長い時間を必要とするところもあり、営業再開も決まらない施設もでるなど事態は深刻を極めました。劇場も大規模な谷の崩落で傷跡生々しく一丸となって復旧にあたりほぼ現状を回復しました。地元の有志の応援と計らいで業者を紹介してくださったり、大量の土砂を運んでくださったリと尋常ならない応援をいただきました。一瞬の集中豪雨が7月から夏休みを挟んだ9月まで観光に大打撃をあたえるなどと、誰が想像できましょうか。我々も大きな落ち込みで冬を前にして緊張感を持たずにはおられません。豪雨による被害から、今では復旧作業も進んでおり主要道路も通行可能となり安心安全に観光していただけるところまで回復しましたが、風評被害も含め観光客の足が止まった状況で一向に阿蘇の観光に回復の兆しが見えません。このままでは、阿蘇猿まわし劇場の運営のみならず周防猿まわしの会の存続すら危ぶまれる状況です。時代の流れと共に衰退し一度は途絶えてしまった千年の歴史をもつ伝統芸能「猿まわし」が再び途絶えることのないように河口湖猿まわし劇場と阿蘇猿まわし劇場が共に力を併せこの困難を乗り越えていかなければおけないと考えています。ぜひともこの伝統芸能「猿まわし」消滅の危機を救うべく国民の皆様の更なる応援をよろしくお願いいたします。どうか、これまで以上に阿蘇・河口湖の両猿まわし劇場に足を運んでくださり秋の安全安心、実りの秋を楽しんでいただきますことを伏してお願い申し上げます。

第三十二話 渡る世間は鬼ばかりですか・・・。

 1991年10月7日(月)、平成3年度文化庁主催芸術祭参加の日を迎えた。主役であるお猿さん、芸人、客演する役者さん、プロデューサー、舞台監督、音響、照明、その他たくさんの関係者含め総勢50名近いスタッフが曳舟文化センターに集結した。早朝から舞台道具、舞台セット等の搬入も終り、何よりも一番大切な主役であるチョロ松達お猿さんの個々の稽古は入念に行った。特に、二幕で共演する役者さんたちとの稽古には熱が入る。当然公演をむかえるにあたってこの場面の稽古は十分におこなってきた。・・・・・午後からのゲネプロ(通し稽古)をひかえた会場は何とも言えない空気に包まれ、緊張感だけが増してくる。音響スタッフさんの最終チェックの音楽がステージ上に大音量で流れる。そんなとき、曳舟文化センターのステージの全責任を任されている方が、「今流れている曲はもしかしたら大阪の音楽家、鈴木きよし先生の曲ですか」とたずねてきた。私は当たり前のように「そうですよ。」と答えたのだが、次の瞬間お互いに「何故?鈴木きよし先生を知っているんですか?」というようなちんぷんかんぷんな反応になっていた。鈴木きよし先生は、親父村崎義正と数十年来兄弟同然の親交があり、村崎義正の会葬のときには葬儀委員長も務めていただいた。チョロ松・五郎コンビが吉本興業の梅田花月、なんばグランド花月に出演する際には吉本興業との間を取り持っていただいた。ちなみに鈴木先生は吉本興業の有名タレントさんの漫才や新喜劇等の台本も書いていらっしゃる。阿蘇猿まわし劇場オープンのときには、猿まわし劇場オリジナルソング「お猿音頭」を作詞作曲していただき、今でも阿蘇・河口湖猿まわし劇場の舞台開演前には客席に流しているので来場した際には是非お聞きください。自然に手拍子してしまう曲です。
 曳舟文化センターの責任者の方は以前音楽関係で鈴木先生と縁があり、師匠と仰ぐほどの深い親交があり「今でも尊敬する人物だ。」とお話してくださいました。その直後、会場入りした鈴木先生と久しぶりに固い握手を交わしたお二人は久しぶりの談笑を楽しまれたようです。ニホンザルを舞台に上げての公演など当時は前代未聞のチャレンジだっただけに、曳舟文化センターとしてもどう受け入れるか悩まれたことでしょう。無名の周防猿まわしの会の公演は大丈夫か、そういう心配もされる中で、鈴木先生がバックにいることで強い絆が生まれ、公演への協力関係が深まった。

 第一幕で出演してくださる周防猿まわしの最後の継承者「重岡フジ子」、そして猿まわしの芸能を絶やさずつないでくださった先祖の皆様のあゆみを刻むためにこの芸術祭参加公演があると未熟な私にもふつふつと闘志が湧いてきた。会場に来られたお客様、審査員の皆様、凛々しい芸猿の立ち姿を観てください。無名だけれど身体に染みついた芸を保持する重岡フジ子の芸の深さ、そして軽妙であたたかい日本女性の芯の強さを存分に味わってください。

 午後、マスコミの取材陣も入る中でのゲネプロがおこなわれたが、チョロ松出演の場所は十分な稽古の成果もだせて台本通りの動きができた。あとはパートナーである私が良い緊張感を保ちつつチョロ松らしさを発揮させることができるか。

第三十三話 まもなく、舞台の幕が上がる

 背伸びした・・・・・。埋め尽くされた客席の熱気が出番を待つチョロ松と私にも伝わってくる。そしていよいよ、大道で育った芸能が「芸術祭」の大舞台に立つ。

 第一幕「重岡フジ子の世界」。芸猿大吉とフジ子は舞台に登場すると一瞬のうちに500名の観客の空気を掴んだ。そして観客の気持ちを自分たちのペースに引き込む。客に媚びることなく「ねんねん子守り」「月形半平太」といった重岡先生の古典芸が展開されていく。大吉は気性が激しく楽屋でもチョロ松たちとは一緒の部屋に出来ないほど負けん気が強かった。しかし、重岡先生の手にかかれば借りてきた猫だ。いや猿だ。そんな大吉が重岡先生の言葉と軽快な太鼓さばきでまったくタナも感じさせない見事な動きでお客さんを魅了していった。派手な芸に頼るのでなく基本的な動きだけで豊かで心温まるシーンが会場を魅了する。大吉の名演技もさることながら、重岡先生の迫力には圧倒される。袖に控えていたが出番が近づくにつれより緊張感が高まってくる。約20分の演目が5分ぐらいにしか感じられない素晴らしい大吉と重岡先生の舞台であった。

 出番がきた。第二幕「義経(創作舞台)」。数か月にわたり十分な稽古時間も作り納得の中で臨むだけにチョロ松の調子は良かったと思う。配役は源氏役である。平家役である役者さんと決闘の絡みのシーンはチョロ松らしさをもっともアピール出来る大事なシーンである。四人が横に並んで突き出している四本の矢の上を飛び越えていく。高さ70センチ、横幅2メートル以上はある四本の矢の上をチョロ松が美しく飛び越えていく。見事に決めてくれた。一緒に演じている私が惚れ惚れするぐらいチョロ松の芸は美しかった。翌年のアメリカ公演でメインの写真となりチラシに使われたほどである。
 続く祝宴のシーン。戦に勝って祝杯をあげている源氏役のチョロ松と勘平のかけあい。ここは役者さんとのかけあいが入るので上手くいくか不安ではあったがコントを得意とする勘平・Dさんコンビの絶妙なテンポでお客さんを笑いの渦にひきこんだ。
 ただし、創作的なこの第二幕全体の評価については、人間の芝居に近付けようとして、落ち入る間違いを含んでいたことを後々痛感させられた。歌舞伎仕立ての方向には、独創的な舞台は不可能である。猿の魅力を引き出すことはできないばかりか、この第二幕では猿が邪魔になってしまった。本末転倒である。芸術祭が終わっても実はこの視点の整理がつかないまま、アメリカ公演までこの演目を続けた。周防猿まわしの会が越えるべき課題であり、矛盾の刃が一層凝縮して私に突き付けられることとなる。お猿さんが輝く舞台の楽しさが失われた悔しさを私も周防猿まわしの会も経験することとなる。

 第三幕は「周防猿まわしの会十八番芸」である。鍛え抜かれたお猿さんの大技が会場の重い空気を開放し興奮を呼ぶ。その一、輪抜け、直径30センチの輪を芸猿じゅんが軽快に飛び抜ける。一つの輪、そして二つの輪を縦に並べて「鯉の滝登り」、そして目いっぱい、横に広げた「うぐいすの谷渡り」と成功していった。続いて、「八艘飛び」はチョロ松の出番である。離れた階段から階段をより広く、高く飛び移り逆立ちする。一度跳んだら逆立ちのまま最後の静止までやめない。チョロ松の高鳴る呼吸が静かな会場に伝わる。階段間の広さは3メートル50センチ。さらに階段の高さは通常の二倍もあったが、チョロ松は稽古通りに決めてくれた。締め括りは「竹馬高乗り」、芸猿勘平が、足下3メートル、全長は勘平の身長の約5倍の高さもある竹馬に登る。緊張すれば失敗がありうる難しい芸だけれど一発で決め、客席の雰囲気は最高潮に盛り上がった。

 第四幕はエンディング。芸猿次郎が周防猿まわしの会の復活の思いを回想的に描いた無言劇を披露した。会場に静かな感動の波紋が広がっていった。

 芸術祭を振り返るとき、忘れられないのは第七話でお話しした藤井信師匠。和楽器を駆使して舞台の格調を高めるお手伝いをいただいた。今は大学教授の要職にあるが、その当時は若き民俗学の研究者であった田口洋美先生にはマスコミをはじめ様々舞い込んでくる問い合わせを捌いていただいた。阿蘇猿まわし劇場の久保さんには慣れないプロデューサー役を担っていただき、全体の調整役として忍耐のいる役割で芸術祭を無事終わるまで導いてくださった。演出家グループの一員として「しっかり稽古時間を持つことが大事だ!主役のお猿さん目線の台本、演出が大事!」と口酸っぱくアドバイスしてくれた古川さんの助言がありお猿さんも気持ちよく舞台にたてた。

 審査員の先生方による満場一致で「芸術祭賞」を受賞するという名誉にも輝いくことができたのも、まさに支援くださったお客様と舞台を支えてくださったたくさんの方々がいたからこそ。今でも感謝の気持ちを持ち続けています。

 「芸術祭」最後のカーテンコール・・・・・。
 ここまで支えてくれたたくさんの方たちがお祝いに駆けつけてくれた。中でも一番記憶に残っているのは俊(トシ)ちゃん。高校時代の先輩兼友人である。当時毎日のように通っていた都内高円寺のモナミという店は矢沢永吉のファンが集まる。そこのマネージャーをやっていたのが俊ちゃんだ。俊ちゃんと店主の阿部ちゃん(私はマスターと呼んでいた)には当時たくさんの迷惑をかけたにもかかわらず、いつも応援してくれ、そして何より不器用な村崎五郎を良い意味で壊して芸人らしく鍛えてくれた二人だった。そんな俊ちゃんとマスターがカーテンコールの時にバナナとバーボンを両手に抱えて舞台にあがってきて「おめでとう!」って渡してくれたことは本当に嬉しかったこと今でも忘れられない。

第三十四話 シマヤ「めんつゆ」CMに出演

 芸術祭という舞台を終えて一息つく間もなくチョロ松と私には大きな目標があった。都内で開かれるお祭りに三日間連続で出演する。このお祭りは延べ20万人もの人出があるということであったが、出演料はなく、投げ銭(芸をみせてお客様からご祝儀を投げていただく)がギャラになる。当時乗りに乗っていた私の闘志に火がつき大道での記録更新を狙うつもりで出演した。毎回黒山の人だかり、嵐のような祭りだった。そしてこの時の記録は20年経った今でも破られていない
 日本はバブル時代の絶頂期であり勢いよく仕事が舞い込んでくる。1992年、チョロ松ジュニアに初のCMが決まった。周防猿まわしの会と同じく山口県に本社のある「シマヤ」からの出演依頼だった。夏向け商品である「めんつゆ」のCMである。私も子供の頃から「そうめんを食べるならシマヤのめんつゆじゃろ!」と思って食べたくらい馴染みのある商品だったので本当にうれしかった。しかも、当時、NHK朝の連ドラで脚光を浴びている女優羽田美智子さんとの共演である。
 織田信長扮する羽田美智子のもとへ木下藤吉郎扮したチョロ松が「つゆ」を届けるというシチュエーション。羽田美智子さんの「サル、つゆをもて」という台詞を受けてチョロ松がコミカルな動きで「つゆ」を届ける。撮影は京都の太秦映画村にて行われた。ただ今回は、共演者の羽田美智子さんが動物アレルギーということで事前にリハーサルすることが出来ず、ぶっつけ本番での撮影になった。それとチョロ松が縦横無尽に動きまわるのでタナ(猿をつないでいる紐のこと)の処理が難しく、タナがどうしても目立ってしまうのでかなり頑丈な釣糸を使用することになった。が、この釣糸も照明に反射してしまう。結局、撮影でよく使うピアノ線に行きついた。プロデューサーや映像担当者はかなり苦労すると覚悟していたようだが収録は順調に進み当初二日間予定のところわずか一日、しかも5時間で終了した。直後ビデオを見せてもらった。チョロ松ジュニアの軽妙でかわいい、小猿当時でしかだせない味がふんだんに盛り込まれた内容だったので初代チョロ松のCMに負けないくらいの反響を期待したが、夏限定のCMであり、放映は西日本に限られていた。しかし、故郷山口県を代表する商品のCMに出演させてもらい本当に感謝している。
 そして7月には池袋サンシャイン劇場にて芸術祭賞受賞記念公演、8月から9月にはアメリカ公演を行うこととなり、休む間もなく勢いに乗ってスケジュールをこなしていく。実はこの時、大きな落とし穴が待ち構えていた。猿まわしとは何か、自分の力はどれほどのものか自覚せざるおえないほどの挫折をあじあわされることになる。

第三十五話  まな板にのせられた「Dさん」

 1992年6月下旬、チョロ松と私は埼玉県川口市内の川口文化ホールにいた。9月に控えたアメリカ公演で上演する舞台をつくり池袋サンシャイン劇場で披露する。タイトルは「スーパー猿芸」、その最終的な稽古をしていた。公演は芸術祭賞をいただいた勢いで気負わず臨めば何の問題もなかった気がするが川口での稽古は何か重々しい不穏な空気に包まれていた。

 それもそのはずで、公演を翌週に控えているにも関わらず演出グループから台本の内容が次々と変更されていくのである。初の海外公演であり、アメリカで猿まわしを楽しんでいただくには試行錯誤は当然あるけれど、芸術祭賞を受賞したとたんに何を勘違いしたのか本来、猿まわしの舞台として進むべき方向性とは違う方向へ向かい始めた。アメリカ公演には重岡フジ子先生は出演されない。第二幕「義経」物語の主演は芸猿次郎とT氏。芸術祭でも課題となったあの第二幕が公演のメインになり、それを演出グループのリーダーであったT氏の意向で台本が変わっていく。不安感は私たち出演者のみならず客演する役者さんたちにも伝わり不満が続出した。そんなとき追い打ちをかけるように驚くような発言が伝えられた。「台本を変更します。源氏と平家の戦いのシーンでダンスをとりいれたので今日、明日と稽古をしてもらいたい」。当然、出演者・スタッフの反応は「誰が・・・?」というのは言うまでもないが。ダンスの稽古をするのは芸人である私とDさん、そしてまったく意味が分からなかったが客演で殺陣(たて)を演じてくださる澤村剣友会の皆さんにもダンスの稽古が求められた。その後、演出サイドからはプロのダンスの先生が指導に来られるとの説明があっただけで、「なぜこの公演にダンスが必要になったのか」という台本変更の意図すら説明がないうえに、T氏はその後のダンスの稽古に立ち会うことすらなかった。その時は誰も状況を理解することができずその場の勢いだけで何となく稽古が始まった。ただダンス稽古が進むにつれ先生の稽古もヒートアップして求めることが厳しくなっていく。熱心に指導してもらっているにもかかわらず私は「所詮素人なんだし、しかもダンス未経験の俺たちに2、3日で覚えるというのには無理がある。結局のところ自分のやるべきことは主役であるチョロ松がきっちり調整できていい舞台をやってくれればいいんじゃないの」ぐらいの冷めた気持ちでダンスの稽古に向かっていたので、真剣にダンスが上手になってほしいと稽古をつけてくださった先生との温度差が広がり、上達することもなく、当時を振り返ると先生には本当に申し訳ないと思っている。

 そして芸術祭、池袋サンシャイン劇場公演、アメリカ公演と常に一緒に歩んだ芸人Dさんは本当に苦しんでいたと思う。T氏は舞台全体の台本制作、演出と、主演コンビで演出グループのトップであるにもかかわらず、相方の次郎の日常の世話さえも私や人にまかせっきりで、テレビ等の取材が入れば、一緒に食事したり、風呂に入ったり、その時ばかりはいかにもいつも次郎の世話をしている印象を与えようとした。Dさんは集中的にまな板にのせられて理不尽に指導される。演出しないといけないからとT氏がすべき主演の演技稽古の代役はDさんに振られ、上手くないからと指導される。お猿さん主役の舞台でなければいけないものが稽古の段階からお猿さんが必要になっていないし、そんな台本・演出に対してDさんは苛立ちをこらえていた。しかしT氏に意見する考えや言葉も持てず、ただ言われたことだけをやっていくことしかできなかったその歯がゆさを近くで目撃し理解していたのだが私はフォローすらしてあげることができなかった。

 このエッセイは私の相棒である芸猿チョロ松を中心にした物語であるべきなのだが、池袋サンシャイン劇場公演の内容やこの当時のチョロ松のことを思い出せない。なぜならお猿さんが必要でない「スーパー猿芸」を当時の周防猿まわしの会は許してしまったからだ。T氏の夢の先に周防猿まわしの会の発展を願ったが誤っていた。お客様が観たいのはお猿さんが主役の芸である。その目線から逸脱した路線に未来はない。その証拠に、歌舞伎風の猿まわしやそもそも「スーパー猿芸」など当時目指した公演内容は評価されることなく消えていってしまったままである。出演者だけでなくスタッフを大事にしたと評判の中村勘三郎さんのドキュメントを拝見すると、舞台関係者にどれほど敬意を表していたかがわかる。語り草になり、惜しまれる舞台や俳優さん達が育っていく過程をみるたびに、当時の周防猿まわしの会の未熟さが浮き彫りになる。お猿さんを主役にできない、出演者に説明もない、客演者から不満続出、そしてダンスの先生への失礼、演出家は稽古に参加しないなど、思い出すたび恥ずかしい状況であった。良い舞台ができるはずがない。舞台は総合芸術であり、舞台の評価はそれに携わった皆さんへのお客様からのご褒美である。強いて言うならば、T氏は周防猿まわしの会の未来も自分の夢も必死に追い求めていたに違いないが、全体を統括する父義正がいなくなり、T氏にアドバイスしたり意見したりする存在が未熟であったためT氏の独走に頼らねばならない状況で大きな企画をどんどん推し進めていったことだ。しかし、その廻り道も猿まわしの芸を確立していくために通らなければならない試練だったと思う。

 池袋サンシャイン劇場からアメリカ公演終了まで、Dさんも私も叫びたいほどの苦い思いから解放されることはなかった。そればかりか、自分にとって大事にしていたチョロ松のプライドを笑いものにされる事態が起こった。

第三十六話 「Goro! ここは日本じゃない。」

 NCA(日本カーゴエアーライン)はアメリカJFK空港に向かって日本を旅立った。機内の私は矢沢永吉の曲を大音量で聞きながら私のバイブルとも言える矢沢永吉の「成りあがり」を読み直していた。中学一年生の時に矢沢永吉の音楽に出会ってからは辛い時も苦しい時も必ず矢沢永吉の音楽に救われた。矢沢永吉はたくさんの名言をファンに残してきた。アメリカ公演に向けても教えてくれた言葉がある。「人は一瞬のハッピーでまた走ることができる。」芸術祭、池袋サンシャイン公演、そしてアメリカ公演と続く中でこの言葉にどれほど励まされたか。そして矢沢永吉も挑戦したアメリカに日本の伝統芸能として一路ニューヨークへ向かった。

 今回は貨物便でのフライトのためアンカレッジを経由して17時間に及ぶ長旅である。チョロ松達も慣れない飛行機の移動で食事や飲料の不足等の不安もあったが、1時間おきにチョロ松達が預けられている機体下腹部の貨物室に行くことが許されていて状況が確認できたためより安心なフライトになった。アラスカ側から縦断してのフライトと聞いていて壮大なアメリカ大陸の景色もひとつの楽しみであった。夜明けが始まって4、5時間近くは真っ白な雪景色だけが続きがっかりしていたが、五大湖が見えた時にはじめてアメリカに来たんだという感動、絶対にアメリカ公演を成功させなければと思い緊張感がわいてきた。

 長時間のフライトにもかかわらずチョロ松達は疲れもなく元気であった。到着してすぐにニューヨーク滞在の拠点となるハリソン(マンハッタンから車で約40分)に向かった。ハリソ ンという地域は別荘が立ち並ぶ地域で、滞在する家もこの地域の中学校の校長を務めているジョンさんという方の別荘をお借りした。ジョンさんが私たちの到着を迎えてくださり、挨拶がわりにチョロ松の芸を披露した。とても喜ばれ、滞在中も一緒にバーベキューをしたりして周防猿まわしの会のアメリカ公演を心から歓迎して下さった。

 アメリカ滞在中は二人のボディガードと通訳が常に同行していた。ひとりは、アーノルドシュワルツェネッガーの専属のボディガードを務めていた。トレーニングは歯磨きのようなものだと自慢気に言っていたが、見かけのおっかなさとは違い、ランチのフルーツをチョロ松にと心優しい一面もあった。もうひとりは、現役のニューヨーク市警の無口なポリスマンで一切干渉しない、身長も2メートル近くはあったが、正反対の二人のボディガード、本当に心強かった。そして通訳兼ガイドとしてアメリカ公演の最後までチョロ松と私に付き合ってくれたプラッツアー。サンディエゴ大学の講師を務めていたが、大柄でうっすら無精髭をのばしていて、ハリウッド映画に出てきそうな体格はスティーブンセガール、性格はジャンレノ?(ちょっと良く言い過ぎたかもしれません)。見かけはさておき、プラッツアーはニューヨークを代表するダイヤモンド商の御曹子で、そんなそぶりも見せないプラッツアーは格好よかった。いつも私が日本流儀で行動するので怒っていた。スパゲッティを音をたてて食べると「Goro! ここは日本じゃない。」ハイウェイでちょっと制限速度を超えると「Goro! ここは日本じゃない。アメリカはヘリコプターで追っかけてくる!」、二言目には「Goro! ここは日本じゃない。」が口癖で、滞在中100回は言われたかなと思う。

 このハリソンを拠点にリンカーンセンターの公演まで稽古を進めながら、宣伝活動に出かけ、アメリカの環境に慣れるため色んなところへチョロ松と足を運んだ。マンハッタンの養老院に行った時は、30名ぐらいのおじいちゃんおばあちゃんにパフォーマンスを見せたのだが、ほとんどの方が寝たきりの方で、おまけに私の英語が下手過ぎてまったく反応もないので喜んでもらえたかなと心配していると、いつも私には辛口で怒ってばかりのプラッツアーが「Goro!みんな涙ぐんで喜んでいたよ。」と言われて本当に嬉しかった。少年院にも足を運んだ。いざ舞台に出たらステージと子どもたちの間に鉄格子が張られていてちょっと残念な気持ちもあったが、子どもたちはチョロ松の芸に大フィーバーして喜びを表現してくれて本当にいい経験が出来た。
 セントラルパークのシープメドウにてパフォーマンスをした。シープメドウは、あのビートルズが野外コンサートを行って以来、一切許可がでなかったことで有名である。そういう特別な場所であったが周防猿まわしの会のパフォーマンスに許可がでた。マンハッタンをバックによく映画で見かけるセントラルパークの素晴らしいロケーションで500人以上のニューヨークのみなさんが集まり周防猿まわしの会のパフォーマンスを楽しんでもらった。その時、今だに忘れられないシーンがある。勘平・Dコンビが周防猿まわしの会の古典的な演目を演じたワンシーン、勘平のお父さんが猟師に撃たれて亡くなるというくだりがあり、Dさんが慣れない英語で「Kanpei’s father died!」と、そこにいたアメリカ人のほとんどが顔を覆いながら「OH!・・・・NO!・・・・」と反応したときにアメリカ人の豊かな表現力は当然のことながらDさんのことばを越えてつながる才能に舌を巻いた。

第三十七話 ニューヨークからボストンへ

 総勢40名の全スタッフがニューヨークへ集結した。周防猿まわしの会アメリカ公演の目玉となるリンカーンセンター公演が目前に控えていた。マンハッタンにあるスタジオを借りて段取り稽古がおこなわれたが、チョロ松は早めにニューヨークへ来たので十分な調整ができ調子よかった。ただ、私は昼食がほぼ毎日ハンバーガーだったおかげで、アメリカ公演以降20年近くハンバーガーが食べられなくなった。

 そして公演当日、リンカーンセンターでのゲネプロ後に演出家グループからまたもや台本変更が伝えられた。共演する忍者役の方が顔を出していると忍者とイメージしにくいので顔全体を隠すことになった。私はすぐさま「これはまずい」と思い演出家に「顔が隠れているとチョロ松が怖がってしまうのでチョロ松が本番で確実に演技出来るようになるための稽古時間を作ってほしい」と申し出た。実は今までの芸術祭、池袋サンシャインでの舞台の時も共演者が顔を隠すとチョロ松が怖がりどうしてもうまくいかないということで変更させてもらっている経緯があった。しかし今回は聞き入れてもらえない上に演出家からはさらに驚きの発言が飛び出した。「今はそのためだけの時間はないから自分たちで相談して練習をやってくれ」、しかも「本番前で舞台上は他の段取りで使用できないから空いているスペースでやってくれ」と言われたのだ。共演者の方にお願いして稽古に付き合っていただいたもの本番とまったく同じステージで台本通りの稽古をしなければ何の意味もない。結局は納得のいく稽古も出来ず不安を抱えたまま本番を迎えることになった。

 覚悟を決めてチョロ松といざ舞台へ。しかし舞台に出た瞬間、拭いきれなかった不安は的中した。下手(しもて、客席から見て舞台の左側)より忍者が登場するやいなやチョロ松は驚いて上手(かみて、舞台の右側)袖に逃げてしまった。想定していた展開ではあったがチョロ松は舞台に戻ろうとすらしない。「チョロ松、頼むから何とか頑張ってくれ。俺たちコンビの不甲斐なさでアメリカ公演を台無しにするわけにはいかないんだ」という願いも届くことなく、ただ舞台と袖をチョロ松は逃げまわった。「最悪だ…」と私の気持ちも切れかけていたその時客席から大歓声が沸き起こった。観客の反応は私の思いとは正反対で大爆笑の渦に包まれた。お客様にはチョロ松の逃げまわる姿が芸に見えたのかわからないが、怖がって忍者から逃げまわるというハプニングが奇跡を起こしてくれたのだ。緊張続きの舞台が和やかになり結果としてこのシーンで客席の心を掴むことができたと後々関係者から聞いた。このチャンスを活かさなければという思いで気持ちを切り替え残りの出番に集中しチョロ松と私は平静心を取り戻すことができた。意外にも長く重いリンカーンセンターの公演はあっさりと終わった。公演が終わると演出家グループ、出演者、スタッフは如何にも公演が成功したかのように皆一様にハイタッチを交わし握手したりする光景をみたとき本当に信じられなかった。はっきり言って私の気持ちは白けきっていた。みんなの喜びようが私にはまったく意味がわからなかった。「アメリカまで来て恥ずかしくないのか。チョロ松は道具じゃない。こんなお猿さんが輝かない舞台をやって情けない。」と叫びたかったぐらいだった。その後私は誰と会話することもなく打ち上げにも参加せずホテルに戻った。

 数時間経っただろうか心配して古川顧問が部屋を尋ねてきた。「五郎、お疲れ様。何か私で聞けることであれば一杯飲みながら話しでもしようか」と誘われ、ようやく緊張感から解放され溜めていた思いが爆発した。「私の目指す猿まわしはお猿さんたちが主役でありお猿さんたちを輝かせたいのです。人間が主役の舞台で添え物のような役割を演じさせられて、おまけに未熟な人間の芸で喜んでいただけていない。このニューヨーク公演で私はチョロ松に恥をかかさせてしまった。今後もこの考え方が変わらないのであれば周防猿まわしの会に私の居場所はないのです。」古川顧問はひたすら聞き役に徹し黙って私の話に耳を傾けてくれた。そして「五郎、お前の目指す猿まわしの舞台作り、私で協力できることであれば手伝う。明日から始まる後半のアメリカ東海岸の旅に付き合うよ。」と言ってくださった。当時からわがままな私に古川顧問は真摯に付き合い受け止めてくださっていたことで支えられ救われてきた。あわや、苦いアメリカ公演に終わってしまう危機に直面したが、逆に自分の歩んでいくべき猿まわしの道がおぼろげながら見えてきた。猿まわしを取り囲み見物する人垣を「輪の中は童話の国」と例え猿まわしの魅力を楽しそうに語っていた父義正の姿が私の中から離れない。「お猿さんが主役の猿まわしでいいんだよ!」と響いてきた。

 翌日、プラッツアー、マネージャーG氏、古川顧問と私は、新たな出会いを求めてチョロ松と共にボストンに向け出発した。

第三十八話 日本から来た不届きもの

 チョロ松と私は東海岸のツアーに出発した。マンハッタンからフリーウェイにのってボストンへ向かう。出発して早々制限速度60マイルのところを80マイル近くで走っているとプラッツアーは一言、「Goro!ここは日本じゃない」とクギを刺すことを忘れない。だが、すべてが楽しい旅のはじまりであった。

 最初に訪れたのはハーバード大学である。公演は三日後であったが、本来はハーバード大学の教授しか宿泊することの出来ない大学の敷地内にあるホテルに数日間滞在させてもらいボストン市内を満喫させてもらった。学内は自由に行動してOKだということでチョロ松と散歩し、学生に出会った時には軽くパフォーマンスを見せ、学食でチョロ松と食事し、猿まわしという仕事をしていなければできない経験ができた。ボストン新聞の取材をうけた際には大ハプニングがおきた。ハーバード大学の創設者ジョーン・ハーバードの銅像の前で記念撮影した際、チョロ松が何を思ったかジョーン・ハーバードの銅像に登ったうえにまたがってしまい、その写真が翌日のボストン新聞の一面にデカデカと表紙をかざった。タイトルは「日本から来た不届きもの」(プラッツアー訳)であった。というのも、学生はジョーン・ハーバードに触れることすら許されないらしい。
 このボストンに来たらどうしても訪れたいところがあった。そのコモンスクエアはボストンで唯一ストリートパフォーマンスができる場所だ。パフォーマンスをすることともうひとつ目的があったがどうしても再会したい人がいた。1988年8月、吉本興業のナンバグランド花月に出演した際に、アメリカからストリートパフォーマーが出演していた。彼の名前はアンソニーガト、当時10歳。前年のジャグラー全米選手権で優勝し、ナンバグランド花月の出演依頼がきたらしい。10歳でありながら、トレーニングは毎日5時間以上すると聞いた。全米チャンピオンとはいえトレーニングを怠ると来年は負けてしまうぐらいアメリカのジャグラー界は競争が激しく、チャンピオンから降格するとたちまち仕事がなくなる。朝のトレーニングが終わると500グラムもあるステーキを毎日食べているという話にも驚いたが…。出演中の11日間、アンソニーガトと親交を深め、アメリカに行く機会があったら必ずボストンに行くと伝えていた。ウィークデーにはコモンスクエアでやっていると聞いていたので探してみたが結局再会は叶わなかった。猿まわしをしようと準備していたら、ガードマンらしき人間が近寄ってきて、ここではパフォーマンスは勝手に出来ない上にこのコモンスクエアで許可を得るためには2年はかかるという旨を伝えられやむなくあきらめた。
 ハーバード大学での公演の日を迎えた。舞台のある特別教室に案内され、教授や大学の幹部、一部留学生総勢50名を対象にした公演であったたため、私は意識して硬くなってしまった。それでも、芸を終えるとスタンディングオーベーションで迎えられ大絶賛を受けた。その後は記念撮影を求められ、また質問攻めにあい公演時間より長くその場にいて楽しい交流となった。その中に、この人どこかで見たことがあるなと見覚えのある方がいて、よく見たら日本でも有名なキャスターだった。

 ハーバード大学を後にして、東海岸ツアーのもうひとつの目的であったケープコッドに向かった。腕を曲げて大西洋に突き出したような形をしており、アメリカ人が憧れるリゾート地としても有名な島である。「ガープの世界」という洋画のシーンの中で出てきた島が美しく、もし行く機会があれば行ってみたいと思っていた。そのケープコッドの中でもフェリーに乗らないと行けないナンタケット島に行きたかったのだがそこで一悶着あった。今までフェリーに黄色人種を乗せた例がないので乗せることは無理だと言われた。あきらめかけた時突然プラッツアーはバッグから先日チョロ松が一面を飾ったボストン新聞を取り出し、「この記事を見てみろ!彼らは先日ハーバード大学に招待された日本のVIPなんだ」。その記事を読んだ船長から乗船の許可がでた。起死回生のプラッツアーの行動には本当に感謝した。チョロ松と乗船すると60代70代ぐらいの白人夫婦がたくさん乗っていて、チョロ松もだが私のことがかわいいということで皆さんからハグして歓迎され、オーバーに言っていると思われるかもしれないが、おばあちゃん達からキッスの嵐だった。古川顧問から「五郎、船から降りたら波止場でパフォーマンスを見せてあげなさい」と言われ、船着き場で太鼓を叩いた。サプライズの猿まわしで喜んでもらい、まさか実現するとは夢にも思っていなかったケープコッド訪問が実現したので本当に幸せだった。

 最後に訪れたのはブラウン大学の学園祭である。このアメリカ公演にご尽力いただいた方の娘さんが在学していて、学校に声をかけてくださり出演に至った。到着した時には何百人もの学生が迎えてくれチョロ松のパフォーマンスも大変盛り上がったのだが、終わった直後二人の女性が私に向かって流暢な英語で話しかけてきた。最初は冷静なテンションで話していたが、私は何を言われているのかまったくわかってなかったため素っ気ない態度と思われたのか急にまくしたてられた。これは怒っているなと思いプラッツアーを呼んで通訳してもらうと、その女性は「このお猿さんは洋服を着るために生まれてきたのではない。その衣装を脱がして・・・」とのこと。パフォーマンスをするお猿さんだから衣装を着せないとおかしいでしょうと説明したがその学生の理屈だけで話してくるため、このままだとお互い歩み寄れず堂々巡りになってしまうと思い私が最後に質問した。「では、あなたはなぜ生まれてきたのか」。しかし私からの質問には一切答えることなく私にまた質問してきた。「あなたはなぜ生まれたきたの」と私に質問してきたので私は「彼(チョロ松)と出会うために必然的に生まれてきた」と答えると「相手にしていられないわ」という感じで二人の女性は呆れて去って行った。間に入って通訳してくれたプラッツアーから「Goro! いい受け答えだったよ。」と言ってもらったがさすがに、否定から入る議論は平行線をたどるだけなので残念だったがこのような強烈な意見があることもわかった。

 アメリカを後にする。今までにない挫折が、新しい課題を教えてくれたアメリカ公演だけれど、豊かなアメリカ文化に触れ夢のような時間を過ごすことができた。往くときはYAZAWAがアメリカに挑戦した時と同じような気持ちで勘違いして行ったが、帰りはエリック・クラプトンを聞きながらアメリカナイズされていた。日本に残って猿まわし劇場を支え、公演を見守ってくれた仲間が待つ日本に戻る。

第三十九話 ライバル現る!

 1992年、年の瀬。日本経済のバブルはすでに崩壊し、日本国内も国民も混沌としていたが、その中にあっても周防猿まわしの会の勢いは持続しバブル絶頂期が続いていた。間もなく迎える年は十二年に一度の申年。更なる飛躍のチャンスを掴まなければいけないという思いが強く自信に満ちた前途を信じて疑わなかった。当時、猿まわしと言えば「周防猿まわしの会」であるという世間の認識もまもなく変化を迎える最後の段階であったことなど後になって気づいた。それまでは独占状態であったので奢りがあり安住もしていた。黙っていても年末年始の特番の出演依頼も殺到し、順調に番組の収録も進んでいた。大晦日には夕方から年越しの6時間以上にわたるカウントダウンの生番組の出演も決まっていてそんな浮ついた私たちは、猿を使ったパフォーマンスで新時代を切り開く集団がいたことなど知る由もなかった。

 新年を迎え、私たちが出演していた裏番組で某集団がマスコミを席巻していた。私も噂には聞いていたが実際目のあたりにして驚いた。お猿の学校という斬新なコンセプトで世間の注目を集め、評価はその視聴率にも反映し、その存在は瞬く間に日本全国に広がっていった。「たがが猿がたくさんいるだけで、所詮、猿を使う業界の一発屋だろうからそんなに長くは続くわけがない」くらいにタガをくぐっていた。ところがお猿の学校はバブル崩壊の暗い世相の中で、日本中に明るさとお猿さんの生み出す自然な笑いを提供し一瞬にして国民のハートをがっちり掴み、その裏であぐらをかいてきた「周防猿まわしの会」は業界トップという地位から陥落した。日本に猿まわしが復活して十数年間、独占企業でやってきた「周防猿まわしの会」の一時代は一瞬にして終わった。その時の虚しさ、そして国民から忘れられていく残酷さ、悔しさは今も鮮明に私の心に残っている。先代村崎義正が命を削ってまで復活させた功績でさえ、瞬く間にかっさらって行ったのだから‥。

 ところで、今でも某集団が披露したお猿の学校、つまり同時に多数のお猿さんが同じ舞台に平和的に立つことが可能か、謎が解けないでいる。野生の猿達は群れや縦社会の習性があり、複数の猿達が同時に同じ舞台に争いなく存在し、芸を見せることは不可能に近い。それは周防猿まわしの会の認識であるので、ただしくいうと不可能とは言い難い。なぜなら、実際に多数の猿達が一緒に舞台に上がっていることは間違いないからである。どうしてそれが可能なのか。我々にはただただ不思議である。

 こうして老舗の我々の前に強力なライバルである同業他社が登場した。周防猿まわしの会の影響力や活躍にヒントを得て、新しい集団や個人がこの業界に参入することは自然なことである。その後、周防猿まわしの会を退職した調教師が習得したノウハウを勝手に利用して開業することも頻繁に発生し、一時は日本に100以上の個人・集団が猿を使った芸能を行う、過当競争の時期が到来した。

 ライバルなくして芸能のレベルアップはない。切磋琢磨してこそが望ましい。我々はそれを受け入れるしそうなって本当に良かったと思っている。お客様が選択できるサービスが様々存在することは悪いことではない。ただ、我々は何者であり何を必要とされてこの仕事を続けているのかお客様目線で試行錯誤をすることにした。

 悩んでいる暇はない。よくよく考えるべきであるがくよくよしない。村崎家の姿勢として立ち止まって考えることはしない。行動を起こし、身体を動かしながら、頭の回転をあげ、ふと気づいたことを周囲に相談し経験を積み重ねていく。動くと新しい視界が広がってくるものである。こうして大ピンチにも、胸の動揺は奥にしまい、動き始めた。同業他社が乱立する時代の中で周防猿まわしの会の存在意義を我々自身が探らなければならない。

 チョロ松物語はようやく半分に差し掛かかりました。この三十九話の当時、私は27歳の世間知らず、破天荒まっしぐらの生き方をしていた。現在、48歳を直前に控え、相変わらず世間知らずの自由奔放な私と相方チョロ松ですが、20年間続いた周防猿まわしの会の長いトンネル時代を厳しかったこと、楽しかったこと今まで通り嘘偽りなく今後も書いていきます。

第四十話 2つのプロジェクトがはじまる

 アメリカ東海岸のツアーをした際に私は古川顧問にこんな夢を語っていた。「チョロ松とは日本全国47都道府県のほとんどを訪れたが猿まわしの芸を生で見た人はまだほんの一握りにすぎないと思う。実際にチョロ松を呼ぶとなると費用もかかるのでこちらから出向きもっと沢山の方々にチョロ松の芸を見ていただくための全国ツアーを次の目標にしたい。」古川顧問からは「そのためには自分達で一座を組んで地方公演を経験しながら猿まわしの芸も育てなければならい。それを実現する一座を組むことで猿まわしの芸を育てていくことができる。」と心強いアドバイスをいただいた。一座を運営する座長は責任が求められるし、また、一座としての独自の演目も考案し披露できるからだ。自前の劇場を持った我々が日々の公演を続けていくことで消耗やマンネリに陥ることは必然。そこから開放され初心や新鮮さを保つための方策が必要だった。非日常の興行が人材や芸を育てるというのが古川顧問の持論だ。

 思いたったらブレーキがかからない私は帰国後、「チョロ松全国100ヶ所ツアー」をやってみたいと会社に提案した。すると古川顧問から「北海道だけでも最低1ヶ月は必要だよ。それもほんの一部しかまわることは出来ないだろう。だから、まずは北海道ツアーを計画してみたらどうだろうか。」そして、提案にとどまらず、足がかりとして函館の知人を紹介していただいた。こんな『Going my way』の直感だけで突き進む私の望みを常に冷静に受け止め、誤解がないよう皆さんの同意を得られるレベルの企画に底上げしてくださる。こうして、私が座長を務める北海道公演に向けての計画が進むことになった。

 さらに周防猿まわしの会としても次なるプロジェクトが動きだしていた。

 阿蘇まわし劇場がオープンして間もない頃、父義正はその成功を足場に次なる劇場を全国各地に展開したいと野望を語っていた。まずは大好きだった沖縄、そして猿まわしのファンの多い滋賀県は琵琶湖湖畔の近江八幡、ニホンザルが生息しない北海道。そして、なんといっても日本の誇りである富士山。夢は全国各地の子どもたちのために猿まわし劇場を建設することだった。その夢は後継者である私達が引き継ぐことになった訳であるが。熊本県阿蘇地方に劇場を構えて5年目、九州で力をつけさせてもらい、いよいよ新たな地へ進出する時期だと判断し候補地探しに動き出した。
 我々のターゲットは中京圏か関東地方か揺れ動いた。候補地を視察し始めたばかりの頃、私と長兄は湖面越しに富士山が裾野からそびえたつ河口湖の湖畔に立っていた。雄大かつ見事な富士山、そして逆さ富士が河口湖の湖面に浮かび上がっている。こんな場所が残っていたことに驚いた。お昼には古風な造りで雰囲気のある店舗で地元特産の「ほうとう」を、案内してくださった「藤二誠」の清水専務にご馳走していただいた。この地を皮切りに関東地方行脚を一年に渡って行うこととなった。小田原の一夜城、伊豆高原、伊東、御殿場、山中湖など、人の紹介や勧めで積極的に視察を繰り返した。
 数ある候補地が実現不可能になる中、我々は最初に出会った河口湖畔に向かうこととなる。いや、富士山が我々を引き寄せたといった方が正しい。

 2013年6月22日、カンボジアの首都プノンペンで開かれた世界遺産委員会で富士山が世界文化遺産に登録された。同日午後4時半過ぎに始まった審議は異例の長い審議を経て、当初除外対象と諮問された静岡県の三保松原を含めた形で世界文化遺産として登録することが決まった。富士山という自然の造形美が育んできた信仰、芸術、文化、地域社会、計り知れない豊かさが世界から高い評価をいただいた結果だと考える。

 富士山を擁する河口湖猿まわし劇場のある富士五湖、富士河口湖町、そして河口地区でも世界文化遺産登録決定の知らせに喜びを爆発させた。構成資産のひとつである「河口浅間神社」で披露された「稚児の舞」、そしてお祝いの提灯行列、フィナーレにはこれまた構成資産である「河口湖」を大花火が彩った。

 そして、これに先立つ2013年5月には阿蘇猿まわし劇場のある熊本県の阿蘇山を中心とする周辺地域が世界農業遺産に登録された。熊本県の阿蘇山、山梨県の富士山と河口湖、両劇場のある地域が世界に認められる遺産に登録されたことは本当に嬉しく、阿蘇地域においては昨年7月12日の大水害から復興していく途上での明るい話題になり勇気を与えている。

 そして、富士山は世界文化遺産に登録されたことで、さらに世界の人々をひきつけていくことになるだろう。

第四十一話 函館公演実行委員会

 北海道ツアー実現に向けて始動する。ただ純粋に全国各地のファンの方に猿まわしを見てもらいたいと考えて提案したわがままな企画が通リいろんな方を巻き込むことになる。元来、猿まわしは自分で望んだ仕事ではなく、父から勧められたもの、周防猿まわしの会内部での自分の立ち位置も微妙だった。村崎五郎にとって猿まわしとは何か、共に苦労してくれるチョロ松や仲間たちとの関わりに感謝することを含めて、前向きに捉えるためにこの北海道ツアーがあったのではないか。遠回りしながら自分を発見する旅の一つがこの公演だった。結果として沢山の方のご協力をいただき、猿まわしを間近でみる機会の少ない北海道の皆さんと交流できたこと、今回はその奮闘記です。


 北海道とのパイプ役を努めていただいたのは、古川顧問の大学時代の友人で食品加工業などを営む函館の実業家清水社長である。チョロ松・五郎函館公演実行委員会を発足するために奔走し実行委員長役も快諾いただいた。実行委員会のメンバーには清水社長が函館市の地域振興のために日頃から共に動かれている有志をたくさん紹介いただいた。函館の地元ラジオのパーソナリティ、函館市のスポーツ振興財団の理事、ロシア料理のレストランを経営者、金森ホールの館長を務めている浅見氏など多方面の方達が賛同して実行委員を務めていただくことになった。公演場所は函館港に隣接する昔ながらのレンガ倉庫をそのままに活かした金森ホール。約200名のキャパシティは猿まわしの箱としては理想であったので即決で決まり、日程も8月上旬の木曜日?日曜日の四日間、一日5回
(11時、13時、15時、17時、19時)の40分公演を行うことに決まった。そして公演の成否を握る一番大切なチケット販売は一回の目標を最低150名と設定して計20回公演で総入場者数3000名を目指した。当時の周防猿まわしの会のネームバリューがあれば簡単に集客できるという打算があったが、実際のところはそんなに甘くはなかった。公演直前函館入りするとチケットは思うようには売れておらず、急きょ函館市内のショッピングセンターで宣伝活動をやらせてもらい、宣伝カーでアナウンスしながら市内もまわった。あの手この手で実行委員会の方たちの協力のもと、目標の3000枚の前売り券を売ることができた。

 公演当日は、各公演30分前に金森ホールの前でチョロ松と呼び込み太鼓を叩きながら当日券のお客様獲得に向け頑張った。函館公演が始まる。夏休みということもありファミリー層のお客様中心だったと思う。演目も劇場版をそのままに持ち込んできているため特別な気負いもなくチョロ松も金森ホールの舞台にも慣れ安心していていつものチョロ松らしさも発揮され来場いただいたお客様にも生の躍動感溢れるアグレッシブなチョロ松の芸に満足していただけていたと思う。ただ、一日五回公演に舞台前の当日券販売、公演終了後の写真撮影会とチョロ松の疲れを私は気付いてあげられなかった。古川顧問から一言アドバイスがはいる。「五郎、演目にチョロ松の体を冷ますためのリラックスタイムを入れてみたらどうだろう」。このリラックスタイムをクライマックスの芸に進む前に入れてみると思いのほか功を奏し、チョロ松の動きが抜群に変わったことをよく覚えている。今でもこのリラックスタイムは色んな舞台の場面で活かされ続けている。四日間で20回の公演をチョロ松は一人で行い、最終公演は金森ホールいっぱいのお客様が歓迎してくれた。実行委員会の方達にはそれぞれの仕事がある中で公演成功に向け惜しみない協力をしていただき、実行委員長の清水社長には予算を少しでも軽くできたらと、金森ホールのそばにあるオフィスを宿代わりにと滞在中無償で貸していただいた。

 そしてもう一人紹介しなければいけない人がいる。函館市内の大門というところで飲食店を経営されているお華(はな)ちゃん。清水社長の紹介で知り合ったが、お華ちゃんにも足を向けて寝られないほどお世話になった。お華ちゃんのお店に行くと、狭い店内はいつも評判を聞いたお客さまでいっぱい、そこで披露してくださったお華ちゃんの唄は、店内に居合わせた人たちに幸せを届けるものだった。チケットを一人で千枚近く売って下さった上に連日、13時公演が終わると差し入れの手作り弁当を持ってきてくれた。お華ちゃんからは「函館で公演をやってくれてありがとう。」と言われたが、こちらこそ函館の皆さんに感謝しなければいけない。清水社長、実行委員会の皆さん、お華ちゃんありがとうございました。

函館を離れ、北海道ツアーは道央、道東へ向かう。

第四十二話 斜里郡清里町のブッシュマン

 そして、北海道ツアーは道央、道東へ向かう。

 まったく知らない地でも飛び込んで営業をかけようとしていたが思わぬところからチャンスが舞い込んできた。関東の劇場候補地さがしのパートナーであった大手ゼネコンの部長、石井さんが全国各地に人脈をもっておられ協力をしてくださることとなった。実はこの石井さんも古川顧問の旧友であった。石井さんに雑談の中で北海道ツアーの話をしたところ、石井さんから「道東の斜里郡清里町という町に面白い人がいるので是非とも会って欲しい」と紹介していただくことになった。こんなにも偶然で、おいしい(都合の良い)話が簡単に舞い込んでくると作り話のように思われるが‥事実である。石井さんが現地(北海道)に向かうことになって、北海道釧網本線の原生花園駅で待ち合わせすることになった。今まで日本各地をチョロ松と飛びまわってきたが、原生花園駅には行ったことはないし、聞いたこともない。簡単な口約束で決めた話であり本当に来られるか、合流できるのか不安もあったが約束の数日前にチョロ松と道東地域を数カ所営業にまわりながら約束の原生花園駅を目指した。待ち合わせの時間、ハマナスの花に埋め尽くされた、絵に描いたような原生花園駅の改札口から石井さんがひょっこり現れた。「いゃー 五郎さん!会えましたね。」何とも不思議な方である。

 斜里郡清里町へ向かった。アスパラ栽培を中心に農家を営まれている森本さんという方の紹介をうけた。森本さんの第一印象は分かりやすくいうとパンチパーマの髪型が目に飛び込んできてまるでアフリカのブッシュマンだ。私が「大道芸猿まわしの調教師をやっている五郎です。」と自己紹介すると森本さんはすかさず「百姓の森本です」と返してきた。一瞬にして壁はなくなり初対面なのに意気投合し、農業、猿まわしについて本音で語り合った。飾らない森本さんだがその栽培への高い評価は森本詣でと言われるほど有名シェフから注目されていた。私の思いのたけを伝えると、森本さんから「五郎ちゃん、チョロ松と北海道に笑いを届けてよ。そのためにできる限りの橋渡しをするから」と心強い応援団になってくださった。翌日には地元清里町長に声をかけていただきお祭りに呼んでいただくことになった。その他、小清水町、網走市の幼稚園、佐呂間町、北見市、丸瀬布町、釧路市内のショッピングセンターと北海道ツアーの過半数の仕事を紹介してくださったのだ。森本さんから農業仲間のネットワークに声をかけていただいたことで急速に輪が広がった。留辺蘂町や訓子府町では酪農、農業に従事している青年団が手作りのチラシ・ポスターを制作し、チケットを販売して500〜600名のお客様を集めていただき、まさしく手作りの北海道ツアーを実現してくださった。そして、チョロ松がSONYウォークマンのCMでブレークした頃から北海道のイベントに呼んでいただいていた旭川の広告代理店の方にも旭川市内で数カ所、当麻町、上川町といった幅広い地域にチョロ松・五郎コンビを売り込んで下さった。


 初の北海道公演から約20年が経った今あらためて冷静に考えてみるとアメリカ公演に続いて北海道公演が行えたことは幸運だった。函館公演は函館の有志のお力添えにより三年連続で行うことができたし、座長公演の難しさ、それを乗り越える中で自信を深めることができた。人の輪を大事にすること、広げることは現在も大きなテーマである。その一歩を踏み出すことができた。



 猛暑とゲリラ豪雨が日本列島を襲った2013年のお盆のシーズン真っ只中に残念なニュースが流れてきた。チョロ松物語第三十九話でふれた、某猿軍団が年内(2013年)に解散、閉園するという。

 千年続いてきた日本を代表する大衆芸能猿まわしを残すため、父村崎義正は残り少ない生命力全てを投入して「周防猿まわしの会」を結成した。

 親父は生前、「日本において猿まわしが発展していくためにはもっとライバルが出てきて欲しいし、調教を学びたいというものに門を狭くしてはならない」と言っていた。25年前に阿蘇猿まわし劇場をオープンした時に親父のもとには調教を学びたいと数えきれないほどの志願者がきた。話題の校長先生もその中の一人でもある。調教を理解できるという段階にたどり着くのさえ10年はかかるのに2、3日で教えてもらえないですかとの話を受け、その時親父はその校長先生に「この私の本を何度も何度も読みやる気のある人間でならば調教をかじるぐらいはできるから」とこの業界におけるトラの巻とも言える一冊の本をプレゼントした。その五年後に一世を風靡した某猿軍団が鮮烈なデビューをして驚かせたのだが、お猿さんの高齢化、後継者不足で解散、デビューして20年足らずの閉園、ライバル登場を願って歓迎した親父の願いも届かず残念である。この出来事を我々の糧とし、周防猿まわしの会の「お猿さんが主役である」という基本理念を守り猿まわし芸能を継承してゆきたい。

第四十三話  ・・・ついに決断する。

 関東劇場候補地探しに長男と三年間奔走した。候補地としての条件が整わず断念する案件が続いた。借地でなく自前の敷地に劇場を建てることが前提なので、ある程度広さも必要だし、集客のためのアクセスが重要、飼育環境を整えるには明るく太陽光が降り注ぎ、樹木の潤いも必要だ。そのような条件をクリアーする物件に出会うことなど大抵はあり得ない。多少の妥協もいるのかと思っていた。

 以前、静岡県で候補地を探していた時に釘をさされたことがあり今でも強く印象にのこっている。山梨県、特に富士五湖地域を「郡内」と呼んでいるがここに劇場を建てることは避けろという忠告を繰り返し受けたのだ。忠告はありがたく受けたが、私は先入観も偏見も持つことは無かった。頭の片隅に記憶は残ったが、候補地探しという面では忘れることにした。その「郡内」に位置する山梨県河口湖に信じられないほどのロケーションでこんな場所がよく残っていたなというほどの土地に出会うことになる。

 河口湖町(現在は合併して富士河口湖町)は河口湖を中心に船津、浅川、小立、河口、大石という地区からある。最終的に候補地を決めるために観光調査した当時は船津、浅川という地域に旅館、食事処、お土産街がほとんど集中していて河口湖町の観光において要になる地域であった。注目した河口地区には貸し別荘が建ち観光施設も徐々に進出しはじめていたが、観光地としての趣はなかった。農地が点々として土地の所有者も細かく分かれていた。ところが平成6年に湖畔沿いに湖北ビューラインと呼ばれる道路が繋がった。この湖北ビューラインからの眺めが素晴らしい。そして、その真ん中にある土地を紹介されたのだ。敷地の前には富士山と河口湖しかなく、富士山の頂上に向かって伸びる山腹のラインは数々の名画に残るまさにその姿であり、画家や小説家が題材にしたものだ。湖北ビューラインがつながったことによって船津、浅川の旅館、お土産街から河口、大石をつなぐ観光アクセスが充実されることで大きなチャンスを生むと私たちは考えて最終的にこの地を選んだ。偶然ではあるが猿まわし劇場が誕生する前後に河口地区は文化・芸術性に富む観光施設の進出が続いた。

 これで周防猿まわしの会は本家山口県を本社に構え、西に熊本県の阿蘇猿まわし劇場、東に河口湖猿まわし劇場を持つこととなった。「たかが猿まわし、されど猿まわし」と古川顧問から評されたが、伝統芸能、大衆芸能として二大観光地に劇場を自前で保持することができるのだ。活力溢れる若手調教師もそろいそれぞれが勇気と希望に満ちあふれ語り合った。阿蘇の劇場が九州及び西日本圏で1500万人の市場なら、関東圏はその数倍の大市場である。阿蘇以上の集客が期待できると、ところがそれが、我々の甘さ、大誤算であった。大市場をめぐる競争は熾烈を極めることを後に思い知らされた。兄に足元を掬われ、失われた20年という大不況が、無知で「能天気」の我々から体力を奪っていったのだ。

 そのことを言いたかったのか、生前の親父から「富士山は日本人の憧れであり偉大だ。富士山に劇場を構えるには到底無理があるのお。」と語っていた。それなのに富士山と共に歩めるというおごりがあり親父の語っていたことを忘れて夢に突き進んでいった。親父の命日は2月23日、「富士山の日」だ。そして、周防猿まわしの会のピンチに手を差し伸べてくださったのは誰あろう「郡内」の皆様であった。

 平成6年12月8日(土)、河口湖の不動産事務所にて契約が成立しいよいよ河口湖猿まわし劇場実現に向け始動することになる。契約後、私が現地責任者に任命され、チョロ松と共に東京事務所から河口湖へ拠点を移し劇場建設に動いた。

 しかし水面下でこれほどの力を持つことになった周防猿まわしの会の主導権を掴みたいと思う人物が密かに野望を実行に移そうとしていた。社長である長男や私、古川顧問など沢山の応援団はツユも知らず劇場実現へまっしぐらに進んでいた。


 この回を書き終わろうとしていた9月26日まさにその時に、名工建設株式会社の小林様から電話をいただいた。河口湖劇場へご退任の挨拶に来られたのだ。不在のため、その場から連絡を下さったのだが、この方こそ我々の河口湖劇場進出と建設、その後のアフターケアーで18年間の長きにわたり、親身になってお力添えを下さった方だ。寂しい思いと共に感謝の気持ちでいっぱいになった。

第四十四話 「陰謀」

 東京事務所から河口湖へ拠点を動かすために事務所探しに動いた。チョロ松達お猿さんもいるため事務所一室というわけもいかない。運よく劇場予定地から車で2分のところに敷地200坪の一軒家を見つけた。もともとイタリア料理のレストランを営んでいた物件だったので部屋数もあり、事務所兼芸人の寮として活用できる。空いている敷地にチョロ松達が快適に生活できるための宿舎も建てても良いということである。早速地元の大工さんに依頼して建築にとりかかった。河口湖町は標高800mを越える地域であるため朝昼夕夜の寒暖の差が厳しい。壁を寒冷地仕様にし断熱材を通常の2倍に増やして河口湖での居心地の良い生活を準備した。また敷地内が砂利であったため、一角のスペースにチョロ松達が快適に稽古が出来るように環境も整えた。

 8月上旬、芸能部長を務める兄のT氏がかねてからの約束に従い舞台出演と若手育成を目的に阿蘇猿まわし劇場入りした。兄はマスコミに注目される言わば我々の看板である。かって、亡き親父との条件闘争に成功して周防猿まわしの会の一員でありながら、自前の事務所も持つ特別な待遇を獲得していた。芸術祭やアメリカ公演を行った際には、会から行事に集中できるように補償をうけていた。それを可能にしたのが阿蘇猿まわし劇場であり、劇場や会の活動を支える調教師、職員、芸猿であった。一連の行事が終わったなら数年間は阿蘇に恩返しをするそれが多大な補償を受けたのは念願の芸術祭参加やアメリカ公演の先頭に立って行うための条件であったはずだが、催促されても約束を守らない。輝く場に立った男が原点の劇場で汗をかいたならさらに信頼も株もあがっったのに、約束を守らないで平気な様子にカッコ悪さだけが目立っていた。

 さかのぼること 数ヶ月前に阿蘇猿まわし劇場で定例の役員会がもたれた際には、その兄から阿蘇入りする約束に反する提案が行われた。それは、『新宿のグローブ座でシェークスピアの作品「ハムレット」を題材に公演を行いたい。』という内容だった。実現すれば阿蘇の舞台に立つことは不可能だ。芸術祭参加公演、アメリカ公演それに伴う様々な行事に莫大な投資をしたばかりであるし、その総括がされた上でのチャレンジなら役員の理解も得られれようが、兄のこの路線の再延長にはまたか、それかという厭戦の空気と慎重論が続出した。結論として二つの条件を満たしたなら、提案を議題に載せるということになった。一つは、役員の前でその行いたいというシェークスピア劇の一場面を演じて評価を受けること。「生きるか死ぬかそれが問題だ。」それを相方と共にどのように演じたいのか見せてもらい、チャレンジする値打ちがあると判断したならという条件。もう一点はそもそも兄と相方の芸のレベルをあげて欲しい。難しい要求でない、単純に、どの芸猿よりも高い竹馬に乗り、どのお猿さんよりも遠くへ飛ぶように調教してくれたなら、シェークスピア劇を演じることは可能かもしれない。兄の答えは、「そんなのは簡単なこと。」と言い放ったのだが、この二条件への回答は、いつどこで、いつまでに見せるからという誠実な返答が一切ないまま放ったらかしにされ、実行されなかった。

 そして、おそらく兄の中で考えられた目的を実行するために、阿蘇入りした。アメリカ公演を実現した暁には阿蘇の劇場に腰を据えて若手と向き合い芸を育てるという約束。古川顧問からはどのお猿さんよりも高い竹馬に乗り、どのお猿さんよりも遠くへ飛ぶお猿さんを見せてほしい。この約束を実現するために阿蘇入りしたはずだが・・・。

  私は、チョロ松とともに北海道ツアー二年目に入っていたが、兄の不穏な動きに違和感を感じた。この当時の私の役割としては芸能部次長として阿蘇猿まわし劇場、東京事務所の調教師の若手を育てることを一手に任されていた。北海道ツアーの最中は、毎日調教メモをホテルにFAXしてもらいチェックをしていくという段取りになっていた。しかし送られてくるはずの調教ノートが届かなかったり遅れるということが続いた。事情を聞くため若手数人に連絡を取り阿蘇の状況を聞いた。すると連日舞台稽古が終わるとボウリング、パチンコといったレジャーを楽しんでいるらしい。決してやってはいけないと思わない。リフレッシュは大切だが、すべての費用を芸能部長からいただいて遊んでいると聞いて愕然とした。なぜ遊ぶのに自分のお金でしないのか。この時期に芸能部長が阿蘇入りした目的を計りかね、阿蘇の雰囲気に私は何か不穏な空気があると感じていた。

 チョロ松と私は四日間の函館公演が終わって道南から道東のツアーへ向かわなければいけなかった。後半の北海道ツアーがあったが、別のコンビとバトンタッチしチョロ松と私は河口湖劇場建設打ち合わせのため一旦河口湖に戻った。河口湖に戻った日の夜、芸能部長を務めていた兄から「河口湖に向かっているので一杯やりながら話をしないか」との電話があり河口湖駅前にある居酒屋に呼び出された。向かうと周防猿まわしの会のアドバイザーである田口さんも同席していた。その時なぜか私はお酒を飲むという雰囲気ではないと感じ控えさせてもらい単刀直入に「何の話があるの」と切り出した。兄は「五郎はチョロ松とSONYウォークマンCM出演後一世を風靡して今の給料に不満はないか。俺は会社に芸人の年俸制を導入することを提案したいと考えている。そのためにもまずは五郎からだと考えているんだけどどうか。」と話を持ちかけられたが、正直私自身今まで何の不自由もなくやっているし、売れたとはいえ調教師としては半人前の私にすれば当時もらっていた報酬に対して会社に対する不満はなかった。逆に阿蘇入りした際の調教師たちに対する芸能部長の行動、ボウリング、パチンコといった遊戯とお金で調教師たちの心を掴もうとしている行為、調教師を目指すようになってたかだか二、三年そこそこの未熟な若手に勘違いをさせて大丈夫なのかという思いが強かったので、さらなる不信感を抱いた。「年俸制?意味がわからないし全く興味がない。」と答えた。予想外だったのか会話は一瞬止まったが兄は引き下がろうとせず年俸制になると私にとって有利なことだらけだとおいしい話を羅列してきたが私にとってとても興味を持てる話ではなかったため話は終了した。そして私は席をたった。

  数日間の河口湖劇場の建設の打ち合わせを終えてすぐさま私はチョロ松とツアー途中の北海道へ移動したが芸能部長から提案されたことで今後、周防猿まわしの会、芸能部がおかしなことにならなければいいけどなという不安を感じていた。今は河口湖に新たな拠点を建設し、日本全国の皆様に、猿まわしを楽しんでいただく場を持つ、そのために全員一丸となるべき時だ。周防猿まわしの会がさらなる飛躍をする。ただし、兄は会の中で中核をなす芸能部を掌握することに必死だった。密かに会の中で反乱を起こす準備が水面下で頻繁に行われた。

第四十五話 M君との別れ

 河口湖から急いで チョロ松と私は道東の清里町に向かい、二年目の北海道ツアーに合流した。

 清里町の森本さん他地元のみなさんと交流会を行っていると阿蘇劇場にいる若手調教師M君(以後Mと表記)から電話がはいった。このMはアメリカ公演が終わった直後に周防猿まわしの会に入門し、私が指導の担当となり修行をスタートさせた。一年目の北海道ツアーにもチョロ松と私に同行し森本さんにも大変可愛がってもらったので森本さんに挨拶するために電話をしてきたのだと私は思った。だが、電話を受けた瞬間の雰囲気の悪さに「どうした?」と私が聞くとMは「周防猿まわしの会を辞めてTさん(以後Tと表記)の会社に所属したいのですが」と一言、唐突で前後の説明が無いので一瞬何を言いたいのか意味不明に思えた。「何故?」と私が尋ねると「芸能部長Tから、お前はスターになりたいんだよな。であれば五郎の下にいても五郎は自分が主役だからお前は一生日陰だしスターになれないぞと言われました。」Mの発言に空いた口が塞がらなかった。私はMに「俺はお前に言ったよな。スターになりたいという夢も聞いているが、いつも言っているように世間一般の芸人さんでさえ、スターになれるのはほんの一握りの方だけ、むしろほとんどの芸人さんは日の目を見ることができない厳しい世界だ。周防猿まわしの会の芸人は毎日数百人ものお客様にお猿さんの芸を披露する場があり、まずはそのお客様を納得させる芸を見せることができない芸人にスターの道はない。それに俺は劇場の舞台にたつコンビはみんな既に立派なスターであると思っている。一年間舞台に立ったぐらいで勘違いするな。」何とも言えない憤りを感じた。電話で延々と話していても先に進まない。Mには残り2週間の北海道ツアーを終わらせれば阿蘇入りするのでその時しっかり話をしようと伝えて電話をきった。

 事態はそんな甘いものではなかった。夏休み後半も阿蘇入りしていた芸能部長Tは連日連夜すべての調教師たちを個別に呼び、年俸制というおいしい話を持ちかけ会社が応じない場合は周防猿まわしの会を辞めて自分の会社に来るように誘い、河口湖劇場建設に入った周防猿まわしの会を混乱させようと画策していた。心強かったのは阿蘇の責任者であったDさんである。Tの提案を受けないと決め、誘いを断り立場を鮮明にした。これからも周防猿まわしの会の調教師としてやっていくと表明したことで揺らいでいるメンバーを結果的にしっかり守り抜くことができた。移籍を望んでいるMともう一人のK、二人を説得したがまったく埒が明かない。最終的には会社を辞めることになった。

 KとMはTの指示で更なる強硬手段を選んだ。阿蘇を出て行く際にお猿さんを勝手に連れて逃げた。当然のことながらお猿さんは周防猿まわしの会の所有である。周防猿まわしの会が訴えればMとK,並びに先導したTは窃盗を行ったことになる。

 緊急事態、なんとしても足取りを見つけ、九州から出て行く前に連れ出された芸猿を取り返さなければならない。そのため、揺さぶりをかけるだけでなく暴挙を表面化させたTに対し周防猿まわしの会は対応を決め結束して動かなければならない。今回の不穏な動きを真っ先に気づいたのは社長だったが、周囲はまさかと思い、警告を発する社長の言動があったにも関わらず、対応が遅れた。

 その一報を阿蘇から受け、私は一旦帰京するようにと指示が出た。札幌千歳空港へ向かい手続きをしていると会社幹部が動き空港警察にも事情を説明しお猿さんとMを福岡空港にて確保したと連絡があった。本人も素直に認めたため示談にしてお猿さんは返却してもらい本人も解放したと連絡があった。とにかく騒動が騒動だけに一旦東京に戻るようにとの指示だったので羽田空港行きの便に乗った。羽田空港に到着しチョロ松が出てくるのを待っていると肩を落とした人が私の方へ向かって歩いてきた。Mである。私は何も声をかける気持ちにもなれなかったが、Mの方が私に気付き一言「すみませんでした。」とあったので私は「頑張れよ。」とだけ言葉をかけMは去った。

 数日後事態は更なる悪い方向へ進んだ。MとKが阿蘇劇場の営業中の隙間を狙って猿舎に侵入しお猿さんを盗んで逃げた。Tの下ヘ連れ去った。繰り返しての行為に我々関係者一同が落胆し驚きを隠せなかった。悔しいけれど、Tさんは、社長と私にとっては兄弟、M君とK君は前途ある若者であるので、警察に通報することは避けた。

 その後のTの暴挙は、狂気に思えるものであった。魔の手は周防猿まわしの会の関係者、関係先(銀行や関連自治体、取引業者)へ及び、電話、FAX、手紙での悪意に満ちた連絡、そして何の関係もない関係者の家族が勤務する職場ヘの長文の手紙のfax送信まで行った。その連絡が入るたびに周防猿まわしの会は被害を受けた相手先に謝罪を続けた。会を代表する社長は、幹部の意見を集めながら、冷静かつ柔軟に対応していたが異常な攻撃に防戦一方だった。

 結局、Mは華やかなTの下に去った。黒子役でテレビによく登場していたが、果たしてテレビに出れればMはよかったのか。猿まわしである以上主役はお猿さんであると私は考えている。Mがお猿さんとテレビに出演した映像を見ることは無かった。風の噂では1年かそこらでMとKはTの会社を辞めた。

第四十六話 生死をさまようチョロ松

 平成8年、この年は河口湖猿まわし劇場のオープン元年となる年だ。厳冬期にも工事を行いGWオープンへ間に合わせようと発注業者も頑張ってくださっている。氷点下15度も記録したこの冬には工事も思うように進まない。基礎が完成し壁が立ち上がった段階で強い地震もあり関係者共々ひやりとした。工事を請け負ってくださった名工建設株式会社、設計の巽設計事務所と信頼できるメンバーのプロの仕事に助けられた。

 チョロ松と私は各地のイベントに出演し、2月には三重県志摩市浜島町の旅館『湯元館ニュー浜島』での一ヶ月公演に出演することになっていた。長期公演のため二週間で二組が入れ替わるようにしていた。2月23日は親父の七回忌法要もあり忙しい毎日が過ぎていった。本社山口への岐路、車中のチョロ松の様子がおかしいのに気づく。いつもなら私が車を運転している間はたとえ夜中であろうと車の中でおとなしくしていることがなく小屋の中で常に動いていているはずなのだが、バックミラー越しにチョロ松の様子を見ていると座りこみ、やたらに咳き込み、エサを食べない。食べても戻してしまう。年末年始の忙しさにチョロ松も疲れただろうから本社に到着したらゆっくりさせ疲れを癒してあげなければというぐらいの当初は軽い気持ちであった。しかしチョロ松の状態は悪くなる一方だった。なんとか本社に到着したのだが、咳こむ回数が時間を追うごとに増えてきた。最後には食事すら取らなくなってきた。翌朝、すぐに診察を受けることとなり、下関市の山縣獣医科まで車を走らせ緊急で診察を受けた。診断は風邪をこじらせての肺炎だが、肺炎といっても子ども並みの心肺しかないニホンザルには致命傷となる場合があるほど深刻な事態だ。抗生物質を投与するのでとにかく休ませてくださいとのことであった。日頃から薬に頼っていないので劇的に回復することもある。本社滞在中、ゆっくり休ませたがなかなか回復の兆しがみえてこない。予定していたチョロ松と私の『湯元館ニュー浜島』での出演を別のコンビに代わってもらい、チョロ松は絶対安静のため河口湖事務所に戻り静養させてもらうことになった。

 河口湖に戻ったことでチョロ松の容態はさらに悪化した。2月の河口湖の気候は昼間でも氷点下になるような日があるぐらい厳しい冬が続く。山口県から山梨県河口湖に移動したことによる寒暖の差にチョロ松は悲鳴をあげたのか体を起こすことすら出来なくなっていた。河口湖に来て数ヶ月、まだお猿さんたちを専門に看てくださる獣医師の先生を見つけていない。緊急にお願いした先生には「日本猿は経験がなくダメです」と断られた。チョロ松の状況は一刻を争う危険な状態なので「このお猿さんは絶対暴れないし、安全なのでとにかく助けて下さい」と死に物狂いでお願いしたが「無理です」の一言で断られた。藁をもすがる思いでお世話になっている東京の三鷹獣医科グループの小宮山先生と運良く連絡がとれた。河口湖から一時間半、東京三鷹市まで走った。すぐさま診察してもらうと肺炎が悪化し体力も落ちていた。通常12キロ近くあった体重が10キロをきり痩せ細っていた。抗生物質を投与する前に点滴を打って、まずは体力を回復させないといけないと言われた。普通、お猿さんたちは全般的に病院を嫌うし極度に獣医師を怖がり病院に入ることだけでも嫌がる。点滴を打つとなると数時間おとなしくしていなければいけない。ほぼ不可能なのだが二代目のチョロ松だけは幼い時から病院に入ることを嫌がらず暴れることがなかった。これは本当に稀なことである上にチョロ松にとっては不幸中の幸いであった。普通に治療が可能であったので点滴を打つ1時間以上の間もおとなしく落ち着いて治療に専念することが出来た。約10日以上にわたりチョロ松は生死をさまよいながらも奇跡を願い、夕方、立川事務所から約1時間かけて三鷹市の三鷹獣医科グループまで毎日通院した。ある日の通院後小屋に戻すとチョロ松が置いていたみかんに手を伸ばした。大好物の「どら焼き」さえ食べようとしなかったのに、水気の多い食べ物をほしがるようになった。食事をとると野生の力がよみがえったのか動きも見違えるように活発になり回復がみえてきた。先の見えない約一ヶ月にわたった闘病生活にピリオドを打つことが出来た。

 周防猿まわしの会がさらなる発展を期して建設する河口湖猿まわし劇場の舞台にチョロ松と共に立つことができる。その舞台にチョロ松を立たせるために困難を承知で頑張ってきたのだ。大ピンチを克服してくれて本当にうれしかった。お猿さんたちの怪我や病気はつきものだ。そんな時頼れるのが獣医さん。これ以降、阿蘇と河口湖両劇場ではどんなピンチの時もすぐさま対応していただく担当医を見つけることができた。心強い先生達である。

第四十七話  富士山麓、河口湖に新劇場誕生!

 平成8年4月28日、河口湖猿まわし劇場はオープンの日を迎えた。

 オープニングセレモニーは、河口湖猿まわし劇場の「猿公館」2階のレストランで行なわれた。南向きの大きな窓からは河口湖と富士山が一望できる。息を飲む景観に招待客は劇場の発展を重ねあわせた。河口湖町長をはじめ地元の皆様、観光業に携わる旅館、ホテル、立寄り施設関係者、本社山口県の関係者、熊本県阿蘇猿まわし劇場がお世話になっている業者の代表、親族一同、他全国各地からたくさんの方にお祝いに駆けつけていただいた。来賓を代表して周防猿まわしの映画を撮影して下さった民族文化映像研究所の姫田忠義所長から「周防猿まわしの会の拠点が河口湖に増えたことで、そこから広がる波紋が山口県の本部や阿蘇猿まわし劇場と重なりあってゆくことに大きな期待を寄せたい」との祝辞をいただき、光市長代理として遠路はるばる出席してくださった堀川昌典光市教育長が猿まわしのふるさとから河口湖の皆様に「宜しくお願いします」とのメッセージを伝えてくださった。東日本における劇場進出に数年間お世話になりながら、最終的には建設工事を受注いただけなかったゼネコンの石井さんもお祝いに駆けつけてくださった。未熟な我々ではあったがたくさんのご支援をいただけたことそれは伝統芸能猿まわしの継承と発展を願う日本国民の期待そのものだった。

 河口湖猿まわし劇場の初舞台、こけら落としの座長としてチョロ松は紋付袴の舞台衣装を用意してもらい挨拶をさせていただいた。病気からの回復直後であったので大役を果たした安堵と舞台に立てたことが本当に嬉しかった。勢いをつけるために阿蘇猿まわし劇場の看板コンビの勘平・Dコンビが一年間河口湖劇場の応援に駆けつけてくれることになったことも励みになった。これからは河口湖劇場という基盤ができ腰を据えて芸や稽古に取り組むことができる。芸能者としてこれほど幸せなことはない。今までは東京事務所を拠点に全国のお祭り、催事、イベントに出演するという仕事を中心にこなしてきた。各地に周防猿まわしの会の名前を広める広告塔の役割は重要であったが落ち着く間もない慌ただしい日々が続いてきた。この舞台に立つということは今後の猿まわし人生にとって大きな意味を持つことになった。

 チョロ松達のための宿舎、芸猿舎は劇場の南向きの一等地に運動場付きで建てた。芸猿舎には、劇場本体以上に力を注いだ。阿蘇猿まわし劇場の経験と教訓が十分に活かされた施設にならなければ、東日本における標高800mの地での冬は厳しい。ニホンザルは冬の寒さに強いけれど河口湖の寒さは厳し過ぎる。そのため壁は二重の断熱材を入れ完璧な寒冷地仕様にしたうえ、真冬になると外気で氷点下10度を下回ることもあるので猿舎の中は零度を切らないように自動で調整できるサーモスタット機能も搭載した。地表からの冷気を避けるため睡眠用の止まり木の高さは2メートルあり、天井にウォーマーを設置して暖かく眠れるように工夫した。お猿さんの個室部屋設計にも様々な工夫を施し快適な日常生活がおくれるようにした。引退したお猿さんが交代で広い運動場に行き来できることはストレス発散に効果大であった。過ごしやすい季節になるとお猿さんを定期的に入れ替えようとしても運動場に出ることが楽しすぎて自分の部屋に戻ってくれず芸人達を困らせるほど好評だった。現役時代は突然の病気に苦しむことがあった代々のチョロ松も皆元気に引退生活を楽しんでいる。

 新しい劇場の誕生は期待と熱気に包まれた。新しい命を産み出すための道は平坦でなくまた、これに携わった人々の運命を大きく変えていくことになった。この時には思いもしなかったが、周防猿まわしの会を担う先頭にチョロ松・五郎コンビが押し出された。自ら望んだのでなく、河口湖進出という一大プロジェクトが組織の二番手、三番手として悠々自適、我が道をゆくスタイルを謳歌していた私達に運命の切符を渡してきた。ソニーのウォークマンCMで一夜にしてスターになったチョロ松が周防猿まわしも会を担わなければならない時代が始まった。しかし、その時はその自覚も責任も感じず、さらに数年の間はあくまで自己流を変えないで歩む。チョロ松の相方の私が五男で兄に逆らうなという父の教えを忠実に守っていく考えに変わりがなかったからだ。会社を代表する長兄、両劇場の総支配人を務める次男の兄の采配についていくそれが私の役割と割り切っていた。けれどこの考えは機能しなかった。長兄は山口県の本社、次兄は阿蘇を拠点にせざるおえず、河口湖を真に背負う責任者がいない。出発したばかりの劇場だけれど自他共に矛盾や弱さを内包している。盛大なお祝いの式典が終わり、「浮き草稼業の猿まわしを日本列島にしっかりと根付かせる」という悲願を達成するためにも、またお客様や地元の皆様の期待に応えるためにも長く厳しい試練が待ち構えていた。

第四十八話  豪雪に翻弄された5日間

​ 2014年2月14日、関東地方、東北地方を大雪が襲い各地に甚大な被害をもたらした。
一週間前の2月8日には40年ぶりの大雪が降ったばかりだったが、河口湖ではさらに観測記録を更新する150cm、累積降雪高は2mを超えた。

 私は当日、都内に出張していた。その日は朝から河口湖方面で降雪との情報だったが、都内の降雪の状況もみていて積もる感じはなく目立った交通機関の乱れもなかったので午後過ぎになってもまだ大丈夫だろうとタガをくくっていた。それでも少し早めに帰路につくことにして15時過ぎに仕事を切り上げ首都高にのった。すると新宿あたりから環境が一変していく。高井戸を過ぎ、調布に近づくと渋滞が激しくなり中央道八王子に向かうが車が進まない。そして、中央道八王子を目前に大月から先が通行止めとの情報が流れてきた。車で河口湖に戻ることは不可能と判断しすぐさま中央線、富士急行線に移動手段を切り替えるため車を東京事務所におき立川駅からグッドタイミングで特急かいじにのった。一安心も束の間、通常35分ほどの山梨県大月駅までなかなか進まない。今回はいつもと違うなとは思ったが何とか無事大月駅にたどり着き足早に富士急行線に向かうと改札が騒然としている。つい先ほど、この先の踏切にトラックが立ち往生したため電車が発車出来ないとのアナウンス。しかしまだこの時点では、「河口湖まで目と鼻の先の大月まで来ているのだから大丈夫だろう」と安心し駅前の居酒屋で富士急行線の復旧を待った。その時はまだ20時前であった。一時間、二時間と時間ばかりが経過していくが22時を過ぎても富士急行線の復旧のメドはたたず、状況の悪化に不安を感じ、ひとまず寝床を確保しなければと大月駅周辺にある旅館に電話するが当然満室である。甲府方面行きの電車はかろうじて動いており、とりあえず、石和温泉方面に向かえば宿泊施設もたくさんあるので寝床は確保できるという思いで23時過ぎの甲府方面行きの各駅停車の電車に乗った。大月駅を出発し次の初狩駅に停車した。その初狩駅から動く気配がなくなってきた。停車してしばらくして相模湖周辺の電線故障の復旧作業を進めているとのアナウンスが流れる。数十分おきに復旧作業の現状をアナウンスする車掌の申し訳なさそうで悲壮感漂う声が事態の悪化を物語っていた。数時間後には勢いを増した降雪が電車の車体を埋めていく。深夜1時過ぎだったろうか、パンタグラフという部品の異常で車内の暖房が効かなくなってしまい約3時間以上極寒の車内で過ごすことになった。早朝に復旧した時は本当に天国であった。

 数時間寝ただろうか、朝を迎えたころには初狩駅の駅員の方達がホームを雪かきしてくれたので車外に出られるようになっていた。初狩駅を出て300mほど歩くとコンビニのローソンがあると教えていただき最低限のライフラインはつながり安心した。ローソンまで向かう道も人が歩ける程度の雪かきを初狩の地元の方達がおこなってくださっていた。ただ初狩駅の電車内には150人を越える人がとり残されていて、皆が一斉にローソンに集中したので商品棚はあっという間に空っぽになった。15日の午後、初狩の地元の方の好意でおにぎりとお味噌汁が支給された。先も見えない不安のなかで地元の方の炊き出しは本当に有難かったし勇気ももらった。電車での生活が二日、三日、四日と経つがいっこうに交通機関の復旧が進まない。

 2月17日(月)、電車泊四泊目を覚悟していたが中央線上りが今日中に中央線高尾駅まで復旧し移動出来ると車掌からアナウンスがあった。実はひとりの芸人が休暇を終えて故郷から河口湖に戻る際の八王子で立ち往生していた。とにかく中央線上りが動き東京まで戻って彼と合流すればお互いが安心できると考えた。22時過ぎ高尾駅に向け中央線上りは出発した。23時過ぎに高尾駅で合流した時にちょうど中央道も八王子から通行止めが解除された。ただ、高速道路の出口の復旧作業が進んでいないため山梨県の一宮御坂インターまで車を走らせた。そこから御坂峠を越えれば河口湖まで30分で着く。ところが、甲府、石和温泉から河口湖をつなぐ御坂峠の復旧作業も進んでおらず通行止めだった。2月18日は午前2時をすでに過ぎているので宿をさがし、まずは疲れをとって朝考えるとことにし、久しぶりに足をのばして寝床につくことができた。翌朝、テレビのテロップに11時御坂峠開通予定と流れた時には本当に嬉しかった。2月18日(火)午後過ぎ無事河口湖にたどり着くことができた。河口湖を出てちょうど一週間であった。
 私が劇場を留守している間、残った芸人達が劇場を守ってくれ、寝る間も惜しんで復旧作業に努めてくれた。おかげで年中無休をうたっている河口湖猿まわし劇場はいつでもお客様を迎える体制ができていた。しかし、劇場までのアクセスが復旧せず数日間来場者0というオープン以来一度もなかった記録を塗り替えた。あらためて今回の大雪がもたらした被害の大きさを物語っていた。劇場に戻りチョロ松達お猿さんの様子をみると何事もなかったかのような表情をしていた。逆に猿舎のまわりが雪で覆われ、天気も良いためチョロ松たちの部屋はいつも以上に暖かくポカポカ陽気で幸せそうだった。

 今まで幾度となく全国各地が天災に見舞われたが、ある意味他人事のように思っていたかもしれない。しかし、自ら電車生活を余儀なくされて二度と経験したくないぐらい肉体的にも精神的にもきつかった。追い込まれた際の初狩地区の皆さんの暖かさには本当に癒されたし、JRの車掌さん他職員の皆さんの復旧に向けての必死さを目のあたりにしてふつふつと感謝の気持ちがわいてきた。今回、大雪による被害は農業、製造業、観光、医療、教育、物流等生活の隅々まで及んだ。孤立集落が取り残されるという重大事態も起こった。想定外の事態に民間、行政も動きが遅れた。


 2014年2月23日(日)、先代の会長村崎義正の二十五回忌を迎えた。妻である村崎節子は今年も長兄にサポートされ京都の西本願寺に参拝し、大谷廟を訪問した。山口県の本社でも供養が行なわれた。この日は昨年世界遺産登録された富士山が語呂合わせで223(フジサン)「フジサンの日」でもある。親父が河口湖と不思議な縁でつないでくれた日だと思う。河口湖に来られる方、そして来場者もこの日を境に回復しはじめ、大雪被害後はじめて10時公演から団体のお客様にご来場いただいた。同じく多大な被害を受けられた地元の宿泊施設からもお客様を送迎車で送客してくださった。この日だけはいつも以上の力で舞台に入った。チョロ松もいい意味で暴れまわった。

 親父が生前猿まわしの発展のために最後に手がけた阿蘇猿まわし劇場は3月26日、オープン26周年、親父の七回忌の年にオープンした河口湖猿まわし劇場は4月28日、18周年を迎える。2014年2月23日はさらなる発展のために気が引き締まる日であった。

第四十九話 外波山文明が乗り込んできた

 河口湖猿まわし劇場のオープン(4/28)がゴールデンウイークに間に合ったことで、さすが関東を代表する観光地だけあり地元の施設、旅館、ホテルの応援で来場者は順調に数字を伸ばしていた。

 山梨県の地元テレビ局から毎週土曜日夕方のレギュラー出演の依頼がきた。コメンテーターとしての出演と一週間の時事ネタをコントにして欲しいという依頼の内容であった。コント仕立てのネタをお猿さんとやるという分野は私が非常に苦手としていた。それならば、Dさんがうってつけではないかということで勘平・Dコンビが出演することで決まった。私とDさんとは幼少期からの長い付き合いがあり互いのことはよく分かり合った仲である。Dさんは人前で歌を歌うこと、中学校時代は自らが生徒会長に立候補したし、高校時代は野球部に所属しながらもバンドに加わるなど人前に立つことが得意でたぐい稀な器用さを持っていた。なるべくして猿まわしの芸人になったような人である。
 それにしても毎週週末になるとネタを作らなければいけなかった。時には深夜までネタ作りを行い河口湖猿まわし劇場の広告塔として孤軍奮闘してくれたことが地元となった山梨県における河口湖猿まわし劇場の知名度を広めオープン後の勢いにつながった。

 阿蘇の劇場に加え、新しく誕生した河口湖の劇場が我々の舞台となったが、違和感というか舞台の難しさを感じ、2つの劇場を活かすのに戸惑いを感じた。
 阿蘇の舞台は芸人と客席との距離が近いせいもあってか、私が経験してきた大道により近い気がしてお客様との距離感もあまり感じることがなかった。庶民的な劇場である。河口湖の作りは客席が舞台から離れている上、お客様は上品なお客様が多く「さあ観ましょうか」と本当に舞台を観賞しにきている客層が多いと感じた。 阿蘇では実現できなかった舞台装置(音響、照明、ステージを豊かに見せていくための吊りもの等)を充実させたが、素人同然の自分たちには宝の持ち腐れであった。阿蘇と同じように進んで舞台と一緒になって楽しむお客様もいらっしゃるので一言では決めつけられないが阿蘇と河口湖では地域性や舞台の見方というものが違い河口湖の舞台を使いこなせなくて苦労した。

 そんな様子に、古川顧問から提案を受けた。「劇場を構えたからには大道の芸を活かして舞台芸に育てていかなければいけない。とかく、舞台内容が芸人任せになっているので舞台のための台本を作り演出し芸を育てて行ってはどうか。」
 それまでの舞台は先輩達が築き上げてきたネタや台本を後輩がマネするところから始まりやがてそれぞれの持ち味がでてくる。しながら各調教師がやりたいことをおりまぜて行うだけの舞台は調教師任せの流れになり閉鎖的である。調教師によっては勘違いを産む元となっていた。個人レベルでも舞台芸能としても発展性をこばむことになる。だからこそ、台本が必要だし演出が欠かせない。そして、人間の芸でなくお猿さんを見せる芸であるので台本の軸に調教論が座ることが演出の核心であり重要視されなければならない。

 東西2つの劇場を使いこなす難しさを超えた先にこれまでとは違った猿まわしの舞台を獲得できるチャンスがある。
 「外部のアドバイザーを招聘したらどうか。」古川顧問にはその適任者のあてがあった。誕生したばかりの河口湖猿まわし劇場に外波山文明(とばやまぶんめい)さんを連れて来られた。外波山さんは劇団「椿組」を主宰されながら俳優、声優、演出家と多岐にわたり活躍されている。椿組としても毎年7月中旬、新宿花園神社で野外劇を行っており、ファンが毎年の開催を心待ちにされている。外波山文明・ひとり芝居「四畳半襖の下張り」は公演回数100回を越えた。そんな多忙な方であるが、新宿・歌舞伎町のゴールデン街の入口でバー「クラクラ」を経営する。このお店には場所柄と外波山さんの人柄もあり、芝居屋、映画屋、マスコミ、学生、サラリーマンと多種多様な人たちが連日訪れ酒を飲み交わす場所となっている。
 こうして、外波山さんには数ヶ月に一度河口湖や阿蘇に泊まりこみで来ていただき舞台の充実のためのご指導を引き受けていただくことになった。お客様を飽きさせないために四季折々の舞台セットを作り、客席の空間の工夫も手掛けていただいた。そして肝心の台本や演出を活かすための立ち居振る舞い、台詞の指導をいただいたのだが、調教師のガードが固かった。長いこと、それぞれのやり方が許されてきて、その縄張りに外波山さんが入り込みアドバイスすることは至難の業、ご苦労をおかけした。指導の難しさを外波山さんは強く感じておられたと思うが、諦めることなくお付き合いいただくことになった。外波山さんは指導の中で舞台の「駄目だし」をする際、「駄目なものはないから」と言われたことが強く印象に残っていて、当時の稽古では本当に自信をもってのぞむことができるように配慮してくださり、百戦錬磨の演出家の懐の広さに、心を開く調教師が増えていった。

第五十話 さようなら ジュニア!

 2014年4月28日、河口湖猿まわし劇場は18周年を迎えた。朝一番、阿蘇猿まわし劇場のメンバーからお祝いのメールが届き感謝の気持ちが一杯になる。派手なお祝いはないけれど山口県光市の無形民俗文化財の名に恥じない伝統芸能としてこれからもお客様に「笑い!感動!癒やし!」を与えられるよう更なる精進をしたいと闘志が湧いてきた。GWに入ったのに前半は日並びが悪く、本格的な人出は5月になってからと準備に力を注いでいた。
河口湖・富士五湖地域にお越しの際は是非、河口湖猿まわし劇場においでください。

 不思議なものでそういう記念日に合わせるかのように幸、不幸の出来事が集中する。その前日・・・・。

 2014年4月27日(日)早朝、二代目チョロ松(通称ジュニア)が静かに息を引き取った。ここ数日、元気を無くし食欲もなかったのでみんなで心配しながら見守ってきた。これまでも同じようなピンチを乗り越えてきたけれど今回は天国からの迎えに応じた。享年27歳。天寿を全うしての見事な猿生だった。

 チョロ松物語が第四十九話まで進んできて、ちょうどジュニアとコンビだった時代を連載している時でもあるし、また、私の猿まわし人生29年で最長12年間の相方だっただけに、ジュニアとの色んな思い出が走馬灯のように蘇ってくる。

 ジュニアとコンビを組んだのは1990年6月上旬、阿蘇猿まわし劇場の舞台の稽古初日、私と目があうなりジュニアが威嚇してきた。3歳を迎えたばかりの小猿であったが・・・「鼻っ柱が強くこれぞまさしく野生を生き抜いてゆくのに必要な闘争心、強固な体を兼ね備えた、自分の理想とする日本猿だな」とビビッときた瞬間であった。東京事務所を拠点に全国各地のイベント、お祭り等の出演に飛びまわる日々が続く中で初代のチョロ松に一歩でも早く近づけるようにとハードな稽古にも頑張り着実に力をつけてくれた。

 ジュニアとコンビを組んでいた時代に一番記憶に残っているエピソードがあるので紹介します。アメリカ公演を描いた第三十六話、第三十七話にも書ききれなかったことです。ニューヨーク公演中に現地で知り合ったゲンさんの好意でゲンさん所有のクルーザーに乗せてもらいマンハッタンを案内してもらうことになった。ゲンさんと出会ったいきさつは忘れてしまったけれど、渡米してニューヨークで実業家として成功を収めた方と紹介された。おかげで最高のリフレッシュができたのだが。
 そのクルージングがハドソンリバー・・・湾?・・海?・・数年前にあった『ハドソンリバーの奇跡』という事故は記憶に新しいが、河と言っても航空機が着陸できたぐらいでありほぼ海同然の広さである。そのハドソンリバーでジュニアは何を思ったか突然クルーザーから水中にダイビングを敢行した。泳いだ経験はなく、泳ぐ能力があるとも思えない。すぐさま私もハドソンリバーに飛び込みジュニアを救出したがその後も何度か飛び込もうとした。人間でも飛び込むのには勇気がいると思うが根性のすわった猿であった。

 さらに富山県のあるイベントに出演した時の話である。季節は7月下旬の真夏日、当日の気温は37度を超えていた(炎天下なので体感は40度をはるかに超えていたはず)。本来、夏場の日中の仕事は室内もしくは日陰でという条件でないと出演しない。時としてその条件が伝わってなくやむなく炎天下の中でも公演することがあった。当日もどんどん気温は上昇しこんな炎天下ではジュニアを殺してしまうと不安を抱えながらも覚悟を決めいざ舞台へ。主催者側からも演目の間でジュニアの体をクールダウン出来るようにと用意してもらった氷水とタオルでほてった体を冷ましながらのパフォーマンスであった。
 こういった舞台をするにあたって大事なことを一点忘れていた。ジュニアたちお猿さんは素足でパフォーマンスを行うためどんどん上昇していくステージの熱で足の裏から体力を奪われていくだけでなく足を着くことすら拒否し始めた。それでも何とかジュニア頑張ってくれと思った時である。ジュニアは後半の演目で見せる予定であった竹馬に勝手に乗って歩き出した。するとそれまでの動きが嘘のようにジュニアは生き生きと芸をしている。竹馬に乗れば地面に足を着けなくてすみ熱くないので一生懸命芸ができるのだ。その日のステージはジュニアの天才的な機転でピンチを乗り越えた。今もこの時ジュニアから学んだ経験が色んな局面で活かされている。

 成猿として圧倒的な実力を持ち、ソニーのCMで名声を博した初代のチョロ松の名跡をつないだジュニア。子猿の頃に出会い、お互い未熟な者同士で確かめながら歩んだ12年間だっただけに自分にとって調教師としての基本を一から学ばせてくれたお猿さんだった。調教師になるべく足がかりを育んでくれた本当に内容の濃い12年間だった。

 引退後の約13年間は河口湖猿まわし劇場内にある猿舎(お猿さん専用の家)で仲間たちに囲まれのんびりできたと思う。時には引退したお猿さんや現役のお猿さんたちのボス的存在として河口湖猿まわし劇場の猿舎で体を張って守ってくれた。その猿舎には引退したお猿さん用に交代でバカンスを楽しむための広い運動場がある。

 われ先にと颯爽と運動場に飛び出て行く時の勇敢で楽しそうなジュニアの姿が見れなくなった。

 ジュニア、本当にお疲れ様でした。

第五十一話 資格はあるのか・・・?

 お猿さん・・・我々にとってはニホンザルであるが、非常に不器用な動物である。自然界で暮らしているニホンザルを一度でも群れから離せば、元の群れに戻ることはできない。ひとたび、人の手で育てられると自然界に戻ることはこれも困難である。人は職業を選ぶことも変えることも選択の自由が与えられている。猿まわしの猿には自然界で生きるか人間界で生きるか選択の自由はない。


 阿蘇猿まわし劇場、河口湖猿まわし劇場と東西に劇場を構えことによって調教師(同時に芸人)の入門志願者も増えたがその反面去っていく者も多かった。調教師を続けて行くことは本当に厳しい。どんな仕事においても難しさはあるが、お猿さんと付き合うには言葉だけでなく心と心のつながりも重要なので、そもそも調教師を目指す者の人間性まで問われる。そんなニホンザルとともに長い時間をかけて絆を作り芸を育てて舞台に立てるようになるまでには地道でなくてはならないし辛抱が求められる。結局、挫折、人間関係のこじれが原因で調教師を断念する。

 去っていく者の理由も様々ではある。一番残念なのは調教師に従事するということはお猿さんありきの仕事であるはずだったのが、辞める時には一切相方であったお猿さんの存在は無視される。自分がいなくなると相方はどうなるのか心配するだろうが人間の都合だけで去っていくということがほとんどである。お猿さんは芸猿になった以上二度と自然に戻れない。だから、どん事情があろうとも残された芸猿は周防猿まわしの会で責任をもって面倒をみると決めている。相方を失った芸猿には可能なかぎり新しいパートナーを見つけ、引き続き舞台にたてるようにしているし、引退したお猿さんは生涯我々の手で飼育、引退後の生活を保証しノンビリゆっくり過ごしてもらっている。退社後、かつての相方を気づかい会いに来る調教師はほとんどいない。非常に残念であるけれど、十人に一人、果物を手に何度も相方のお猿さんに会いに来る方もいる。

 人間の都合で辞められるのはお猿さんにとっては本当に迷惑な話であり付き合う以上はもっと覚悟をもって欲しいと伝えている。覚悟があるかどうか見極めてコンビ結成が許される。そのため入門後でもすぐさまお猿さんに関わる仕事につけるわけではない。飼育はもちろん、部屋の掃除、餌やり、お猿さんに携わる全ての仕事には一切関わらせないのも、新人に自覚を育てたいからである。

 研修期間は朝から晩まで広大な劇場の敷地内をひたすら清掃してもらう。ここでコツコツとやれる者のみ次へのステップへ進める。その後、劇場スタッフの仕事を経て、最終テスト、最後のハードル越えは今や伝統的な儀式となっているが開演前の場内販売(主にペットボトルやコーヒーなどの販売)だ。10分足らずの短時間で30杯以上販売すれば合格となる。簡単なようで今まで一発合格者はいない。それに不合格だと次の試験のチャンスは一ヶ月後になる。先輩にもアドバイスをもらいながら売るための創意工夫を重ねるがチャンスをいかせるかは本人次第である。お客様の心を掴み、照れなく大勢の前で厚かましく、自分をさらけ出さない限り調教師としてのキップは掴めない。

お猿さんには選択の自由がないだけにそれに見合う我々でなくてはならない。

第五十二話 この人がいたから、今がある

 1997年12月5日、昭和時代最後の女性猿まわし調教師である重岡フジ子先生が引退した。 猿まわし復活二十周年の節目である12月2日を記念して山口県内五ヶ所でふるさと凱旋公演を行いこれを引退公演とした。

 露払いにチョロ松・五郎コンビが座長を務めさせていただき、音響、照明、舞台セット等は外波山さん率いる椿組にお願いし、公演中の舞台監督を椿組の関係者の吉木氏に依頼し快く引き受けていただいた。

 一番の心配事はチケットをどう売るかということであったが、熊本県と山梨県に劇場を構える中で、山口県光市の本社を守ってくれている節子会長や職員の石井さん達、そして山口県出身者の多い周防猿まわしの会関係者が、あらゆる縁をたどってチケット売りに奔走してくれた。山口県各地にいる周防猿まわしの会のファンや応援団、知人友人達が動いてくれたことで五ヶ所すべての公演を満員御礼で迎えることができた。ふるさとの皆さんの応援で実現したふるさと凱旋公演になった。

 初日の公演先に選んだのは岩国市である。岩国市は山口県の東端に位置し広島県に近い工業地帯で米軍基地もあるのが特徴で、私の中では正直を言うと一番縁の薄い地域だった。 会場はシンフォニア岩国で猿まわしを見ていただくのに最適の会場だった。日本体育大学在学中に山田良樹教授より紹介された同郷の釘屋氏に連絡をとり動いていただくことになった。釘屋氏は山口県岩国市で老舗の料亭を継承していていることもあり岩国市での交友関係も幅広く公演成功のキーマンと考えていた。大学を卒業してから疎遠になっていた私からの久々の連絡にも歓迎してくれ、料亭を訪問した際には家族も紹介してくださり、チケット販売や宣伝にたくさんの応援をくださった。

 周防猿まわしの会本拠地である光市公演は光市民ホール大ホールで行なったが、復活当初から応援いただいている地元紙『瀬戸内タイムス』はもとより周防猿まわしの会の地盤でもあるため地元の仲間の宣伝もあり1000人のホールもすぐにいっぱいなった。この光公演ではサプライズな来場者があった。私が中学二年生の時の担任の先生が見に来てくださったのだ。当時の私はもっとも血気盛んな時で、誰かれかまわず先生という先生に反抗し続け卒業する最後まで先生に対して心を閉ざしていた。本当に迷惑をかけっぱなしで、いつか、誤りたいと思っていただけに思いがけない再会が嬉しかった。その先生が家族で見に来てくださり大変喜んで下さった。それに加え、今も生徒達に「私が教え子である」と自慢して下さっていることがありがたく本当に救われた瞬間だった。

 徳山市公演は周南市文化会館で行われ、河口湖猿まわし劇場の建設に携わってくださった岸本先生の奥様の友人が中心になり公演成功のため尽力してくださった。この時に実は私の芸名について疑問が投げられた。「五郎という名前は名前の通り五番目という印象が強いため良くないのではないだろうか?」という意見をいただきその後数ヶ月間本当に悩んだ。 会社からも「であれば、周防猿まわしの会の周をとって周五郎だとか大五郎という名前はどうかな」といろいろ候補は出た。名前を変えることには真剣に悩んだが親父にもらった名前を変えるのにはどうしても抵抗があり、結局変更しないことにした。参考になるアドバイスをいただいたと思うが20年たった今考えると五郎のままでよかったと思っている。

 山口市公演が行われたニューメディアプラザ山口では小学生時代からの友人が山口県庁に就職していることで力を借りた。山口市公演ではまたまた驚くようなエピソードがある。 午前中と午後の二回の公演を行い、午前中の公演には山口市の老人ホーム等の施設の方達を招待したのですが、公演終了後、公演を見に行ったという方から私に電話がはいった。その電話の内容は80歳ぐらいのおばあちゃんだったと思うが、自分の遺産8000万円をチョロ松に寄付したいと言われた。お話を聞くとおばあちゃんにはお子さんが二人いらっしゃるみたいで、ではそのお子さんに残してくださいと伝えるとどうしてもチョロ松に受けとってほしいとの一点張りで、辞退したいとの意向を聞き届けていただけなかったが、スタッフより説得してもらいおばあちゃんにも納得していただいた。

 最後の下関市公演はシーモール下関というショッピングセンターで行われた。周防猿まわしの会復活当初からショッピングセンターのイベントとしてもたびたび呼んでいただいていて根強い猿まわしのファンも多い地域である。ただホールがないため特設催事場に前日よりまさしく手作りのステージを作った。子供からおじいいちゃんおばあちゃんまで様々な層のファン層に集まってもらい盛大な締めくくりの公演が行えた。

 初日の岩国公演の時に私は楽屋のモニターで大吉・フジ子コンビの舞台を見て釘付けにになっていた。気迫のこもった演技に客席は引き込まれ時を忘れたかのようだった。引退するには本当にもったいない。まだまだ学ばねばならないことがたくさんある。「ねんねん子守」「どじょうすくい」「月形半平太」と怒涛のごとくこれでもかと言わんばかりにたたみかけていく大吉・フジ子コンビの古典芸に圧倒された。通常、古典芸の演目を続けると間延びしてしまうものだが長年大道で培われてきた経験と技術は圧巻の一言で、太鼓の使い方のバリエーション、台詞の発し方から芸猿大吉との呼吸、重岡フジ子の一挙手一投足、見るものすべてが凄すぎた。初日の舞台は大吉・フジ子コンビの芸に圧倒され、その直後に舞台に出るのが怖かったのを憶えている。舞台監督の吉木氏よりこんなアドバイスをもらった。「五郎さんがいつか月形半平太などの古典芸にチャレンジすれば芸人としてさらに飛躍出来るんじゃないかなと思いましたよ。」その言葉通リ今私は古典芸に挑戦させてもらっている。重岡フジ子先生の引退公演にご一緒させていただき、一部始終を目撃した者としてその姿を継承伝えていかなければならない。

 引退後も本社にいるお猿さんたちの世話や小劇場の手入れ、本社の墓に眠っている歴代の芸猿たちの供養を欠かさなかった。「足を向けて眠れんけーね」と小劇場の庭に咲く草花を墓に供えて手を合わせる姿が日常となった。

第五十三話 無類の猿好き・・・野末陳平さん

 河口湖猿まわし劇場には様々なジャンルのお客様が来場される。そんな中で私には意外だった方が訪ねて来られた。野末陳平さんである。

 皆さんもご存知でしょうが、本職は放送作家、経済評論家であり参議院議員も三期務められ、落語立川流にも入門し、「立川流野末陳平」の高座名をもつなど多彩な活躍をされている方である。その、野末陳平さんは無類の猿好きらしく、お猿さんのいるいろんな施設をまわって楽しまれていた。河口湖猿まわし劇場にも最初はふらっと舞台を見に来てくださった。気さくな野末陳平さんとはすぐに親しく会話を交わせるようになり、誕生したばかりの劇場の知名度や大衆芸能としてどのような芸を目指していけばよいか率直に意見を求めてアドバイスをいただきPR活動にもご協力いただけるようになった。

 周防猿まわしの会も舞台芸能として発展していくために試行錯誤していた時期でもあり野末さんからは今国民が期待しているお猿さんの芸能を率直にアドバイスしてくださった。これまで我々が伝統芸能というスタイルで守ってきた路線だけでなくその垣根を越えて斬新な舞台を提供すること、お猿さんの可愛らしさを強調する工夫や、舞台の賑いを取り込むために多数頭の芸猿が出演する舞台を目指してはどうか。試みたこともない挑戦ではあるが率直に耳を傾け実践へ向け可能性を探った。

 大人になったお猿さんが複数頭同時に舞台に上がることは難しく、小猿同士の組み合わせでならば何組かでひとつのユニットを作ることができる。3頭でひとつのユニットを組んだ「アイドル3」、4組なら「アイドル4」と命名した。内容としては、保育園、幼稚園児の遊びをヒントに「電車でGO」や「かくれんぼ」といった日常の風景を舞台作りに取り入れた。猿まわしの集団としても皆様の認識を変えていただけるように集団としての名称も変えることになり「元祖お猿さん劇団」と野末先生に命名していただき本格的に始動した。
 周防猿まわしの会で鍛え抜かれ大人になったお猿さん達で何か出来ないかという話になり「コント3」というユニットを組んだ。「コント3」には一発ギャグやコントを取り入れた。
 話題を提供する企画として周防猿まわしの会の真のボス猿対決と題し、「元祖お猿さん劇団」のボス猿を決めるイベントを開催した。当時の阿蘇猿まわし劇場のボス猿代表「勘平・Dコンビ」と河口湖猿まわし劇場の代表「チョロ松・五郎コンビ」によるボス猿対決を行った。会場は野末先生の出身校でもある早稲田大学の大隈講堂をお借りした。7名の審査員には野末陳平さん、考古学者でもあり早稲田大学の名誉教授でもある吉村作治さん、当時から親交のあった内田種臣教授など早稲田大学の名だたる7名の先生に審査員を務めてもらった。ボス猿対決の内容は、チョロ松・五郎コンビが「和」をテーマに周防猿まわしの会の真骨頂である大技を中心とした十八番芸、勘平・Dコンビは「新」をテーマに当時の時事ネタでもあったタイガーウッズやマイケルジョーダンなどのネタを取り入れた一発ギャグで勝負した。結果は4票獲得した勘平・Dコンビに軍配があがった。
 多彩な人材を輩出する早稲田大学で行われたこの催しには野末陳平さんのファンや早稲田大学の学生さん達が多数集まり、元祖お猿さん劇団のお披露目ができたことは今でも光栄なことだと思っている。これまでの周防猿まわしの会ではありえない試みであり、長年積み重ねた伝統を壊すこのような企画が、実は新しい伝統を産み出す場になることを学ばせていただいた。伝統は大事に継承されなければならないが、時代に合わせた改革がなければその伝統も色褪せ飽きられ滅んでいく。周防猿まわしの会も例外ではない。
 日本で長年続いてきた貴重な芸能がたくさん消えていった。後継者がいないなど、理由は様々であるが、日本の土壌に根付いた文化が失われていくことは残念である。野末陳平先生には多忙なタレント業の中で周防猿まわしの会の発展のために気軽に支援の手を差し出していただいた。もちろんお礼もしたことはないし、求められたことはない。手弁当で素人集団の悩みに寄り添っていただいたことに感謝するとともに、この間の試みが我々の視野を広げ後々の活動の基盤になっていることに深く感謝申し上げたい。

 私自身、今まで大きく舞台を変えていくことや壊していくことに戸惑いがあり前に進めなかったが、劇場の舞台を変革していく上で大事なチャレンジであった。ちょっとした創意工夫で舞台は変わっていく、可能性は大きいし、それだけにこれからも終わることのない際限のない挑戦を続けていきたい。

 一度は譲ったボス猿の座をチョロ松が勘平から奪還する日は近い。

第五十四話 架け橋

 早稲田大学講堂でのボス猿対決は勘平に負けたが早くもリベンジの機会が巡ってきた。なんと第2ラウンドはアメリカロサンゼルスで決することとなった。

 毎年ロサンゼルスで行われているジャパンEXPO、つまり日米交流の記念イベントが20 周年の節目を迎え1999年11月開催されることとなり日本を代表する伝統芸能として周 防猿まわし会への出演依頼が舞いこんできた。周防猿まわしの会からは、勘平・Dコン ビ、チョロ松・五郎コンビが出演することになったため必然と「ボス猿対決第二ラウンド in ロサンゼルス」となったわけである。この時日本から着物ショー、忍者ショー、和太鼓と いった方達が招待された。今回依頼された方は、以前にも紹介したがめでたやの藤井信氏 とも親交がある方であったので藤井さんから打診をいただいた。藤井氏も餅つきパフォー マンスで出演したが、猿まわしの進行役と鳴り物で共演してもらうことになった。
 ロサンゼルスへ渡航するには様々な制約があり、クリアーしなければならないことがた くさんある。最初のアメリカ公演同様心配の種は尽きなかったが唯一救いだったのは藤井さんにとってロサンゼルスは第二の故郷のようなものでもありそのロサンゼルスには母親とも言えるキャサリン井上(みんなはキャッシーと呼んで肝っ玉母さんのような存在)の方がいた。キャッシーは当時85歳であったが、旦那さんはGeorgeさん、すでに他界されていたが三人の娘さん夫婦と沢山の孫たちに囲まれて生活していた。
 生まれ育ったのはアメリカコロラド州だが、両親は福岡県八女市出身であり遠く離れたアメリカでも日本を愛していた。太平洋戦争では日米の間で苦労された。収容所経験や財産没収、差別的な扱い苦難の時代を耐え抜きロサンゼルスの名物母さんとして国籍を問わず頼りにされた方だ。ペットは秋田犬で名前はそのままで『AKITINU』である。キャシーは現役バリバリで運転もこなしている。
 滞在中のチョロ松や勘平の生活等がもっとも不安視されたが、そのキャッシーの自宅に勘平やチョロ松と私たちを迎えてくださりロサンゼルスの拠点として安心して滞在することができた。一階の寝室には大きなベッドがあり、その側に勘平とチョロ松が滞在する檻を置いた。窓からはプール付きの庭がよく見える。そのプールでチョロ松も私と遊ばせてもらったが日本では体験できない経験にチョロ松も喜んでくれた。キャッシーの口癖は「No 心配ね」。ロサンゼルス滞在中も二週間で何百回聞いたかな。そう言えばキャッシーはトムクルーズ主演の『ラストサムライ』のエキストラで出演していることを自慢していた。

 そしていよいよボス猿対決第二ラウンドがジャパンEXPO20の最終公演で幕が開いた。 会場であるコンベンションセンターの客席は満席で立ち見もでた。オープニングはチョロ 松の猿まわし十八番芸八艘飛びから始まったが調整も良くチョロ松の動きも素晴らしかっ た。後半は、勘平・Dコンビのアメリカヴァージョンのタイガーウッズ、マイケル・ジ ョーダンといった一発ギャグでさらに観客のハートを掴み、勘平の猿まわし十八番芸竹馬 高のりも一発で決め公演は大盛況であった。ボス猿対決第二ラウンドの結果は、ジャッジ は英語が堪能な藤井氏が進行を務めたのだが、ジャッジの際の空気が何か違うなと私は感 じた。英語がほとんど分からない私でもこれはおかしいなと感じた。元々の審査基準も勘平とチョロ松のどちらの芸が良かったか?を決めてもらうことになっていたはずが動物芸 に優劣をつけるのはアメリカ人が嫌がるという理由でどちらが可愛かったか?という審査基準に変更されていて、藤井氏は何度も「KANPEI!‥KANPEI」とあきらかに勘平・Dコンビの方に拍手を多くするようにお客さんに誘導していた。結果はおのずと勘平・Dコンビに軍配があがった。その結果、チョロ松と私はいさぎよく負けを認め罰ゲームとして私が頭を丸めて帰国することになった。完璧に藤井氏やスタッフに私ははめられてしまった。(笑)

 このボス猿対決の真の敗者は周防猿まわし会かもしれない。このジャパンEXPOに招待して下さった方が我々との契約を守ってくださらなかった。行き帰りの手続きでは手違いが起こり特にロサンゼルスに行きはしたが帰る時期が決まらないという一幕もあった。そして約束したギャランティーを未だに支払ってもらっていない。様々手をつくしたが相手の方が一枚上であった。騙すより騙される方がましとはいうが騙された我々の甘い体質は改善してしっかりしなくてはと強く感じた。

 こうしてアメリカロサンゼルス公演は幕を閉じたが、キャッシーには本当にお世話になった。チョロ松との稽古や調整で苦労してナーバスになっている私に「Goro!No 心配ね」といつも声をかけてくれたことにどれだけ救われたか。

第五十五話 偉業達成! 歴史に名を刻む

 20世紀も残りわずかとなった1999年の師走は間もなく迎えようとしているミレニアム(千年紀)の幕開けということで日本のみならず欧米を中心に世界各国でカウントダウンイベントが行なわれ盛り上がっていった。

 日本のテレビでも20世紀がどんな時代であったか特集番組が多く組まれた。マスコミから周防猿まわしの会への問い合わせが急増した。チョロ松の出演依頼やSONYウォークマンのCM映像の使用許可の問い合わせだ。初代チョロ松の出演依頼に関しては熊本県の阿蘇猿まわし劇場の施設で引退を謳歌してのんびりしているし、しかも高齢(当時23歳)なので出演に関しては遠慮させてもらった。代役可能な番組には二代目チョロ松が出演した。

 クリスマスが終わってからは連日、20世紀を題材にした特番が放映されている。CMに関する出来事に限らずありとありゆる分野の番組でSONYウォークマンのチョロ松が上位の話題に取り上げられたので驚いた。大晦日に放送された20世紀の記憶に残るCM(タイトルは正確ではありませんが)といった番組のランキングではなかなかチョロ松が出てこなかったので意外に思っていたらエンディングで堂々の1位、SONYウォークマンのチョロ松が選ばれた。民放5局ある中で同時間に出演していたこともありすべて把握は出来ていないが、あらためて相方チョロ松、SONYウォークマンCMが日本中に感動や驚きそして激動の20世紀において国民に癒しを与えたのではないかと思う。まさしく『チョロ松』という名前は日本の歴史に名を刻み、周防猿まわしの会の歴史においても名猿であったことを再認識した。しかしこの勢いは21世紀を迎えても衰えることはなかった。間もなくしてまたもチョロ松が快挙を成し遂げた。SONYウォークマンのCMが20世紀のCM殿堂入りしたとの報告。数百万ものCMがある中で10年に一度審査があるらしいのだが、とにかく10年間で5作品しかCM殿堂入りしないというのだから本当に名誉なことである。

 その後も、20世紀に関わる特集にもたびたび取り上げられた。時代を象徴する存在として数々の資料に掲載されている。記憶は薄れても歴史は語り継がれる。私もつい最近まで知らなかったのだが高校の歴史の教材にも取り上げられていたことを、たまたま、猿まわし劇場でアルバイトしてくれている子が教えてくれた。

第五十六話 野生の魂(プライド)と切符

 20世紀から21世紀へ、チョロ松や私にとってどんな時が待っているのか。

 20世紀末の15年間、私は青春期真只中、周防猿まわしの会に入門し、一躍スターダムに乗り上げたチョロ松と共に大きな波に乗って一気に押し流された。一大学生には稀であろう劇的なドラマの渦中でただがむしゃらに追われる仕事をこなしてきた。マネージャーなしで一年250日以上の猿まわしの現場を約束通リにこなしてきた。一夜の内に営業車で、名古屋市から仙台市に移動、東京都内のホテルの仕事を終えて、明くる日は鹿児島市でのテレビ取材に出演、苦しく辛かったけれどチョロ松が支えてくれた。チョロ松の堂々とした姿勢が舞台に登場するだけでも多くの観衆を唸らせた。その迫力が未熟な私を補いチョロ松ブームは持続した。初代チョロ松から二打目ジュニアに代は変わったが、迷いの多い私を右往左往しながらも一本の道に進ませてくれたのはチョロ松がいてくれたおかげである。そして父義正が命がけで残した周防猿まわしの会の力になれたらという思いが強く、脊椎を損傷した体だが百人力の力を発揮しようと思いを持ち続けることができた。

 忙しい中、一瞬、余裕が生まれた時がある。チョロ松が病と戦った時である。チョロ松の生命力と獣医さんにすがるしかないそんな時、チョロ松の回復を願いながら、立ち止まって過去や自分の人生を振り返ることがあった。大学卒業後、教員になった同級生や、恩師富永先生と会うたびに、自分の希望を叶えて人生を歩むことが羨ましかった。叶えられなかった希望に思いを馳せる自分がそこにいた。もちろん、やり直すことも、軌道修正することもできないし、自分に与えられた道を歩んでいくしかないと言い聞かせる自分がいた。

 2000年元旦、私は21世紀にやるべきテーマを自分自身に掲げた。『野生の魂(プライド)を守る』こと、それが私の仕事であると。プライドとは野生の尊厳。野生動物の素晴らしさによって猿まわしという芸能が続いてきた。お猿さんは人間のペットではないし、人間のためのロボットでもない。知能を発達させ文明を築いてきた人間が自然界の支配者として君臨しているように見えるけれど、そのようなスタンスは自然界からの逆襲にあうだろう。なぜそう思ったのか。実は私自身がこれまでエゴや傲慢でありお猿さんを振りまわしてきたからだ。まわりからちやほやされたておだてられると勘違いして「私がお猿さんに芸を教えている」と思い上がっていた。率直に認めなければならない。今ようやく私はお猿さんと真摯に向き合いお猿さんから学ぶことの大切さに気付いたような気がする。お猿さんから学ぶこと、そして熱心にお猿さんと係る猿まわしの若い調教師から学ぶことを大事にしたいと思っている。

 私が尊敬するある有名人の言葉であるが、「30代を走り抜いたから、40代の切符が貰えたんだと俺は思っている。だから今、今度は60代の切符を貰うために俺は走っている。」私も40代の切符を得るために走ろうと決意した。大きな潮流に押し流された20世紀に別れを告げ、チョロ松とともに走る21世紀がいよいよ始まった。

第五十七話 失敗も成功の内

 「主役はお猿さん」という考え方が周防猿まわしの会の根っこにある。我々はそこから出発し、猿まわしの舞台を探ってきた。今回はその歩みの一端を紹介してみたい。

 河口湖、阿蘇両劇場ともに一回の公演時間は40分である。先代の会長村崎義正が阿蘇劇場オープンの時に決めたものであるが、長からず短からずお客様が集中して楽しめる理想的な40分であると思う。舞台は二組(お猿さん一頭、芸人一人でペアを組む)のコンビで行う。経験と実績が認められた「真打ち」、舞台経験は浅いが小猿との演技が際立つ「前座」が登場してそれぞれが任されたパーツを披露する。初期ははっきりと役割が分かれていた。

 その舞台構成が変わる転機がやってきた。ある日、河口湖の舞台を古川顧問が鑑賞していた。その日はくり松・かき松コンビとチョロ松・五郎コンビの舞台だった。まだまだつたなく、かわいらしい小猿・くり松の舞台に成猿のチョロ松が乱入するという構成の舞台だった。その舞台を見ていた古川顧問から「台本をしっかり作りこむことが必要不可欠だが、二組の舞台でもドラマを作ることが出来るんだね。」その古川顧問の感想がきっかけになり台本作りを目指すようになった。

 お猿さんが耀いてなんぼうの世界である。人間の芝居と違うのは、野生の猿である以上うまくいかないのは当然だということ。それさえも台本にしようという試みだ。調教師の思い通リに動かなくてもお猿さんが讃えられるそれが今の目標になっている。失敗も成功の内と言えたなら人もお猿さんもリラックして楽しい。また、小猿も大猿もかわいいし、キャスティング次第で台本が楽しくなる。ただし、立ち居振る舞いつまり、基本的な芸が整わないなら、目標の舞台は絵に書いた餅になる。お猿さんも調教師もここだけは真剣勝負で譲れない。型があっての型破りだ。さり気ない仕草に心が動く。そこから様々なドラマが生まれてくる。その可能性を古川顧問は指摘してくださったのだと思う。

 ちょうど時を同じくしてお客様からコンビ名は何故、人間(芸人)の名前が先なのか?という意見がでた。入門した当時から「五郎・チョロ松コンビ」として何の違和感も持たずにきたので、その指摘に感心した。「主役はお猿さん」なんだから「チョロ松・五郎コンビ」が正解であろうということで周防猿まわしの会も方針転換、それ以来、お猿さんの名前を先に表記することになった。だが、さらなる誤解があって両方ともお猿さんの名前だと勘違いしている方がたまにいらっしゃる。お客様がお猿さんに向かって「チョロ松!・・・五郎!・・・」と声をかけ、「五郎は私です。」というと会場は爆笑に包まれるのだ。

第五十八話 受け継がれる帝王学

 二代目チョロ松ジュニアは14歳を迎え、引退の目安としている15歳が近づいてきた。ニホンザルの寿命は厳しい自然界では20年前後、飼育環境が整い、食料に困ることのない我々の施設では30年前後が普通である。猿まわしの芸猿として15歳まで頑張り、その後は若い猿達に託して年金生活に入る。そろそろ次の後継者をと考え始めた時に、一頭の現役の芸猿が後継者として浮上してきた。6年コンビを組んでいた相方が調教師を辞めたことによって、その芸猿も若くして相方を失い取り残されることとなった。まだ7歳と若く、体格にも恵まれた猿だ。気性の激しくなる反抗期が始まっているので誰でも相方になれるわけでない。しかし、引退するには勿体無いと思い「私が相方になろう」と手を挙げた。ジュニアや他のお猿さんに何かあった時のことも考えて私が引き継ぐことになった。

 そのお猿さんを預かって一年、チョロ松の名に恥じない芸猿に育ってきたので正式に三代目チョロ松としてデビューさせてもらうことになった。
 平成13年11月1日、チョロ松ジュニアは引退し、三代目チョロ松にバトンが渡った。元気な内に引退生活でゆっくりしてほしいそれが私の信条である。 ジュニアとコンビを組んだ約10年間というものは本当に濃い年月であった。二度にわたってのアメリカ公演、芸術祭参加、北海道巡業、ふるさと凱旋公演、河口湖猿まわし劇場オープンと様々な公演や舞台を経験させてもらった。最も大きな収穫はジュニアが教えてくれたことがきっかけとなり調教師としてのスタートラインにつけたことだ。調教は相方である芸猿との会話である。

 振り返ると、初代チョロ松と始まった調教師としての人生は、調教経験の無い私と、立派な芸猿に成長していたが、調教師に向かってくる悪い癖を持つチョロ松と協力して舞台を行わなければならないという私には荷の重い課題があった。いつ何時、激しい挑戦を挑んでくるかわからない緊張感にけじめをつける覚悟が求められた。二代目ジュニアも同じ姿勢で臨んでしまい、相変わらず自分の考え方を一方的に押しつけた。それが間違いだということを気付かせてくれたのがジュニアであった。こちらが強く向かえば相方も強い姿勢で構える。憎しみは連鎖するが信頼の姿勢は新しい信頼を育てる。義正親父の遺言に「自分は人を憎んで失敗した。お前たちは同じ道を歩むな。人を疑う前に自分を疑え。」と残してくれた。重岡フジ子先生からも「五郎君、ジュニアの話を聞いてあげなさい。」と教えられた。調教師の役割はお猿さんに芸を教えることだと思っていたが、お猿さんから学ぶことの大切さを教えてもらった。ジュニアに話しかけると嬉しそうに口をパクパクさせて話しかけてくる。これが大切なのだ。

 ジュニアは芸猿として逆境やピンチの時に強かった。
スキー場のイベントに出演した時、雪で作ったステージはツルツル滑り、人間の私ですらまともに立つことの出来ないステージでそれでもお客様に喜んでいただける最低限の演目をなんなくこなしてくれた。ぐらぐらと動く安定していないステージの時もあったが、もう見るからに不可能だと思うステージに限っていつも以上の力を発揮してくれて私を助けてくれた。ここぞという時に頼りになる相棒(サル)であった。サル社会なら満票で『ボス猿』である。
 付き合いはじめた頃は幼いから当然であるがちょっと頼りなさもありとても後の片鱗すら感じなかった。
 東京都立川に事務所を置いていた時代はジュニアも含めて芸猿は2、3頭しかいなかったので大した争いもなかったが、河口湖猿まわし劇場に拠点を移すと芸猿数が一気に増え必然的にボス争いというものが生じてきた。ジュニアはいつの日か「俺がボスだ」と言わんばかりに猿舎を守る存在になっていた。猿舎のまわりにはお猿さんたちの天敵がいる。例えば蛇が現れたりすると若いお猿さんたちは怯えて出てこないが、ジュニアはそんな時こそ隠れるのではなく芸猿たちに警戒音を発し常に前に出てみんなを守ろうとした。
 ジュニアが阿蘇猿まわし劇場の猿山から選ばれたお猿さんであることを以前にも紹介しているが、その猿山に『ひでお』という名前の双子の兄弟がいた。『ひでお』は芸猿として舞台に上がることはなかったが、ジュニアとは対照的に猿山の万年ナンバー3としていつも『宇宙人』というボス猿の後ろに隠れていたずらをしていた。「猿山の嫌われもの」的存在であったひでおが、晩年、念願のボス猿になり阿蘇猿まわし劇場の猿山を守ってくれた。西は弟が、東は兄がボス猿として君臨したのだ。

 ジュニアというお猿さんを象徴するエピソードがある。舞台の出番のため三代目チョロ松を猿舎に迎えに行くと、隣の部屋にいる引退したジュニアが「俺の出番だろ。俺が出るよ!」と言わんばかりに自己主張する。私は「ジュニア、お前はもう引退したのだから頑張らなくていいんだよ」と言うと、出てきた三代目の首根っこを掴み「お前の出番はまだ早いんだよ」と怒っていた。何年も そんなことが続いていたが舞台が好きだったのか、もしかしたら一生現役を貫 く気持ちがあったのかもしれない。
 平成26年4月27日、ジュニアが亡くなった。享年27歳。
 翌日には不思議なもので新しいボス猿が台頭していた。三代目チョロ松である。体格がずば抜けて恵まれていることもあるが、ボス猿としての風格も出てきてボス猿としてのオーラもある。それを考えるとサル社会においてもボス 猿になるための帝王学というものが受け継がれているのかもしれない。

第五十九話 母

 チョロ松物語に欠かせない登場人物、猿まわしの復活を父義正と共に歩んできた女性、母、村崎節子のことを皆様に紹介する時が巡ってきた。生前親父はどんな時も「節子、節子」と名前で呼んでいた。「おい」「お前」「あんた」などと呼んだことが無かった。父が母節子に感謝し大切にしていたんだなと私が最も感じていたやり取りであり、この強力な援軍が無くては貧困のドン底だった村崎家を守れなかっただろうし、猿まわしは復活できなかった。貧乏クジを選ぶ女性は少ない。その少ない女性の一人が母節子である。

 私は村崎義正・節子夫婦の五人兄弟の五男として生まれ育った。長男から四男まではほぼ年子であったが四男の兄と五男の私は5歳差離れていた。10歳近く年の離れた長男、次男からは可愛がられた記憶があるが、三男、四男からは虐げられた記憶の方が強く残っている。五人目は妹と願っていた中での私の誕生を快く思っていなかったのか、ことあるごとに兄たちは私に「お前は島田川(地元光市に流れる一級河川)で拾われたんだよ」とからかったが、真剣に受け止めていた頃もあったくらいトコトンいじめられた。
 私が物心がつく年齢になった頃には兄達が受験等に追われる中で、洗濯、炊事といった雑用のほとんどが私にまわってきた。なかでもご飯を炊くのは私の日課になっていて、サボって炊事をやらないと三男か四男が親父に言いつけ私は親父にこっぴどく怒られるという日々が続いた
 村崎義正家の食卓は一人づつ取り分けてあるような上品な食事はまずなく、出てくるものをとにかく早く食べたもが勝ちで弟だから残してもらえるというようななまやさしい状態でなく、まさしく野生の生存競争と変わらない。食べたければ強くならなければいけない。泣きながらでも命がけで食べていたが、体格の違う兄貴達に当然かなうわけもなく子供ながらに考え抜いて食べる手段を考えた。それはおかずが出てきた瞬間に自分が食べるもの全てに唾をかける。すると兄貴たちはすごい剣幕で怒るが私の唾のかかったものにはさすがに手をつけない。このことに味をしめ可愛げのないことを繰り返したためか兄達に可愛がられるわけもなかった。挙げれば数えきれないが、兄弟喧嘩で悔しい思いをした腹いせに、山口県の実家の柱に『三男(実際は名前が書かれていますが)のバカ、四男のバカ』と悔しさを込めて刻んだ跡が今も残っている。
 五人兄弟ならこれくらいの葛藤などあって当然だと思われるでしょうが当事者の私にはキツくて苦い経験だった。

 こんな五人兄弟の生みの親が母村崎節子である。 一人くらい娘がほしい。両親の願いは叶わなかったが、娘がいたなら節子の人生も豊かになったに違いない。息子の教育はいざとなったら親父の出番だが、母節子は様子を心配そうに暖かく見守ってくれた。そして、人生一貫してこの姿勢を貫いている。最愛の夫は56歳で旅立ち、血気盛んな息子達の葛藤が熱くなりすぎないように平和の象徴として猿まわしの会の真ん中に座り支援を惜しまなかった。日本に二つの劇場を持つ息子達が自由自在にとびまわれるように光市の本部を守り続けている。
 また、波乱万丈の人生を送ってきたお袋という人は楽をすることが大嫌いで、劇場がシーズンになると阿蘇猿まわし劇場に山口県の本部から自ら運転する車で片道約350キロを移動し、職員さんと一緒に汗を流し、厨房にたったり掃除をしたりととにかくじっとしていることがなかった。時間が空くと劇場の舞台を観賞し、頑張っている芸人さんに声をかけることを忘れなかった。猿まわしの肥やしにしてほしいと大衆演劇の観劇を盛んに勧めてくれた。

 最近、母節子と会い、親子の時間をゆっくり過ごした。下松市の健康パークで温泉に浸かり、お袋お勧めの大衆劇団の一座の公演を楽しんだ。新鮮な魚を少なめだが美味しそうに口に運ぶ。夫である村崎義正を失って25年間、息子は5人、親戚も居たが基本は一人で生きてきた。息子達兄弟間の争いに身を置き、近年は私も母節子と電話で話すことさえ出来なかった。故郷光市で久しぶりにお袋とゆっくりすることができた。
 お袋から勉強になるからと散々勧められていた大衆劇団の公演をようやく見て、その素晴らしさに感動した。猿まわしを生業とする私にもこれだけの追っかけのファンが付く訳もわかるし熱演に引き込まれた。
「お袋明日も健康パークにいくかね?」と尋ねると
「劇団を観たいんかね〜」と返してきた。
これまでお袋が勧めても全く興味なしを決め込んでいた私にお袋は仕方がないねくらいの素っ気なさである。

第六十話 母節子と常吉

 2014年の2月23日朝一番、今年も富士河口湖町河口にある浅間神社に参拝した。
 富士山の日であり、おやじの命日が同じ日で特別の思い入れが私には強い。前夜書き終えたチョロ松物語の第六十話の内容がしっくりいかない。そこですべての内容を白紙に戻して書き直すことに決めた。参拝して気持ちも入れ替わり河口湖で人気あるカフェ「シスコ」で原稿に向かった。

 村崎家に嫁いできた母節子は本当に苦労と苦難の連続だったと聞いている。村崎家に限らず戦後の日本は厳しかった。その中でもどん底という言葉が似合うのが節子の嫁ぎ先だった。夫の義正には七人の兄弟姉妹がいて、義正は次男であったが親代わりをしなくてはならなかった。父は病死、働き者で優しい母は祖父との折り合い悪く村崎家を追い出された。その祖父も事業で成功を収め資産家に成り上がったが他界して、気づけば十代の義正に村崎の命運がのしかかってきた。甘く育てられた義正の兄は人が良いのに乗じられて財産をむしりとられた。兄弟を養育し学校にあげ社会に送りだすことが義正の使命となった。
 にっちもさっちもいかないギリギリの家に救いの女性が現れたのだ。そして五人の息子も産まれ、合わせて12人の家庭を支えてきた。若いのに一家を守るために、リヤカーを引き廃品回収にまわった。隣の町まで十数キロあるがリヤカーを引き家から家を訪ねて廃棄寸前の品物を買い集めた。そのバイタリティ溢れる姿に多くの人から良くしてもらったと聞いた。同情かも知れないがその同情がなければ家族が餓死してもおかしくなかった。なりふり構わず毎日を生きた。突然、長男が重病に冒された。当時、その病気の治療法はなく、命は取り留めたとしても一生大きな障害を抱えて生きなければならない。どん底から這い上がるどころかさらに突き落とされた節子と義正だった。

 義正は苦しんでいた。なぜ蔑まれ貧しいのか、誰も答えを教えてくれない。どうしたら自信を持ち人生を歩めるのか、いやその権利が自分には認められていないのか。小学校さえ行けなかった義正にからくりなどわからない。生き別れた最愛の母に会いたい。母の噂を聞くと訪ねるがそこにはいなかった。自暴自棄だったとよく話していた。飲んだくれて節子とも大喧嘩をした。瀬戸際の村崎義正がこれらの難問をいかに紐解いたかは義正自身が後に執筆した著作に詳しく書いているのでそれを読んでいただきたい。

 「命は鍛えに鍛えて輝く」と義正の墓標に節子が刻んだ。
 その通リ、村崎家は大逆転で再興した。村崎義正著(筑摩書房から出版)「砂と雷鳴」という本を執筆した。原稿を残したが一冊の本になる前に義正は他界した。ほどなく、長男が編集者として活躍された山田さんの協力を得て出版にこぎつけた。この本に描かれているのは義正と節子が子育てをバネに未来を切り開くドキュメンタリーたっちの物語だ。

 周防猿まわしの会復活後、節子は「義正・常吉コンビ」のマネージャーとして全国一緒に飛びまわり、義正の世話だけでなく特別に可愛がっていた芸猿常吉のバックアップに夢中だった。常吉というお猿さんは調教師である私でさえ目を合わせた瞬間に後ずさりをしてしまうほどの体格と迫力を持っているにもかかわらず、お袋はそんな常吉を恐れることなど眼中になく本当に我が子のように接した。

 お袋は輝いていた。

 1985年、ちょうど私が入門した時でもあるが、山口県の地元テレビ局が義正に焦点を当てたドキュメント番組を制作した。『モンキーブルース』である。優秀作品として全国放送もされた。極寒の北海道稚内市の百貨店の仕事に呼ばれて行った時の宿泊ホテルで再放送されていて偶然見たことをよく覚えている。
 『モンキーブルース』は父義正と入門したばかりのニホンザル愛吉とが作り出す絆を描いたドキュメントなのだが、親父は臆病で気の弱い愛吉に苦労し、基本芸の習得に通常のお猿さんの二倍も三倍も時間を要した。愛吉が芸を覚えた瞬間「愛吉、やった!よく頑張った!お前もようやく峠を越えたな!」と抱きしめると、日頃なかなか声も出さない愛吉が初めて「ホオー」と答えるシーンがある。今でも忘れないがこの感動のシーンには初めてお互いが認め合い、コンビとして出発できた瞬間が描かれている、名場面であり心に残っている。
 その直後、愛吉を、お袋と義正が協力して一緒にお風呂に入れてあげるのだが小猿一頭にバスタオル二枚も使う親バカぶり、愛吉と親父とお袋三人で、ビールで乾杯し、そのビールをガブガブ飲んでいる愛吉に対し親父は「そうか!お前は大物になるの」と高笑いしているのだがいつも親父の傍らにはお袋がいた。それにしても五人の息子を育て、七人の兄弟までも育て、いやというほど子育てをしてきたにも関わらず、懲りずにニホンザルの子育てまでしている。

第六十一話 チョロ松・五郎コンビ落選する。

 調教師という職業は本当に難しい。一頭のお猿さんを調教できたからと言って調教が理解できたとは言えない。調教師になって十七年にもなり当然わかっているはずなのにまた同じ過ちを繰り返す。当時のノートには自分の失敗談が溢れているけれど調教と真剣に向かい始めた自分の姿があった。

 二代目チョロ松から三代目チョロ松にバトンタッチしたもののなかなか納得いく段階に到達していかないもどかしさから調教師としてはやってはいけない間違いを犯してしまう。調教師である私の悪い癖でもあるが、どうしても二代目チョロ松のいい時の芸をイメージして比べたり、同じようなレベルを求めてしまい、知らず知らずのうちに三代目に負担をかけてしまっていた。例えばこんなことがあった。旅番組の収録で歌手の小林幸子さんが来場した際に自分たちの実力以上のことをやろうとしてしまい、舞台人としての良い意味での緊張感であればよかったのだが、自分の足元も見えないぐらいの緊張感が出てしまい、その結果チョロ松との呼吸が合わず、「猿まわし十八番芸竹馬高乗り」の最後に竹馬をしっかりと受け止めることが出来ず、チョロ松は3メートルの高さから落下、怪我をさせてしまった。

 私の経験上、舞台上で起きるミスや失敗と言われるものの大半が人間側のミスであったり人間の弱さから起きる。お猿さんの成長に目が行きがちだが本来は人間(調教師・芸人)が強くなることが不可欠なのかもしれない。

 2002年12月2日、周防猿まわしの会が復活して二十五周年を迎えた。その記念に東京都内で公演を行うこととなった。祝いだがそれをバネにステップアップしたいそういう催しである。そのために、出演コンビはオーディションで決める。年功序列や経験年数、あるいは世間への認知度などで選ばない。審査員は、会社役員3名、古川顧問、田口アドバイザー、めでたや藤井氏、椿組外波山(とばやま)先生の7名が務め、決して個人的感情を挟んだり同情したりということは一切無しの審査で、各審査員が三組づつ投票し、投票数上位三組が出演することになる。

 年末、河口湖、阿蘇に分かれているいるメンバーすべてがオーディションの行われる阿蘇猿まわし劇場に集結した。オーディションの内容は各コンビ5分以内のネタを披露する。ネタに関しても制限はなく、とにかく本人がコンビとしてやりたいことをやる。衣装や舞台の道具もあるためそれぞれが協力出来ることは助け合いながら12月のオーディションに向け準備した。チョロ松と私は今までのチョロ松・五郎コンビにないキャラクターで攻めてみようと思い、当時流行だったアニメをモチーフにコント仕立てにしてオーディションに臨んだ。当日のオーディションには新人コンビからベテランコンビまで10組のコンビが参加して競う。舞台外では今までにない先輩後輩を越えたオーディションに向けての思いが見えていた。

 結果はチョロ松・五郎コンビは見事落選。他、落選した芸人たちのへこんだ場面もみれた。出演メンバーは勘平・Dコンビ他三組のコンビが選ばれた。落選をしたことで私の闘志は燃え上がった。おかげで今も、自分の芸に納得ができずチョロ松と舞台に立つことが、生きるための原動力になっている。芸の道に終わりはないというけれど、全くその通りだ。周防猿まわしの会の25周年記念公演はさらなる高みを目指す私とチョロ松の出発点となった。

第六十二話 オーディション落選の五郎台本を書く

 周防猿まわしの会結成二十五周年記念の公演は出演三組がオーディションで決まった。勘平・Dコンビ、勇次・常次コンビ、そして「とまと・Mさんコンビ」。あれチョロ松の名前が無い。不甲斐ない私のせいで落選となった。周防猿まわしのトップを走っていたチョロ松が記念公演に選ばれなかったことは、悔しさもあるけれど悪いことではないと誰かが慰めてくれたが逆に無念さが倍増した。その私にまわってきた役割は台本と演出を行うこと。それも、90分という長い公演に挑戦することになっていたので、お客様に厭きさせず楽しんでいただくことは難しい。重圧のかかる大役だった。

 芸術祭出演の時もそうだったが、私を支える演出グループを結成して、様々な角度からアドバイス・協力を下さった。演出補として古川顧問、田口アドバイザー、そして椿組の外波山文明さん(以後、外波山さん)が名を連ねて下さった。それに餅つき「めでた屋」の藤井師匠はさらに目の届かぬところを勝手連でサポートして下さった。心強い応援団である。
 ところが、田口アドバイザーからは公演が決まった時点で釘を刺された。「二十五周年にふさわしい、周防猿まわしの会にしか出来ない猿まわしの舞台、これぞ猿まわしだという舞台、まさしくタイトルは『THE 猿まわし』…これしかない」と私に見せるいつものドヤ顔で勝手にタイトルを決められ、さらなるプレッシャーを与えられた。
 古川顧問からは「日頃、年中無休で阿蘇と河口湖に劇場を構えている中では、新たな芸への挑戦を実験的に試すことができないので、この舞台こそ新しい見せ方を目指すことができる。これから10年、20年、長く定番として使える芸の見せ方を発見しようではないか。」と提案された。 外波山さんには演出に始まり、音響、照明、美術、舞台全体に関わることを椿組あげて協力いただいた。気になるところは調教師とマンツーマンでとことん演技指導を行ってくださり、その執念に、出演コンビも舞台作りの厳しさを嫌というほど味わった。舞台作りについて素人同然の私には本当に心強かった。

 台本作りの要は三組のキャラクターを活かした組み合わせを行い、起承転結を基本に据え緩急をつけていく。ピエロ役をやらせれば周防猿まわしの会でもピカイチの勇次・常次コンビを抜擢することにより構想がスムーズに進んだ。第一部オープニングは現代風ヒップホップ系と1960年代流行したヒッピー系を融合した内容に書き上げた。二部は入学シーズンでもあったので、ピカピカの一年生バージョン、当然ここもボケ役は勇次・常次コンビが熱演した。三部は、オーディションの内容を取り入れ、出演コンビ三組のそれぞれの持ち味を生かした名作劇場を並べた。この公演では、勇次・常次コンビの人気作品となった忍者のパロディコント「忍者ハッタリ君」を初めて上演した。勘平・Dコンビは「ヒーロー戦隊サルヤマン」を上演した。「サルヤマン」はもともとアニメ「鉄腕アトム」が生誕何十周年と話題になっていたので、私からDさんに何か子どもたちに向けてオリジナルヒーローものを作ってみないかと提案したところ、それではとDさんが新作を書き下ろしたことから生まれた。その後、長きにわたり劇場の人気作品になり、今や後輩達が各々の個性を生かしたオリジナルサルヤマンが展開されるまでになっている。 三部と四部の間をつなぐのにお猿さんが舞台上に存在しない時間がどうしても出てしまう。これを解決するために古川顧問から「着替えをお客様の前で見せればいいんじゃないの」というアドバイスをいただき、今までにない斬新な演出を入れてみた。それを私たちはモデルチェンジと名付けている。
 そして四部・エンディングは周防猿まわしの会の真骨頂でもある『猿まわし十八番芸』で締めくくる。
 20ページ以上に及ぶ記念公演の台本を皆様の協力で書き終えた。稽古を進める中、台本を数カ所修正した。とくに二部も三部もコント的要素が多いため目先を変えたいという意見から急遽新人コンビを抜擢することになった。デビューしたばかりの三才の小猿、くり松と調教師、かき松コンビで、時の華真っ盛りで、喝采を浴びた。

 公演当日、劇場のロビーには多くの方からお祝いの花を贈っていただいた。公演場所は外波山さんの紹介で演劇の聖地である下北沢にある下北沢駅前劇場を使わせていただくことができた。収容人数200名弱の劇場だが、芸術祭で使用した曳舟文化ホールとよく似て猿まわしの公演にはうってつけの見せやすくて広さも手頃な劇場である。公演は2002年4月14日、15日の二日間行われ、公演時間は19時開演の90分公演、満席のお客様にご来場いただいた。
 そんな中一際目立つ白い花が届けられた。本来、このような花は出演者の名前か周防猿まわし会宛に届くものらしいが何故か出演者ではない『村崎五郎様』宛で届いていた。送り主は新宿二丁目でも当時一位二位を争うほど有名なバーのオーナーママからだった。友人に連れられて何度か行っていたお店ではあったが正直私はちょっと苦手としていた。しかし友人のいたずら心もありオーナーに「五郎さん、下北沢で公演やるんだよ」と情報を流し、義理堅く公演当日花を贈ってきて下さった。それだけでなく公演もお店のタレントさんを十数人引き連れて来場していただき会場全体に明るさが広がった。そういえば、かつて函館公演の際にも函館を代表するスナックのママが公演チケットを数百枚裁いてくださり、連日弁当を届けて下さったことを思い出しました。

 今回の公演は客席側から見させてもらい、芸猿、芸人ともにそれぞれの持ち味を十分に発揮してくれたおかげでお客様も本当に喜んでくださり評価は上々であった。舞台作りでは力不足は否めなかったが、人間の舞台で百戦錬磨の外波山さんから基本から学ばせていただく絶好の機会となった。時にはある芸人から「今までの稽古の中でこんな外波山先生の鬼のような表情をみたことがない」という声がでるぐらいの熱血的な演出指導、外波山さんの培った経験を惜しみなく注いでくださった。主催する周防猿まわし会側がこういう形での公演の経験が少ないことや、舞台にかかわる人たちとの付き合い方を知らなさすぎて、今回の公演に携わるスタッフの方へのフォローがまったく出来ておらず全面的に公演をバックアップして下さった椿組、並びに外波山さんに恥をかかせることもあった。公演というのは舞台だけでなく搬入から搬出、解散までと知る。猿まわしとしての本物の芸能集団になるためには勉強することは山ほどある。『THE猿まわし』への道のりへは果てしなく遠い。

第六十三話 こけら落としに穴をあける

 下北公演のオーディションに落ちたことで、台本を書くことになり、舞台の裏方の仕事を経験してその後のチョロ松・五郎コンビの課題がたくさん見えてきた。

 余談ではあるが、実は、努めなければならない舞台をすっぽかしたことが過去にある。

 話はさかのぼること29年前、1986年(昭和61年)9月7日、猿まわし史上初の常設劇場、猿まわし小劇場が猿まわしのふるさとである山口県光市にオープンした。小劇場の玄関には猿まわし復活にご尽力いただいた俳優の小沢昭一先生直筆の立派な看板が架けられた。収容人数約100名余りのこじんまりとした劇場ではあるが、ステージはチョロ松達芸猿がのびのびと縦横無尽に動くことができ、何よりもステージと客席の敷居があるためチョロ松達がお客様との距離感の中でストレスを感じず演技をすることができた。また稽古場として活用でき調教等の効率も上がった。それまでは大まかな稽古は道路や空き地等を利用し、どうしても詰めなければいけない仕上げの稽古や調教は屋内の事務所の空いてるスペースや家の中で稽古をした。団体のお客様から予約が入ると庭の敷地内や海水浴場の一角で団体のお客様を受け入れて公演を行っていた。

 こけら落としには周防猿まわしの会復活当初から携わった方や市民の方たちを招待して行われた。当日、私は大事件を起こしてしまった。前日、舞台の構成について親父から指示があり、当時周防猿まわしの会の十八番芸竹馬高乗りに関してはチョロ松がもっとも安定しているということでチョロ松がとりをつとめることになったことに四男の兄からクレームがついて大喧嘩になった。新人コンビのチョロ松・五郎コンビがとりというのは問題だということであった。納得が行かなかった私は、こけら落としが始まる直前にボイコットして舞台に出演せず公演中に劇場の外にでた。急遽、竹馬高のりの開発者でもある常吉・義正コンビが兄弟喧嘩の尻ぬぐいでとりの舞台を務めてくれたみたいであった。

 一生に一度しかないこけら落としの舞台に水を差してしまったことは若気の至りとはいえ本当に後悔している。当時は小劇場がオープンしたことの意味や史上初の劇場建設への親父の思いというものなどまったく何も考えずにきた。阿蘇と河口湖の両劇場に今も周防猿まわしの会の歴史が展示されているコーナーがある。写真のひとつに小劇場こけら落としの写真があるが、そこには何事もなかったような表情でちゃっかり写っているチョロ松と自分の写真がありそれを見るたびに本当に情けなく思ってしまう。

 チョロ松物語の連載をスタートしてこの六十三話で六年目を迎えた。原稿の締め切りが近づく度に一月の短さに驚かされるが、ようやくここまでこれた。毎月、読んでいただいている皆様に感謝申し上げます。小説家を夢見た親父が、自叙伝を何冊かに執筆した。そこには残しておかなければならない猿まわしの歴史や調教論が散りばめられている。証言者が高齢になり消えかけた猿まわしの姿が残された。私も親父亡き後の周防猿まわしの会の歩みを書き残すことが親父から受け継いだ役割の一つと思い原稿に向かっている。

 猿まわしを生業にする集団が増えては消えていく。その中で、我々周防猿まわしの会、そして、阿蘇猿まわし劇場と河口湖猿まわし劇場は、マスコミに取り上げられることがあまりない。それなのに、二十年、三十年の年輪を重ねた後も生き残っている。なぜそれができたのか。できているのか。それをしっかり考えながら、2016年の申年を迎えたいと思う。

 よく、たかが猿まわし、されど猿まわしと我々は言い合う。猿まわしの大衆芸能にも譲れない基本が生きている。しかし、それに甘んじていたのでは時代に取り残されてしまう。台本を壊し新しいものにチャレンジする。下北公演は実験的な公演であったがそこで演じられた演目が今、輝いている。兄弟喧嘩でボイコットした自分は小さかったし、親父を始め兄弟に甘えていた。今は厚い壁に向っている。皆様には申年に向け、試みている新しい猿まわしを是非ご覧頂きたい。ぜひ、阿蘇と河口湖の猿まわし劇場においでください。

第六十四話 ガッツが五郎を「根切り」する

 私も四十歳を前にして調教師として大きな分岐点を迎えようとしていた。

 河口湖猿まわし劇場がオープンして8年目だったか、周防猿まわしの会が阿蘇と河口湖の二大劇場を構えるなかで河口湖猿まわし劇場は多くの人口を抱える関東に位置し、今後の両劇場の発展の鍵を握る劇場であるにもかかわらず、沈滞ムードがただよい改革を必要としていた。阿蘇劇場を母体に河口湖劇場ができその達成感が現状維持の意識を強くしていた。阿蘇劇場に比重を置いていた兄が頻繁に河口湖入りをするようになった。河口湖劇場に魂を入れたいと兄は並々ならぬ闘志を抱いてやってきた。

 なかでも芸能部長である私の役割と成長は大きな比重を占めているにもかかわらず、当の本人である私の腰の据え方の悪さに兄は頭を抱えていた。私は交友関係が広く、何か理由をつけてはアドバイザー、友人といった様々な人達と交流を深めてきた。子どもの頃から末っ子の特性を生かし人の懐に入り込むことが得意だった。この人脈づくりが劇場にもたらす効果もあったと思うが、得意分野に力を注ぐあまり若手と向き合う時間がなくなり、肝心の若手に対してどうしても目が向けられない弱点が残った。この現状を把握した兄は劇場の屋台骨である芸能部の立て直しに着手するが、頑固でわがままな私をどう料理するか本当に苦労していた。兄から厳しく指導が入ると「俺は高校の先生になり甲子園を目指したかったんだ。」とこんな覚悟の決まらない言葉を吐き続けて困らせていた。そんな逃げ腰の私の気持ちを受け止めた上で、何度も何度も私に「五郎、お前の野球部はどこにあるんだ。周防猿まわしの会の芸能部、これがまさしくお前の野球部じゃないのか・・・」と諭し生まれ変わらせようとした。こんな兄とのやりとりが幾度となく続いた。
若手に向かおうと思っている以上に若手調教師のレベルは高く、芸能部長として知ったかぶりもしなければいけない、時には背伸びをした発言をしなければいけない。ほとほと自分の調教師としての能力の低さに気付かされ、ものすごい壁にぶち当たっていた。名ばかりの芸能部長気取りをやっていることが辛く感じていた。

 こんな時にある一頭のお猿さんによって調教師としての新たな道が開けようとしていた。夏休みの真っ只中のこと、チョロ松と私は阿蘇猿まわし劇場の舞台に立っていた。そこに兄から「河口湖に若いお猿さんがいるので阿蘇に連れて行って欲しい」との電話があり、早速翌日私が連れに行くことになった。阿蘇に向かう新幹線の中、小猿は初対面の私と初めて乗る新幹線に怯えていた。そんな小猿を見ているうちに自分が連れに来たのも何かの縁、このお猿さんと周防猿まわしの会の調教を一から学び直したいと思った。真の芸能部長になるためにそれしか私に残された道はないと考えた。まさしく今がチャンスだと感じた。
「この小猿を私に調教させて下さい。そして兄貴に師匠を引き受けてもらい指導してほしい。」と直談判した。兄は喜んで引き受けてくれた。この小猿はボクシングの元世界チャンピオン「ガッツ石松さん」にどことなく似ていたので「ガッツ」と名付け、私も調教師としてのあらたな道を歩み始めることになった。

 周防猿まわしの会の調教用語で芸の仕上げ段階において「根切り」という言葉が使われる。初代会長村崎義正が趣味の盆栽を手入れする際に使われる言葉を猿まわしの調教に引用してきたらしいが、この「根切り」ができていないのがまさしく私自身であったのだが、40歳を目前にしてようやく村崎五郎の「根切り」がガッツの力を借りて行われたのだ。

第六十五話 ガッツの叫びに耳を傾ける

 芸猿にするためガッツの調教が始まった。言い換えれば「私、村崎五郎の根切り」が開始された。夏休みの公演を阿蘇の劇場で過ごし戻ってきた河口湖は秋の気配が忍び寄り調教にふさわしい季節をむかえていた。

 ガッツにとっては初めての河口湖、そして河口湖猿まわし劇場である。早速、まずは河口湖の環境に慣らすことからスタートした。劇場の敷地を出てガッツと散歩をするのだが、敷地を一歩出るとガッツが落ち着きをなくし、激しく抵抗し暴れる。私は「大丈夫だよ。」と何度も言い聞かせ落ち着かせようとするが通常の四足ですら歩こうとしない。数日間トライしてみたが一向に落ち着く気配が感じられず一旦調教をストップすることになった。何十頭ものお猿さんを見てきた兄ですら今までに見たことないぐらい臆病なお猿さんで、まずは芸猿達と生活が安定するまで様子をみようと方針転換した。チョロ松はじめ芸猿達との生活を大事にして様子と経過をみることにした。

 中断して半年近く経っただろうか。ふと猿舎のガッツの表情を見ると顔つきも少し穏やかになっているように感じたので兄に相談し調教を再開することになった。以前とは見違えて警戒心がなくなり、私と安心して調教に臨めるほどにガッツの精神面も安定していた。四足での歩き、二足歩行への調教は順調に進んだが、劇場外へ散歩に出ることは極端に嫌がった。そこで外出は諦め、ガッツが安心して散歩出来る劇場敷地内の遊歩道を利用して二足歩行の練習を数ヶ月にわたり行った。
 そして次の段階にステップアップするために稽古の場所を劇場2階のリハーサル室に移し、いよいよ舞台にあげていくための『立ちまわり』や並行して、数種類の演目の調教に入った。ここでガッツの才能に驚かされた。3歳を迎えるかどうかのまだまだ小猿であるガッツがジャンプの芸で高さをどんどん伸ばしていく。この年齢の猿ならせいぜい50センチから70センチが最高の高さだ。ところが、ガッツは軽々1メートルをジャンプしてみせてくれた。飛び越える際に左手をぐるぐるまわしながら勢いをつけながらジャンプする。このジャンプはガッツだけの特長ある個性的なジャンプだ。このように、猿それぞれに個性が違い、魅力ある芸をみせてくれることが調教の楽しみである。
 デビューするには『立ちまわり』を完成させなければいけない。今度は劇場の舞台が稽古場となる。来る日も来る日も『立ちまわり』の調教に専念した。稽古が始まると兄は何を言うわけでもなく、ガッツとともに成長していく私の姿を見守ってくれて、稽古が終わった時にその日の稽古の総括を一言だけ伝えてくれる。ガッツや兄から学んだ調教については周防猿まわしの会の秘伝なので詳細には書けないけれど、兄が調教師として私に伝えたかったことは技術云々を越え、私がガッツ(お猿さんたち)から学ぶことの大切さだったと思う。自分の気持ちよりもガッツの気持ちを最優先させ成長させていかなければいけないということをくどいほど指導された。

 初代チョロ松と多摩川河川敷で散歩をした際、親父に言われた二十年前のシーンを想い出す。 チョロ松物語第一話にはこう書いている。
 チョロ松へ 親父(注:周防猿まわしの会初代会長村崎義正)に散歩の稽古を指導してもらった時のことを憶えているか。当時の日課だった多摩川の河川敷1.5キロの散歩、半分過ぎたあたりだったかな、疲れてきて歩くのを拒否する君を無理やり歩かせようとする。その時親父が「チョロ松は歩きたくないと言っているのに何故お前は無理やり歩かせようとする。大切なのはまずチョロ松の気持ちだ。」それからしばらくしてチョロ松が歩こうとした時「そうか、歩くか、よしええど」チョロ松と会話している親父に驚いたし、何よりチョロ松の気持ちを大切にしていた。その時、もう1つ大切なことを教えてもらった。「ええか、やらせちょる芸は猿まわしの芸じゃない、お猿さんが自ら動くのが芸じゃ」

 親父の指導から約二十年の時を経て、今度は兄に全く同じ指導を受けている。ずいぶん遠まわりしたなと思うが、真の調教師になるためには自分自身で気づくほか調教師への道はない。

第六十六話 最後に受けたオファー

 ガッツの調教は私にとって調教師としての再出発を意味していた。周防猿まわしの会を代表する名猿チョロ松の相方としての評価やプライドを捨て、一調教師として学びたいその願望が自分を駆り立てていた。ガッツは野生の力を持つ見事なニホンザルではあったが、見かけに見合わず臆病でもあった。当然、ガッツは強がり、他者を寄せ付けようとしない。その性分を掴み一緒に歩み始めるのに過分な時間を要した。それが真の学び直しであり多くのことを学ばせてもらい、今も調教師を続けられ若手と歩んでいけるのもその成果だと感謝している。しかし、自分には思いがけぬ病魔が忍び寄っており成長したガッツと舞台に立つまでに育て上げる余裕は残されていなかった。私とガッツにはそれぞれのドラマが待ち受けていた。

 その頃、初代チョロ松も人生(猿生)の終焉を迎えようとしていた。

 初代チョロ松は12歳で引退してから、阿蘇猿まわし劇場の敷地内にある芸猿専用の家(猿舎)で、周防猿まわしの会復活直後を盛り上げた芸猿・常吉や三平という一期生世代と誰に干渉されることなく余生を過ごしていた。猿舎には現役世代も一緒に生活していたが大先輩の存在は大きくボス猿グル?プとして君臨していた。なかでもチョロ松と常吉とは決して仲が良いとは言えず、常に阿蘇猿まわし劇場のボス争いを展開しながらも引退生活を謳歌していた。しかし猿社会にも世代交代がある。ともに猿まわしの時代を支えてきた名猿達が去っていく中で芸猿社会の勢力図もガラリと変わり、おじいちゃんになったチョロ松も寂しげであった。

 引退後もチョロ松へのオファーは続いた。しかし、静かに引退生活を楽しんでもらいたいという願いで、初代へのオファーは断り、その役割は二代目、三代目に変わってもらった。 ただ断り続けていた初代チョロ松の出演を、珍しく受けたことが一度ある。本当に亡くなる数ヶ月前のことで、関西の某テレビ局が企画している番組である。高齢のチョロ松をテレビの映像で流すことは本望ではなかったが企画書を見させていただいたときに、物珍しさで撮影したいのではないというTV局の気持ちがわかり承けることにした。

 取材当日気になっていたのは、大抵部外者が訪ねてくるとお猿さんたちは警戒し当然チョロ松も部屋から運動場に出てこない。ところが、レポーターTさんが「チョロ松くん」と部屋に向かって声をかけると珍しく顔を出し、レポーターTさんの傍に寄り添うように座った(当然、網越しだが)。そしていつもならカメラを見るとすぐに部屋に帰ろうとするのだが、レポーターTさんがチョロ松にねぎらいの言葉を語りかけているのを静かに聞いていたのには驚いた。普通であれば台本を喋っているだけでチョロ松は当然聞く耳を持たないのだが、レポーターTさんには台本はあったと思うが、知っているチョロ松の思い出を生の言葉で語りかけていたのでチョロ松に気持ちが届いたのだと思う。今もレポーターTさんを見ない日はないというぐらい活躍されているが、チョロ松を取材してくれた時と全く変わらず全国の事件やイベントをより国民にわかりやすく伝えてくれるレポーターT氏のことを一層注目して応援するようになった。

 その取材から数ヶ月後の2007年1月14日早朝、初代チョロ松は眠るように息をひきとった。享年29才8ヶ月(人間の年齢にすると100歳近く)である。後に国民的スターでもあったことを知る。

 実は最も早くチョロ松の訃報を伝えたのは、アメリカのニュースであった。当時カナダにいた甥っ子から、「チョロ松亡くなったの?アメリカのYahooのトップニュースで紹介されているよ」と連絡があり、ネットを検索するとトップニュースで紹介されていた。メディアを通じチョロ松の訃報は瞬く間に全国民に、そして世界に発信された。
意外だったのは皆様からの反応で、「あのチョロ松はまだ生きていたんだ?」という声。余生を紹介しないようにしていたのだから当たり前ではあるけれど、現役引退後も長くチョロ松が長寿を重ねたこと、その環境を維持してきた周防猿まわしの会に対して「本当に大事にしていたんだね」等、たくさんの声お褒めの言葉をいただけたことは嬉しかった。そして、現在も現役を引退した芸猿達は阿蘇猿まわし劇場と河口湖猿まわし劇場でボス争いに明け暮れながら余生を楽しんでいる。

 ウォークマンのCMに出演してから27年も経った今でも、劇場でチョロ松の展示物をお客様は懐かしそうに見ている。なかにはまだウォークマンのチョロ松が河口湖の舞台で活躍していると思って来場してくださっているのか、舞台終了後のお見送りの際に「チョロ松くん!ウォークマンのCM見ていたよ」とよく声を掛けられる。
今のチョロ松は違うよと説明する時間もないが。「チョロ松が生きていたなら38歳、人間にすると130歳、そんなことあり得ない」と心の中で笑いながら、チョロ松はあの訃報以来、皆様の記憶の中で永遠に生き続けているのだろうと思う。ありがたいことである。

第六十七話 突然の痛み

  ガッツは稽古を重ねていくほど日々成長しデビューも間近であると実感していた。ところが、私に調教師として学ぶべき課題が残っているとなかなか舞台に上がれるコンビとしての合格点がもらえなかった。2007年6月、ようやく師匠である兄からガッツ・五郎コンビのデビューが認められた。夏休みまでには河口湖猿まわし劇場の舞台の戦力としてデビューできるよう仕上げの階段を登っていた。

 その6月、三代目チョロ松と私は兵庫県明石市でのイベント出演の依頼を受けていて午前中の舞台出演を終えるとすぐに河口湖猿まわし劇場を出発した。出発した直後、国道をカーブする際に後ろのタイヤが滑っているのを感じ、すぐさま車を停め確認するとタイヤの溝がまったくないことに気付いた。高速に乗る前にイエローハットに立ち寄るがやはりこの擦り切れたタイヤでは兵庫県を往復するのは不可能と判断しその場でタイヤ交換してもらい一路兵庫県へ向かった。出鼻を挫かれた。明石市のホテルへ到着し地下駐車場に駐車するとホテルのガードマンの方が近寄ってきた。『周防猿まわしの会』と書かれた車のロゴを見て、「お猿さんが乗っているんですか?車に乗せたままは困るんですが?」と言われたので、周防猿まわしの会はきちんと届け出しているため何も問題ない旨を伝え調べてもらい、この件も理解を得られたが河口湖出発からトラブル続きで何かと胸騒ぎを感じた。

 一夜明けてイベント当日は朝からいつ雨が降ってもおかしくない天候であった。一回目のステージは何とか天気も持ち用意された会場の客席も一杯でチョロ松も長旅の疲れを感じさせないパフォーマンスを披露し大盛況に終わった。直後雨が降り出した。会場が野外のステージから近くの体育館に移される。舞台道具を移動して準備をしていたその瞬間、右足のふくらはぎに激痛が走った。まだ我慢できる痛みだったので、何とか二回目のステージも行えた。チョロ松は私の異変に気遣う様子、こんな時こそ知ってか知らずか、頑張ってくれる。チョロ松に助けられ無事、役割を終えることが出来、河口湖への帰路へつく。

 河口湖に戻り痛みが治まるのを待つがふくらはぎの痛みは日を増すごとに激しくなり数日後には股関節にまで広がった。痛みの次には舞台上で緊張しているわけでもないのに急に足がガタガタ震えだした。風邪をひいた感じもないのにとにかく震えが止まらなくなり、次には手も震えだした。もともと17歳の時に患った第五腰椎分離症が原因なのではないかと思い急遽MRIの検査をしてみた。これらの症状の原因は腰でない。頚椎、股関節、膝と何箇所も検査してみるしかないという診断がくだる。関節等の痛み止めの処方箋を出してもらうがよくなる気配は全くない。とうとう体重にまで症状があらわれてきた。85キロ近くあった体重が一ヶ月も経たないうちに20キロ近くも落ち、歩くことすらままならなくなった。ここまでくると自分に何が起きたか猛烈な恐怖心が起こり、癌検査まで行ったが、癌の疑いはないという検査結果であった。病気の原因を突き止めたいと考え、あらゆる検査を重ねるが原因不明のまま症状が良くなることはなかった。

 劇場の一番の書き入れ時であるお盆を前にして原因不明の症状を抱えて自宅療養することになった。予想もしていなかった闘病生活に入り当然ながらガッツデビューも宙ぶらりんになったまま、絶好調だったチョロ松は突然舞台のパートナーである私を失い、ガッツとの調教日誌は2007年7月2日を最後に更新されることはなかった。

第六十八話 致死寸前に追い込まれる

​ 4代目チョロ松との舞台、さらに私が調教師として一から育てたガッツのデビューを前にして突然の自宅療養が始まった。二頭の芸猿を使い舞台にあげることは我々の新しい課題であり、ここでそれが可能だという実績も必要だった。私の調教師としての手習いも多くのことを学ぶことができると期待が高まっていた。

私の体を麻痺させる病気の正体は地元の中心的医療施設でのあらゆる検査ではあきらかにならなかった。後でわかったことだが、究明の難しい病気でもなんでもなく、駆け出しの医師でさえ一発で指摘できなければならない病気であり、後にかかった医師達が首をかしげるほど、病名を特定できなかったことに驚かれていた。結果次第では、致死性の心肺停止が起こり命を失っても不思議ではなかった。

話を戻すと、自宅療養の傍ら、改めて医師の指示によりあらゆる検査を徹底的に行ったが原因も究明されず時間ばかりが過ぎていく。ただ、このまま自宅療養しながらの寝たきりでは気持ちも落ちていくし舞台復帰は遠のくばかりである。藁にもすがる思いで腰の病気を患った時にお世話になった兵庫県尼崎の鍼灸師の名医のもとを訪ねることにした。
T先生は私の体をさわってみるなり「これは喉周辺か延髄あたりがかなり悪いですね」と思いもよらない発言をされた。「先生、その辺りはどこも痛みも違和感がないのですが」と答えるとT先生は「すみません。私は医者ではないので正確とは言えませんが」とのやりとりあったが、1時間以上に及ぶ治療は当時の体力からするとかなりの負担であった。施術により慢性的な倦怠感や痛みが和らぐので原因がはっきりするまでは奇跡でも良いからと思い、尼崎へ通うことにした。1ヶ月後、二回目の針治療のため兵庫県へでかける。初日の治療を終えて梅田のホテルに戻り夕方までひたすら寝る。この施術後は驚くほど爆睡できるのが特徴で、起きると梅田の町を散歩しながら夕食をとりホテルに戻る。直ぐに寝つき、翌朝針治療に行くという日課だったが、朝起きて体重計にのると急激な体重の減少が起きていた。痩せることに不安を感じ、食べることに走った。その時には吉野家の牛丼の大盛を三杯食べたが、後にこのことが自殺行為であったことが判明する。

針治療の効果でホテルでは気持ちよく休めていたのだが治療二日目の早朝、つまり明け方午前3時頃、パッと目が覚めた。すると手の指以外体全体がまったく思うように動かない。最初は金縛りかなと思い一度目を閉じ、しばらくして目を開くが一向に体は動かない。次第に喉が締めつけられたように息苦しくなってくる。徐々に自分の置かれている大変な事態に気付き慌てて枕元の電話に必死に手を伸ばし、この間の行動は「生きる」ということだけに必死だったので憶えていないが、とにかくがむしゃらに電話して偶然にもホテルのフロントに繋がり救急車を呼んでもらうことができた。しばらくしてホテルの方と救急隊員が駆けつけてくれた。私の容態を確認して救急病院に連絡するが私の容態を聞いてかどこも病院が受け入れてくれず、たぶん救急車は1時間以上動いておらず八方ふさがりの状況であった。救急隊員の方のあきらめない気持ちがようやく届き受入病院が見つかり搬送された。絶体絶命の時、救ってくれる天上界優心先生に携帯で助けを求める。その時間優心先生に電話が繋がることなどありえないが、携帯の向こうで、助けるから大丈夫と先生が応援してくださった。集中治療室に搬送されるまでは命の危険を感じ、たが原因もわからず処置が進まない。その時、助手と呼ばれていた女性の医師が突然口を開いた。「以前研修医のとき、患者さんと似たような方が搬送され、急に体全体に麻痺を起こし運ばれてきたことがある。その方はなんらかの病気と低カリウム血症の合併症を起こしていて筋肉が動かなくなっていました。カリウムの数値を検査してみたらどうでしょうか。」すぐさま、カリウムの検査をして数十分後、その通りであった。カリウムの数値がほぼ致死に近い状態にまですすんでいた。心肺停止を免れたのは奇跡である。カリウムの点滴を投与して数時間後、全身麻痺で全く動かなかった体が動き出した。早朝に搬送されてお昼前には自分でお手洗いに行けるほど回復していた。外の空気が吸いたく看護婦さんに車椅子に乗せてもらい病院の表に連れて行ってもらうと街の光景を見て驚いた。搬送されるのに1時間以上時間を要したはずなのに搬送された病院から泊まっていたホテルが目と鼻の先に見えた。地獄から生き返ることができた。

 早朝に搬送されたことを兄に連絡しておいたので、すぐさま兄は車椅子も用意して寝て帰れる車まで準備して甥っ子と一緒に山梨県から大阪に駆けつけてくれた。兄は私と病院で対面するまでは最悪の状況を想定していてか、自分で歩いている姿を見た兄は拍子抜けのような顔をしていた。 病院からは病名がはっきりしないので三日間ぐらい検査入院してという話もあったが落ち着いて治療が出来ることを考慮して山梨県に戻り病院を探すことにした。病名は男性には珍しいバセドウ氏病が疑われ、吉野家の牛丼を食べ過ぎ、極端にカリウムが減少し、死の寸前まで追い込まれたのが今回の事例であった。

優心先生に命を救って貰った。危機一髪、命がつながり、病気を的確に診断して処置し てくださる緊急医師に出会えた。投宿している「阪急ホテル」の方は何度も見舞いに来てくださった。「何か不便なことや出来ることがあればおっしゃって下さい」と親切に対応していただいた。数ヶ月後、回復に向かいかけた頃に大阪のホテルに宿泊も兼ねてお礼に行った際には快気祝いと、部屋をグレードアップしていただいた上にディナーまでご馳走になった。迷惑をかけたのにこの応対には涙がでた。一方、朝一甥っ子と駆けつけたくれた兄は折角大阪に来たのだからと、数あるたこ焼きの名店から候補を選んで購入し、私を車に載せ山梨に向かった。

第六十九話 あっけない病名

 低カリウム血漿という症状が自分の命さえ奪う怖い症状でありながら、また、それほど発見が困難な病気でないのに、突き止めることができなかった。。山梨県に戻るとネットで疑わしいと言われた腎臓内科をみてくださるだろう専門の医師をしらみつぶしに調べた。いつ再発の可能性があるかわからない。自分の直感を信じ、東京都立川市にある国立病院にて執務しているM医師のもとへ尋ねることにした。病院の受付にて腎臓内科のM先生の診察を受けたい旨を伝えると、M先生に関しては完全予約制で早い診察でも一ヶ月近く予約はとれないと言われた。大阪でのことを事細かく事務の方に伝え一刻も早く先生に診察して欲しいと懇願して、最後の患者さんが終わった後でよければ診察してくださることになり数時間待つことにした。
M先生の診察の時間を迎え、ここに至るまでの数ヶ月、数年間の経緯を聞いたM先生は、「今から検査はしますが、間違いなく病名はバセドウ病です。」と断言した。これまであらゆる検査を行って一度も指摘されなかったバセドウ病を問診だけで断言した。思いもよらない病名にただただ驚いた。M先生の所見はまず数ヶ月前にふくらはぎに痛みがはしり、意味もなく体が震えだし、運動もしていないし暑くもないのに大量の発汗が続く、体重が一気に減少する。このことだけでもまずは甲状腺を疑うべきであると言われた。さらに血液検査を行えば今回の症状への説明もつく。炭水化物の多量摂取により低カリウム血漿との合併症を起こし全身の麻痺状態『同期性四肢麻痺』を起こしたのが今回の症状だったらしい。 続けて「私はバセドウ病の専門医ではないので、専門である内分泌科の専門医を紹介するのでまずは検査をしてきてください。」と伝えられ検査をすることになる。すると検査と言っても血液検査、心電図といった簡単な検査しかせず、こんな簡単な検査で今まで苦しんできて病気がわかるの?と疑いももった。

 検査結果が出て診察室に呼ばれると紹介された内分泌科の専門医S先生がいらっしゃり、温厚そうなM先生とは好対照でぶっきらぼうな雰囲気のS先生であった。「まずは検査結果から、M医師からも言われたと思いますがあなたはバセドウ病です。治療法としては手術も考えられますが、投薬治療を進める。」等々淡々と話された。完治にはどれぐらいかかるのか尋ねると最短でも5年、人によって様々だが10年、20年かかる人もザラらしい。仕事への復帰に関しても仕事内容によっても異なるが舞台への復帰は現段階では見通しがつかないと言われた。当然こんな診察結果を突きつけられた直後はこの話を受け止めることもできず私が不審感をもった表情をしたのかもしれないが診察の最後にS医師から一言、「もし君がセカンドオピニオンを求めるのであれば別の病院を紹介しますよ。」と言われたが私は「是非とも先生に診てもらいたいので宜しくお願いします。」と伝え次回診察予約して帰宅した。

 しかし原因がはっきりしてからは気持ちが前向きになり、投薬の効果もあり減少続きであった体重も一ヶ月で10キロ近く戻り体も自然に動くようになってきた。S医師からも「処方箋があっているみたいなので当面様子をみていきましょう」と伝えられ治療は順調にきてることもあり思ったより早い復帰が出来るかもしれないと思えるほどだった。けれどもそうは簡単にはいかなかった。気持ちと体が噛み合わず腹立たしい時もあったが、焦らず手伝えることは積極的に行い社に顔を出し、徐々に社会復帰出来る希望がわいてきた。

第七十話 とっさの決断

 投薬治療を続けて約半年がたった。効果もあり、体の調子も良く舞台復帰への兆しが見えたかと思い行動に移そうとするが身体の震えが止まらず自分の体ではないのかなと思えるぐらいコントロールすることが出来ず結局復帰への道は遅々とした回復、悔しい思いが続いた。

 ところが、この閉塞感を打ち破る出来事が起きた。バセドウ病を発症して1年半以上が経った2008年12月15日の夕方、若手芸人の笑から突然メールが入ってきた。沖縄出身のこの女性調教師は、周防猿まわしの会の基本を実践して、いよいよこれから花咲く時誰からも将来有望と期待されていた。ところが思い通りにならないのが残念だが、コンビを組んでいた芸猿・福之助が稽古中に右足を骨折し全治1ヶ月以上の診断が必要と連絡を受けた。福之助・笑コンビは正月公演のイベントの出演も決まっており、どう考えても残り2週間では回復に間に合うわけもない。怪我をしたときこそ、慌てずじっくり待ってあげることが大切なのだ。

しかし笑からのメールが届いた直後、「ここはチョロ松・五郎コンビの復活しかない。」と即座に判断する自分がいた。芸人の笑には「福之助の怪我は残念なことだが、まだまだこれからの芸猿。ここはまずは治療に専念して下さい。福之助・笑コンビの代わりに私が舞台復帰するので安心して治療に専念して下さい。」とだけメールを打ち返した。返すと兄に連絡し「チョロ松が復帰しますので」と伝えて正月体制を組み直してもらった。バセドウ病が震えを起こし力を奪うのに、その時、復帰できなかったらどうしよう冷静に考えることなど私自身にはなかった。決して全快しているわけではなかったのだがいつ回復できるかわからない病気、今私にとって一番の特効薬は舞台に復帰することではないのかなと考えていた時期でもあり、何か復帰に対して踏ん切りをつけるきっかけとチャンスをうかがっていた。  ただこの時点で三代目チョロ松は年齢も14歳を迎えたうえに1年半という長期休養のブランクがありどう考えても復帰するには無理がある。私が復帰の相方にと選んだのが後の四代目チョロ松である。周防猿まわしの会では不測の事態にも対応出来るようにと、一人前と認めた調教師に、もう一頭お猿さんを育ててもらうことにしている。脂に乗った芸猿が出番を待っていたのだ。舞台に立つお猿さんとしても天下一品であるが幼い時にちょっと甘やかして育てられていることでかなりわがままで一筋縄ではいかないお猿さんであった。周防猿まわしの会の調教師であっても使いこなせるとは言えない荒々しさと強いプライドをもっていた。力だけで制御できるほど単純でない。前には四代目チョロ松、背後はバセドウ病、と背水の陣である。

 こんな形での復帰は予測できなかったが、わたしの闘病生活を支えてくれたお猿さん、ファンんの皆様、周防猿まわしの会の仲間のためにと思うと、這ってでも前に進む、どんな形であれいよいよチョロ松・五郎コンビが復帰する時がきた。兄に台本を書いてもらい、すぐさま稽古を始めて、決断をして5日後の週末には四代目チョロ松・五郎として舞台に立っていた。

第七十一話 お猿の同級生、大活躍!

  長引く病気で気力も体力も落ち込んだ自分を、病の底から引っ張り上げてくれたのは、福之助のアクシデントが、くすぶっていた舞台復帰への希望の灯をともしてくれたからだ。

 会を代表する名猿の福之助が正月を前に怪我をした。相方の笑には慰めの言葉もでない。せめて、代役をつとめあげること。その通リ、正月の舞台で四代目チョロ松は私のブランクを消し去るほどの芸で集まった観衆をうならせた。今こそ復活の時、チョロ松もお客様も背中を押してくれた。この四代目チョロ松と歩んでいく覚悟を決めた。それ以来、病気が悪化しないように注意しつつ舞台に穴をあけたことなどなくここまでこれた。

 しかし、私の気持ちには引っかかるものがあった。それはガッツである。ガッツは四代目チョロ松と同期で相部屋なのに性格はまったくの正反対、けれど仲が良かった。慣れない環境に来た時猿は群れになる。ガッツとチョロ松も二人で力を合わせて生きてきたのだ。  もう一つ心配なのが、笑が担当する福之助の回復が遅いのだ。笑の気持ちに一番近い自分には舞台復帰が叶わない笑の焦りと申し訳無さががよくわかる。そこで、兄と相談して福之助の怪我により宙ぶらりんになっている調教師笑に福之助が復帰出来るまでガッツと練習したらどうだろうかという相談を持ちかけた。

華奢な笑に6歳のたくましいガッツ 。大の男でもガッツに向かうには、二の足を踏んでもおかしくないほどの身体的なミスマッチ。成猿になったお猿さんとコンビを組むためには最初が肝心である。笑はガッツの前に立ちはだかり、自分がボスだと宣言した。笑に襲いかかるガッツ。堂々とした笑の態度にひるんだ瞬間、勝負は決まった。それ以後、ガッツは借りてきた猫に等しく笑の相方として動くようになった。もともと、周防猿まわしの会の基本がしっかり身についているのでガッツが基本を失うことはない。自分もこだわったこの基本芸が笑の手で花開いた。

 当初はガッツの調整をしてもらえばよいと安易に考えて始めたが、笑とガッツの相性も合っていたのか、一日一日ガッツは笑と成長していった。福之助の治療も思った以上に時間を要する展開になり復帰のメドがつかない状態だったのでガッツを福之助としてデビューさせることにした。調教師笑はガッツの持っている能力をいかんなく引き出してくれた。ガッツの最も輝いている演目は『魚屋さん』。周防猿まわしの会の曲を1000曲も手がけてくださった音楽家兼ピアニストの青木晋太郎さんの曲にみんなで作詞した。今や福之助・笑コンビの代名詞とも言えるヒット芸だ。何百回と「魚屋さん」のネタを見てきているが、「もうみ過ぎて飽きたなぁ」と一度も感じたことのない、一見リヤカーを引いて歩いているだけ、天秤を担いで歩いているだけと思いがちな単純な芸を見せられているようで、この芸の中に猿まわしの芸の奥深さ、いや猿まわしの芸の真髄さえ感じる。今や周防猿まわしの会を代表する押しも押されもせぬコンビとして獅子奮迅の働きをしてくれている。

 お猿さんがやらされている芸はつまらない。よく(タナ・・・芸猿と調教師をつなぐヒモ)を「猿まわし師・・・我々は調教師と呼ぶ」がひっぱり無理やり芸をさせるシーンを見かけるが、あれこそ最低の芸ではないかと思っている。人間の傲慢さを見ぬいたお客様が、みっともないねと教えてくれるが同感だ。調教師と芸猿の絆を下に芸猿が舞台いっぱいに自由に動きまわる芸こそ見応えある猿まわしだと思う。ヒモで引っ張り回して「猿まわし師」と自称するのでは、形つくって魂なし、世間の心も離れていくだろう。この流れと全く反対の世界を演じるのが福之助・笑コンビである。関心のある方は一度阿蘇猿まわし劇場で舞台をご覧になってほしい。周防猿まわしの会のコンビは良い意味でも悪い意味でもいろんなことに気付かせてくれる鏡である。私は、自分を見つめなおす時に毎回、福之助・笑コンビを見る。猿まわし芸の原点に戻れるヒントをもらうためだ。

 12年に一度の申年、天候に恵まれ、阿蘇猿まわし劇場、河口湖猿まわし劇場共に賑やかに初笑いをしていただいた。あまりマスコミから声もかからない無名な我々だが、いつもの年よりお猿さんに注目していただいたお客様に各地からおこしいただいた。

 今年の春(2016年2月1日)、阿蘇と河口湖の劇場で2頭のスター猿がデビューする。お猿の命ある限り、舞台で輝かせることこそ私たちの大事な使命である。日本で唯一の無形民俗文化財に指定された我々の芸も守らねばならない。

「またこようね・・・」と言いながら家路につく家族連れにそっと頭をさげた。

第七十二話 ラストでないけれど、ラストシーン

 ちょうど6年前の同時期、突然兄から「チョロ松物語を書いてみないか?」と話を持ちかけられた。勉強はからっきし駄目だったが親父譲りの記憶力を生かし、2010年6月1日より連載スタート、その時点では「たぶん七十話近くなるんじゃないかな」と話していた。予想通りの七十一話まできたが、七十二話でペンが止まった。当然チョロ松物語には続きがあり、本編においても書き忘れ、書き損じ多々あり、書き足りてないのも事実だ。敢えてここで一度ペンを置くのは、書こうとしていることが現実に近かく、かなりリアルで生々しくなったから。一旦中断させていただき、またその時期が来た時に再開という結論に到った。

 私こと村崎五郎の人生は一言でいうと破天荒を地で生きてきたようなものであった。それを補ってくれたのがまさしくチョロ松との出会いであった。このコンビに関心をもち応援をいただくことで、色んな方に出会うことができた。

 なかでも猿まわしの調教師・芸人として私が携わった30年、様々な方が調教師を目指してきた。「こいつは何年か鍛えればモノになる。失礼だが、この調教師は良くて5年・・・10年でも頑張ってくれれば可能性が広がるかもしれない。」色んな想いを持ちながらも猿まわしという特殊な芸能に飛び込んできてくれて感謝して真摯に向き合ってきた。

 しかし、自然界で培った能力を持つ日本猿と共に歩み、芸を育てていくこと、舞台に立つことは厳しくほとんどの人間が去っていかなければいけなかった。

 意外な人間が今では河口湖猿まわし劇場の大黒柱として獅子奮迅の活躍をしてくれている。芸名は常次(じょうじ)。熊本県阿蘇の出身で、職員からの紹介で阿蘇猿まわし劇場のスタッフとして現れた。入社して一ヶ月後の夏休み、偶然チョロ松と私の舞台を見て、常次から「調教師になりたいと持ちかけられた。」
 ただあまりにも痩せすぎてとても野生のお猿さんに向かえるような迫力はなかった。胃の一部を切除したばかりと聞いた。本人のやる気を買い入門許可が出た。第一印象は「まあもって3年、5年、いや10年やってくれればみっけもんだな」程度しか期待してなかった。常次はいつも期待されない存在で評価が低いのに、会がピンチの時、必ず緊急要員の一人となって劇場の礎となった。
 そんな常次も猿まわしを去らなければいけないような事件があった。阿蘇猿まわし劇場でデビューし、持ち前の器用貧乏さと軽さでメキメキと力をつけ、河口湖猿まわし劇場がオープンして一年後、舞台真打ちとして大抜擢された。河口湖入りして間もなく、常次は職員に一目惚れし、気持ちの収拾がつかなくなった。プロポーズしたが、呆気なくふられた。その後も、はね返されても諦めきれず何度も何度もアタックしたが、その度に撃沈してしまい、最後には自暴自棄になり最悪の結論として夜逃げした。
 夜逃げして初めて事態を知った私は常次に何度も電話するが繋がらず、二、三日してようやく電話が掛かってきて「とりあえず、戻って来い!1人の女にふられたぐらいで人生を捨てるのはあまりにも勿体ない」。しばらくしてやり直したいと申し出があったので復帰、踏ん張って再出発したからこそ今の『勇次・常次コンビ』がある。常次のその後が知りたい方もいらっしゃると思いますので紹介しますが、その後何度も何度も同じ子に懲りずにプロポーズした結果、今はその職員だった女性と幸せな家庭を築いている。故郷熊本県を捨て、いや、離れ、山梨県の女性と身を固めた。
 2014年の正月に、かけがいのない二人息子の内、長男を闘病生活の末失った。小学校に通う美少年であった。それから、一週間後、相棒の勇次と常次は何もなかったかのごとく舞台に復帰した。せめてと渾身の想いをぶつけるシーンを台本にし舞台のラストシーンに敢えて演じてもらいお客様にお見せしている。涙なしに見れないのは我々身内だけでなく、事情など全く知らないお客様も涙される。
 気付いてみればあっという間の24年、今現在(2016/2/29)もしぶとく頑張ってくれている。河口湖猿まわし劇場で『勇次・常次コンビ』として根強いファンがいるが、もちろん一番のファンは天国から応援してくれている。河口湖猿まわし劇場で骨をうずめる覚悟を決める。ありがとう。

 幼少の頃から協調性のない人間だった私にも五男という特性・・・甘え上手・・・を生かし友人だけは多い。特に小学校、中学校、高校生時代の友人というのは昔と何ら変わらず友人関係を続けている。私のぱっと見た目はいかつい感じで、とっつきにくく思われがちですが、子供の頃から知る友人というのは見た目と違う人間としての弱い部分やもろい部分も本当に理解してくれていて真正面から付き合ってくれるので私も本音で付き合うことが出来、遠い山梨県に来ていても何かと気にかけてもらい猿まわし劇場ともども応援してもらっている。
 数年前に伝統芸能猿まわしがお猿さんを確保出来なくなるかもしれないという危機に直面した際には、たった一週間という期間に全国47都道府県から何千人もの方々が「周防猿まわしの会に何とかお猿さんを確保させる道を残して欲しい」というパブリックコメントを環境省宛に集めて送って下さった。その時も、縁遠くなっていた故郷山口県光市だけで、数千人の方が及びパブリックコメントを提出してくれ、猿まわしの危機を救ってくれた。

 最近、大学時代に親友とも呼べる人間だった友と何十年ぶりに再開した。自分も弱かったので、プライドの持ち方を誤り一生の友を失うところだった。

 チョロ松・五郎実話は進行中です。自分らしく生き、生かされ、チョロ松や仲間、友人から応援いただいて豊かに生きていきます。今月はそうそう、古川顧問が来られます。続編が掲載されたならまた宜しくお願いします。これまでのご愛読に感謝申し上げます。

  周防猿まわしの会 チョロ松四代目・村崎五郎

2016年申年 2月29日

第七十三話 「よいものは残る」

「話」は45年前に遡る。

 1978年9月3日(日)、舞台は山口県光市「光市五万人虹の祭典」、光市民ホールの中庭には「周防猿まわしの会」の復活デビューを待ち望んでいた光市民の四重五重にもなった人垣ができた。輪の中心にいるのは父村崎義正(周防猿まわしの会初代会長)。お客さんの輪から離れたところから遠くで見てた私も復活デビューのその時、周囲の騒ぎ方をみて、なぜか緊張して待ってたのを覚えている。いよいよデビューの瞬間、芸猿ゴローが見事なくす玉割りを決めると拍手と大歓声に包まれた。15年ぶりに伝統芸能猿まわしが日本に復活した日である。1977年12月2日、周防猿まわしの会を結成してからからわずか10ヶ月でのデビュー、周防猿まわしの会を率いていた父義正の成し遂げたこの出来事は並大抵のバイタリティではなしえない。私の誇りであり、更なる尊敬の念をもった瞬間であった。

 当時、私は地元の中学校に通うごく普通の中学生。五人兄弟の末っ子、幼少期から自由奔放に育てられ勉強には一切目もくれずに大好きな野球に没頭する日々。3人の兄貴が猿まわしの後継者としてすでに携わっていたが年の離れた五男の私には当然継ぐ必要もないと思っていた。父も含め周りは私にも事あるごとに「将来は猿まわしの調教師になるか」と言われてきたが「絶対、やらない」と即答で断固拒否し続けていた。父義正のことは本当に尊敬していたのだが、猿まわしを継ぐかというとそれはまた別の話であった。ただ、無意識からなのか時間があれば調教、稽古はよく見ていたのは記憶に残っている。

 そして45年後、2023年9月2日(土)、3日(日)、「周防猿まわしの会 デビュー45周年 ふるさと公演」の大舞台に五代目チョロ松・五郎コンビは舞台に立つ。この45年後を担っている調教師・村崎五郎を予想できたのは父義正だけなんだろう。また、50周年ではなく45周年にふるさと公演をおこなうのには特別な思いがある。この舞台は「2016年熊本大地震からの復興」「コロナ禍からの復興」の出発点にしたいという願いである。先の見えないトンネルを抜けて「周防猿まわしの会」は猿まわしのさらなる発展へ歩みだす。この素晴らしい伝統芸能を継承してくださった先達に感謝し、国民から愛される芸能として精進していくための再スタートをきる気概を持って、舞台に上がる。

父義正がデビューの際に市民に語った口上が本人の著書に残されている。「日本列島で千年ものあいだ国民に親しまれてまいりました猿まわし芸が滅びたのでは国民の皆様に申し訳ないと考え、また、復活することが、猿まわしのふるさとに生まれ育った私達の責任だと位置づけまして復活運動に取り組んでまいりました。」

その後13年間という短い猿まわし人生を駆け抜けるように突っ走り命を注いで周防猿まわしの会を育て、後継者が活躍する基礎を残してくれた。しかし、父義正は、56年若さで生涯を閉じた。

復活デビューの舞台に立った、周防猿まわしの会の同人、義正が期待し育てた人材、義正の弟、息子にあたるメンバーは、現在一人も周防猿まわしの会に残っていない。周防猿まわしの会の偉業を切り開いたのは義正会長そのものであり、身近なメンバーからのねたみをうけることとなった。周防猿まわしの会の調教法を「にわか仕込み」、自分たちこそ本物の調教法を「本仕込み」と主張して、吹聴して回った弟。義正の実の息子に至っては、猿まわし復活を成し遂げたのは自分だと、いうものも現れた。死人に口なし、都合の良いことは自分の手柄にする。周防猿まわしの会からの離れ方も、汚い。周防猿まわしの会の芸猿と営業車を、夜逃げ同然に持ち去った。また、義正亡き後、思い通りにならないとみるや、権謀術数を巡らせ、仲間を募り、芸猿を盗ませ、会の分裂を実行しようとした。その全ての企ては裁判によって断罪され、あるいは、「本仕込み」とやらで調教された芸猿はお客様の前で、公演の間、調教師に嚙みつく始末で、動画の提供やその公演を見た方から、見ていられないとの声をいただいた。周防猿まわしの会への抗議電話もよくあった。周防の猿まわしというから、見ていたけれど、内容がひどいのか、見損なったという電話である。ところが、周防猿まわしの会は指摘された所で公演を行っておらず、周防猿まわしの会の名がつかわれたと合点した。

コロナ明けの2023年夏休み、猿まわし劇場はこども達の笑い声、それをニコニコ眺める大人達の笑顔で溢れた。義正は「輪の中は童話の国」と表現したが、今も、猿まわしの原点は健在である。

義正からみんなの力になってほしいと周防猿まわしの会に参加した長男、と五男の私が、45周年を企画した。地元の恩師と友人が45周年を見守る会を結成して応援してくれていて感謝で、一杯だ。光市と光市教育委員会の後援をいただき、市川煕市長さんからお祝いの言葉をいただける。何とも光栄の極み。

二日間、五公演は応募直後から満席である。

五代目チョロ松のあたり芸からオープンする。その顛末は次回に譲り、復活チョロ松物語73号はここまで。